ただの直感にすぎないが、これは、日本経済の凋落の序章になるかもしれない。経済は「正義」と「悪」で動いているわけではないから。
(2018/11/20)
アメリカの中間選挙の投票が始まる日なので、またすこしアメリカについて考えてみたくなった。オウム真理教の「元幹部」たちの処刑のことを書いて以来、4か月も何も書かなかったが、たしかにその後、日本では、「祟り」と言えば言えないこともないことが連続して起こった。
わたし自身に関して言えば、さいわい、「祟り」がふりかかることはなく、けっこう忙しかった。『アキバと手の思考』のフランス語訳が出るので、フランス人の訳者から頻々と問合せがあり、自分では気づかなかった自分の文章の意味を考えなおし、回答したりしたのも一つ。パリからすこし離れたブロワのFondation du douteのキャフェ・フルクサスで開かれた「アンテルフェランス」(狭義には電波の「混信」だが、政治的な「介入」の意味もある→サイト)のためにラジオアート「作品」(→YouTube映像)を作ったり、雑誌『myb』に「キャッシュレスからメディアレスへ」というメディア論的考察を書いたり、ネット版の『グラフィケーション』の最終号に前編集長田中和男さんの追悼を書いたり・・・なんてことをしていた。
トランプ現象を2年ほどながめてきてわかったことは、彼は、ちゃんとした構想があったわけではないとしても、結局、アメリカという国家を変えることに「貢献」するだろうということだ。それは、彼が「再建」すると言った「アメリカ」へ変えるという意味ではない。そうではなく、そういう「アメリカ」も含めて既存のアメリカをぶっ壊すことに彼が役立つだろうということである。
いま、国家らしい国家を前面に出している国家は危機に瀕している。たとえば、ソフトバンクの孫氏が5兆円もの出資をした(が最近の記者殺害問題であわてている)サウジアラビアがいい例だ。国家が、自己変革できないシバリを有している国家はどこもあぶない。が、国家の自己変革は「無国家」への動きではない。いまの資本主義体制(情報資本主義)にとって都合のよいように、国家を変えるか、あるいは、既存の「国家」を括弧にいれる動きである。
これまで、企業は、そのつどの都合で国家に頼ったり、国家に取り入ったりしてきたが、情報資本主義の時代には国家は邪魔以外の何物でもない。アントゥレプレナーやスタートアップにとって、国家は桎梏である。いま名前だけはやりの「ブロックチェーン」が本領を発揮したら、いまの、国家らしい国家なんてふっとんでしまう。
アメリカに関して言えば、アメリカは国家レベルでは全然変わっていない。これまで変わるチャンスは何度もあったが、そのつど戦争を起こすことでそれを回避してきた。しかし、トランプは、当面、大きな戦争を起こす口実を見出すことができない。トランプが大言壮語をしていられるのは、アメリカにはもやは(当面)「エネルギー危機」はないからである。日本だって、あれだけのスキャンダルが露呈しながら、同じ政権が続いているのも、エネルギー問題では(当面)安泰だからだ。ガスの時代の僥倖(ぎょうこう)である。
しかし、情報資本主義的なロジックからすると、戦争と平治を繰り返すやり口はもうコストがかかりすぎる。トランプの選挙で露呈した「選挙人団(electoral college)」という制度のどうしようもない古さや選挙方式の「遅れ」がまさにアメリカ「国家」の古さであり遅れである。そんなことは、アントゥレプレナーやスタートアップという概念自身を生み出したアメリカの企業家や起業家自身が知っていることである。
その場合、日本は、資本主義の針を遅らせても「天皇制国家」という体制を維持しようとする方向を選んできたが、アメリカはそういう方向は選ばないだろう。
その点で隣のカナダは、アメリカより一歩先を行っている。カナダは、10月に「娯楽目的のマリワナ」(recreation marijuana) の使用と売買を国家規模で合法化した。が、これは、別にカナダが国家的に「自由」でアメリカや日本がそうでないということではない。 ちなみに、アメリカは州によってマリワナを合法化しているところもあり、その動きはますます強まっているが、連邦国家規模では全然合法化してはいない。
事実、カナダでは、早くもタバコ会社や製薬会社がマリワナの製造販売に進出を開始した。
つまり、カナダにおける国家の変貌は、新しい「巨大」になることうけあいの産業を一つ生み出したのであり、資本主義に国家が準じたのである。それは、国家にとっても賢いことだろう。さもなければ、国家は存在理由を失うからである。→参考
考えるべきは、国家についてよりも資本主義についてである。しかし、資本主義の先もまた、資本主義が進んだ、いや、進みすぎた場所であらわになるだろう。その意味で、いま、世界は、国家をあいだにはさんで資本主義のいまと先とを見せなが揺れているとても面白い局面にあるのだ。
(2018/11/06)
オウム真理教の「元幹部」たち7人が7月6日金曜の朝つぎつぎに処刑されとあと、法務省内には「平成の事件は平成で」という考えがあるというような報道が流れた。そうだとすれば、日本は依然として「迷信の国」である。
元号制で規定されているとしても、元号にはなんらか「宗教的」な要素がつきまとう。迷信の国は世界中にいくらでもあるから、別にそのことを気にする必要はない。が、そういうものを一掃する方向で動いてきた「近代」のロジックとの齟齬や乖離はさけられない。
日本は、そのため、「近代」がかかわる面(経済やテクロノロジー)では必ずダブルスタンダードを必要とする。人間は合理性では割り切れないから、そもそも「標準」などというもの自体がタテマエであり、現実はマルチスタンダードで動いてはいる。しかし、タテマエ自体がダブルでは当事者はやりにくいだろうなと思うのだ。
死刑とは、報復の思想を前提としているから、国家が代理報復をするということは、国家が報復を認めているということである。したがって、死刑は、決して、恨みの暴力を抑えることも諭(ただ)すこともできない。死刑のあるかぎり、他者の命を奪うという行為を抑え、改める方向は生まれない。実行者の方も、死刑を覚悟するならば、いかなる残虐な行為も行えるということにもなる。
日本は、ある時期から明治のあまりにふるすぎる刑罰制度をあらため、「矯正」という観念を前面に押し出した。明治の「内務省監獄局」は、「法務省矯正局」になった。内実は変わらないとしても、犯罪者は処罰・報復するよりも「矯正」するという方向が取り入れられたのだ。
「矯正」というと、いまでは歯の矯正を思い出すひとが多いかもしれないが、犯罪者の「矯正」は、英語の「correction」を輸入して翻訳したのであり、ここには、「犯罪者」は「訂正」「あらためること」が可能であるという思想が前提されている。ただし、注意しなければならないには、刑務所を「correctional institutions」(矯正施設)と呼んで「近代」ぶっている国でも、「矯正」と称して洗脳や文字通り「労働キャンプ」のような強制=矯正労働を課してきた国もある。
いずれにしても、日本でも、犯罪者は「矯正」可能な存在とみなされている。しかし、それでは、なぜそういう「近代」風の形而上学のもとで死刑が可能なのだろうか?
それは、死刑囚を「犯罪者」とはみなさない「超法規」が設けられているからである。それは、法律のうわべを読んでも書かれていない。が、「忖度」の世界と同じようなかぎりなくひろがる日本の「闇」の世界の論理をあえて読み解けばそう言えるといったたぐいの事実である。
その証拠に、死刑囚は、絶対に「刑務所」(・・・矯正所)には入らない。死刑が確定した者は、すべて「拘置所」に入れられる。が、拘置所とは、裁判で刑が確定していない未決囚が入れられる場所である。ということは、死刑囚というのは「未決囚」なのか? おそらくそうなのだろう。
むろん、それも、前述の「闇」のロジックでしか定義できない「未決囚」である。判決は受けているが、未決囚であるというのは、「近代」のロジックでは矛盾であるが、そういう批判はこの世界には通じない。
しかし、この一見矛盾したロジックをまともに受け入れるならば、死刑は死刑宣告を受けた者を「未決囚」として殺すのだが、それは「処刑」ではないのだ、とみなさなければならない。
ここにも、また、ある種の迷信が作用している。つまり、この国家は、依然として、祟り(たたり)を恐れるあまり、言文一致的には、死刑によって死刑囚を殺したとは認めないのである。
もともと、日本では敵の権力者を倒したとき、その祟りを恐れて、神社や記念碑を作り、その恨みの魂をなだめようとした。靖国神社の前身は「東京招魂社」と言われた。そういう恐れ(への迷信)がこの国家にはいまだにつきまとっている。
とすると、ひょっとして、7人もの「敵」を殺害したあとには、なんらかの祟りが起きるのだろうか? そういえば、ことしは、わたしの知り合いや友人を含めて死ぬひとが多い。それは、1988、9年の昭和の終わりの時代を思わせる。
「平成の事件は平成で」と言ったひとは、おそらく時代に不吉な年というものがあるということを知っているのであろう。そうだとしたら、そういうことはいち早く「国民」に知らせるべきである。
(2018/07/08)
トランピズムをずっとウォッチしながら何も書かなかったのは、3か月まえの予想がそれほど変わってはいないと思ったからでもある。 トランプはキムと会うだろう、そして、その会い方は、トランプにしのびよる「弾劾裁判」と無関係ではない、といったことである。
トランプは、世界平和に貢献しようという意思はない。まして、朝鮮半島の「平和」を促進したいなどとは思っていない。彼は、世界も国内も、政治も経済も、対立こそが動かし、権力や経済効率を高めると信じている。
彼は、弾劾裁判が彼にとって不利に傾くのではないかと思われた時期に、キムとの面会を構想した。それには、ニクソンがその危機のとき北京に毛沢東を訪ねたように、トランプがピョンヤンに飛ぶことが必至だった。しかし、その後、この「劇的」な構想を弱める動きが出てきた。南北朝鮮の首脳会談の「劇的」な成功と、トランプの中東政策の(彼にとっての)「成功」である。
トランプとキムとの会談の場所が、シンガポールになったとき、トランプが難色を示し、会談の予定が破棄されたのはこのことと関係がある。
そもそも、シンガポールが選ばれた背景には、ロシアのプーチンの希望を忖度した気配がある。シンガポールは、プチーンにとってコントロールしやすい場所である。それは、歴史を瞥見すればすぐにわかることだ。だから、最終的にシンガポールでの会談が決定したとき、プーチンが歓迎したのは当然なのである。
ちなみに、最新のFOX Newsがあらためて「The Latest: Putin welcomes Trump-Kim meeting in Singapore」というニュースを流したのも、プーチン/トランプ/トランプ支持メディアとの関係を考えればなるほどと思える。 →参考
何度も書くが、トランプほど、プーチンに貢献的なアメリカ大統領はいない。この間に、彼は、「イラン核合意」を離脱し、さらに、エルサレムへ米大使館を多くの反対を押し切って移転したが、この結果、イランからの原油の輸出を抑え、西アフリカからの輸出を増加させることに「成功」した。イスラエルのネタニヤフ首相もプーチン詣をし、ロシアに接近しつつある。要するに、トランプの強硬策は、プーチンの勢力拡大に大きな貢献をしたわけだ。
トランプは、21世紀をプーチン帝国の時代と考えているのだろう。そしてそのためには、自分もミニ「プーチン」になることが得策だと考えているのである。彼のやり方は、プロレスのリング上での「威嚇」に似ているところがあり、関税をかけるとか、イスラム系の流入者を排除するとか、TPPを白紙にもどすとか言いながら、実際には、それほどでもない(現実に不可能だし)ようなところがある。
しかし、こういうやり方は、独裁制のカルチャーを浸透させるのには役立つ。トランプに盾つけばクビになるという雰囲気、特権を行使して政治的にも経済的にも一見「効率の悪い」ことをくりかえすことによって、すべてを動かしているのは自分だというイメージを定着させるわけである。
実際には、政治も経済も、もはや独裁制では動かないから、それは、メディア効果にすぎないにしても、プーチン時代のレジティマシーとしては効果があるのである。
トランプは、彼の「弾劾裁判」がせいぜいのところ、ビル・クリントンの程度で終わると踏んでいる。それを確信した段階で、彼は急速にピョンヤン訪問の興味をうしなった。
2020年の大統領選に対しても、すでに2018年2月の段階で、ブラッド・パーセル (Brad Parscale)を再選キャンペーンのマネージャーに選んでいる。パーセルとは、以前ここでも触れた、「アラモ・プロジェクト」の仕掛け人であり、ハッキングやITへの才能をスティーヴ・バノンに評価され、トランプ政治の黒子として活躍した人物である。もっか、バノンは表に顔を出さないが、パーセルがその意思を十二分に代理している。 →参考
かつてアンドレイ・ズビャギンツェフは、『裁かれるは善人のみ』でロシア北部の小村で権力をふるう「悪徳」政治家を描くとみせて、実は、ミニ・プーチンの誕生に警告を発した。原題は、「リバイアサン」で、邦題よりも奥深く、深刻な現実を示唆していた。
(2018/06/11)
元FBI長官ジェイムズ・コミーという人物は、(何度か書いたように)毀誉褒貶につつまれたひとだが、その彼が、暴露本の出版に先立って、ABC Newsのインタヴューを受け、それが、日本時間の今日、放映される。
問題の本、A Higher Loyalty: Truth, Lies, and Leadership は、4月17日に発売されるとのことだが、その要旨の一部はすでにあちこちで報道されている。トランプのロシア疑惑や選挙時の不可解な問題に直結した話が語られているらしい。トランプに罷免された元FBI長官が暴露するのだから、面白くないはずがない。
テレビインタヴューのライブは、YouTubeなどでも見ることができるだろうから、楽しみである。→参考
(2018/04/16)
アカデミー賞祭りの機会に、久しぶりにハリウッド映画につきあってみたが、受賞式のあいかわらずの結果を見て、ハリウッドはますます真空地帯になっているのだなと思った。
それから1週間もしないあいだに、トランプ/キム会談、国務長官レックス・ティラーソンの罷免、CIA長官マイク・ポンペオの国長官指名、CIA副長官ジーナ・ハスペルの長官格上予定等々の生臭いニュースが飛び込んで来た。
面白い。ここには、想像と妄想の無限の可能性がある。ハリウッド映画は、どんなに解釈や妄想の可能性を広げてみても、所詮は閉じられた世界である。
いや、ハリウッド映画のような型の映画は、閉じられているところが面白いんじゃないかと言われるかもしれない。映画の本質は内在性だ。そこをどこまでも彫り込んでいくのが映画の楽しみだろう。しかし、ならば、今回のアカデミー賞の選定で、『ファントム・スレッド』が軽視され、『ベイビー・ドライバー』が完全に無視されたんだ? そのへんが、いまのハリウッド感覚のダメさ加減だと思うのだ。
トランプ/キム会談については、わたしはすでに、昨年の5月に〝トランプがニクソンを踏襲するとすれば、彼は「訪朝宣言」をするだろう〟と書いた。→参考
会談は第3国でという説もあるが、トランプは「訪朝」すると思う。ただし、トランプの「訪朝」ないしは「会談」は、彼の弾劾裁判が係数になっている。もし、ニクソンのように、下院司法委員会が弾劾の発議を可決するようなことがあれば、トランプは、必ず「訪朝」するだろう。裁判の世間的インパクトを減じるには何か突飛もないことをやるしかないとトランプも思うからである。
ただし、その結果は、模倣がファルス以上の効果を生むかもしれないと同時に、ニクソンの二の舞で、「訪朝」ないしは「会談」は果たせても、辞任に追い込まれる可能性も高かまる。
トランプは、やはり、リアリティTVの「タレント」であり、シナリオ通りにやるのが得意なのだ。だから、先例を見い出せば、トランプのやることは予想がつく。
タレントならドタキャンもありだから、これまでのトランプのやりかたで、前言をすっかりひるがえして、キムに会うこと自体をやめたと言い出すかもしれない。それは、とりわけ、弾劾裁判の危機が高まらない場合にはありえる可能性である。
そうは言っても、トランプに世界戦略がないわけではない。それは何か? 「経済ナショナリズム」である。この言葉は、トランプから退けられたと言われているあのスティーブ・バノンの言葉として有名になったが、それは、アメリカ合衆国という国家にとっての一国ナショナリズムではない。
トランプの「訪朝」宣言を見ても、ニクソンの訪中を動かしたのがキシンジャーであったように、バノンは依然としてトランプを動かしている。
むしろ、ロシアという国家にとっての一国ナショナリズム、これこそが、バノンの言わんとした経済ナショナリズムであり、ロシア国家を中心とした一極支配である。ただし、それをイデオロギーでやるのではなく、経済でやる。
トランプは基本的に商売人である。軍事も、トランプにとっては商売にすぎない。その意味では、ジェイムズ・マティス(国防長官)やハーバート・マクマスター(国家安全保障問題担当大統領補佐官)はただのお飾りであり、だからこそ、ロートルを引き出したのである。お飾りの役をしなくなれば、いつでも捨てられるように。
【追記】〔この文章を書いてから5日も経たない3月22日(現地時間)、マクマスターは解任され、後任として、元「ネオコン」国連大使のジョン・ボルトンの名前がメディアを踊った。ボルトンは、「タカ派」(英語では〝戦争鷹〟war hawk )と言われるが、どのみちロートル(もっと言えば「ボケ老人」)である。「狂犬」 (mad dog) の綽名のあったジェイムズ・マティスが、「狂犬」としてはお飾り以外の何ものでもないように、この「戦争鷹」も、ただのお飾りで、表向きの「対立」を煽る象徴的な役割しかもたない。要するに、トランプ流プロレス人事なのだ。〕
カジノの経営者でもあったトランプは、客をカモるテクニックを熟知しているので、「北朝鮮」の若い指導者を、度重なるミサイル発射で散財させることなどたやすいことだった。
そういうことは、既存のグローバル産業がやっていることであるが、トランプの場合の「経済」の基幹はエネルギー資源である。世界のエネルギー資源の一極支配が、プーチンの目指すものであり、トランプはそれに盲目的なまでに加担している。
「北朝鮮」は、ガスを中心としたエネルギーの供給網の拡充と整備をめざす際に邪魔になるという面はうわべの現象にすぎない。今後のエネルギー資源政策にとって、無視できない資源が朝鮮半島の北に眠っており、それをめぐるヘゲモニー争いでロシアがトランプという「傀儡」を生み出し、動いているというのがいまの現状ではないか?
そのためには、このヘゲモニー争いの有力な競争相手である中国に融和的なティラーソンは退けなければならないというのはわかりやすいが、その後任がマイク・ポンぺオCIA長官であるというのは、それ以上にわかりやすすぎて驚く。
ロシア疑惑で危機に陥っているトランプにとって、ロシアと表面的には「対立」しながら裏で融和的な関係を持てるのは、ロシアと長年にわたって「蛇の道は蛇」的なコネクションを持って来たCIAしかないからだ。
ロシアが米国の大統領選挙や国政に介入していたとすれば、CIAが証拠をつかんでいないはずはない。ロシア疑惑の調査でそのことが明かされる可能性があるとしても、元CIA長官が国務長官なら、それを封じることも可能だろう。トランプはそうした先手を打ったのだが、それだけではないということである。
それにしても、ポンペオの後任に指名されたジーナ・ハスペルが、その顔に似合わず、「テロリスト」の容疑者に対する、水攻めをはじめとする残忍な拷問の積極的な支持者であるというのは皮肉と言おうか?
映画をくさしておいて映画に頼るのはナンだが、グレゴール・ジョーダンの『4デイズ』 (Unthinkable/2010)がそうした拷問のテクニックをリアルに見せてくれる。
いろいろと御託をならべながらノミネート作品を論評したが、今回の候補作のなかで、わたしが、率直に楽しんだのは、エドガー・ライト監督の『ベイビー・ドライバー』だった。候補になる以前から魅惑されていたので、【編集賞】、【録音賞】、【音響編集賞】にトリプルでランクされたのは、喜ばしいことだった。
が、同時に、それだけかいという気持ちも隠せなかった。だって、主役のアンセル・エルゴートも、強盗団のボス役のケビン・スペイシーもよかったし、脚本(エドガー・ライト)だって、撮影(ビル・ポープ)も、美術(マーカス・ローランド)だって、すごくいいと思ったからである。
公開時の反響がノミネイションにつながらなかったのには、その間に暴露されたケヴィン・スペイシーのスキャンダルの影響もある。が、それにもかかわらず、サウンド・ミックシングの【録音賞】とサウンド・エディティングの【音響編集賞】にノミネートせざるをえなかったことを見ても、この作品のユニークさがわかろうというもの。
【録音賞】と【音響編集賞】に関しては、他に、『ダンケルク』、『シェイプ・オブ・ウォーター』、『ブレードランナー 2049』、『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』がノミネートされているが、わたしは、断固として『ベビー・ドライバー』に獲ってほしいと思う。
他の4作品がいかにも腕利きのエンジニアと潤沢な資金を駆使して大「映画工場」で作った作品の様相を呈しているとすれば、『ベビー・ドライバー』は、エドガー・ライトという一人のマニアックな天才が手作りで作ったような個性にあふれている。むろん、一人で作ったわけではないが、そのチームワークのやり方には、古典的な企業と最新のヴェンチャービジネスとの差ぐらいのちがいがある。
その意味で、この作品は、映画を作りつつある映画のビギナーが見たとき、ひょっとすると自分でも作れるかもしれないという「幻想」と夢をいだかせるようなところがあり、映画の未来を明るくする。スピルバーグにしても、タランティーノにしても、そしてゴダールにしても、みな、そういう「幻想」と夢に後押しされて映画の世界に入ってきたのではなかったか?
しかし、【編集賞】の場合は、若干事情が異なる。サウンドと映像とを比べた場合、これまでさまざまな技術が投入されたとはいえ、映像がスクリーンに投射されるという点において変わりはなく、そこで出来ることがサウンドより狭い。そのため、『ベビー・ドライバー』のような、編集者の「顔が見える」編集の仕方と、他の4作のような「映画工場」的な編集とのあいだで、評価がわかれてしまうのだ。
音楽のリズムとビート、アクショのスピード、会話のピッチが、ありがちなDJ的(といってはDJに失礼だが)な組み合わせではない、有機的なひとつながりの織物になっている映・音像(両者はもはや分離できない)。そこには、既存の音楽・映画作品へのオマージュ・引用・たわむれもある。
スタントやカーのアクションも、ミュージカルに刺激をあたえさえする振付(コレオグラフィー)になっているような新しさ。これは、「アクション・ミュージカル」だという評価もある。ちなみに、カーチェイスのシーンは、CGIではなく、すべて実写だという。
しかし、これらの、わたしには新しいと思われる要素も、「映画=夢工場」の「プロ」たちには、子供だましに見えるかもしれない。すくなくとも、【編集賞】に関しては。このへんで過去を振り切れないことが、映画の将来を暗くする。
すでに、第90回アカデミー賞の儀式の開催まであと12時間しかなくなった。「映画=夢工場」の「成績」が評価される度合いの強い【脚本賞】、【脚色賞】、【撮影賞】、【衣装デザイン賞】等については、素人は論評を遠慮しておく。
授賞式でもし意外なことでも起こったら、また書くかもしれない。久しぶりに映画のことを長めに書き、楽しかった。
(2018/03/04)トランプとともに変わったものは何か? 〝ミィー・トゥー〟主義の台頭である。ファシズムでも赤狩りでも大恐慌でもなかった。それは、トランプの「プッシーわしづかみ」スキャンダルとともに波及した。
2010年代の終わりは、だから、ミートゥーイズムの時代である。すべてが、このパースペクティヴで見られ、語られる。映画の評価も、例外ではない。
この主義が蔓延する発端を作ったトランプ自身は、したたかにも、この主義を逆手に取ろうとしている。代わりに彼の〝複製細胞〟が次々に破滅した。
が、当初、「変革」や「批判」の装いをみせていたミートゥーイズムは、いまやある種の制度や慣習となり、その影響を考慮せずに表現することも、ひとと交流することも出来なくなってきた。
その意味で、「古い」と「新しい」という単純だが便利な価値基準でものを語る際には、ハラスメントの度合いが尺度になる。が、ハラスメントとは何か?
それは、他人の「心」というよりも身体に浸食することである。だから、もう、ハグはおろか握手も気をつけなければならない。キスは、頬にする場合でも数センチ以上の距離を置こう。身体性の内部と外部につねにヴァリアブルな距離を持つことが「常識」となる。
これは、別枠で詳述したいが、いまにわかに高まりつつあるヴィーガニズム (veganism) への「新たな」関心とも関係がある。アニマルフレンドリーであること、動物を虐待しない、殺さない、食べない・・・とは、動物の身体を浸食しないことである。というよりも、浸食しないことへの極度の恐れと配慮だ。それは、単なる「菜食主義」の徹底ではない。
主義には、便乗と反動がともなう。「わたしも、わたしも」と後出しの告発に邁進する者が登場する一方で、身体性そのものを消去するために、銃を乱射したり、自傷したり、生命そのものを否定する者が増える。
そのため、人々はおのずから、それぞれの「避難所」に閉じこもったり、自らの身体に「避難所」を作ろうとする。最初は、反逆や防衛を試みるが、閉じこもり、引きこもるしかないことを悟る。
この傾向は、ミートゥーイズム以前からあったし、メディアテクノロジーがスマホのような形式に自閉・収斂するときには必然的な帰結であったとも言える。
御託は聞き飽きただろう。問題は2018年のアカデミー賞のことだった。では、いま書いたような観点から今年のアカデミー賞候補を見てみたら、どうなるだろうか? 見るべきは、内容よりも身体のあつかい方であり、その自己意識である。
こいういうことを考えながら、【外国語映画賞】の候補作品を取り上げると、真っ先に上がってくるのは、ハンガリーのイルディコー・エニェディ監督の『心と体と』(国際的な英語タイトル:On Body And Soul)である。
この作品は、牛の食肉処理工場で働く男アンドレ(ケーザ・モルチャーニ)とマリア(アレクサンドラ・ボルベーイ)のある種の「ラブストーリー」であるが、その116分のあいだに、いまの時代の、他者および自己の身体感覚、コミュニケーション、そしてさらには、肉食問題までが問われている。
それらは、決して「メッセージ」として表現されるのではない。おそらくこの工場の事故で左手を損傷したらしい中年後期のアンドレには、すでに人生を投げている雰囲気がある。食肉の検査担当のマリアは、かなり自閉症っぽい。
その二人が、わずかにコミュニケーションを交わすようになるのは、勤務者の精神衛生担当医(二人の雰囲気とは裏腹にやけに艶めかしい女性)による面接で二人が同じ日に一つながりの夢を見たことがわかったからだった。偶然にすぎないかもしれないし、テレパシーかもしれない。
この面接は、「個人情報」に立ち入る質問をあけすけに行うが、一方で「個人情報」を閉ざしながら、他方では、それを守るためと称してすべてが記録されざるをえないといういまの時代の皮肉を示唆してもいる。
こういう社会では、もはやこれまで通用した、おしゃべりを交わすとか、食事を共にするとか、さらにはセックスすらも、「親密さ」を深める方法にはならない。
ただ、二人が見た夢を示唆する、雪景色のなかに二匹の鹿がいる映像は、ただ寒々しいとも言えるし、また寒々しいにもかかわらずそこで鹿が悠々と生きているところに救いがあるともいえるが、映画の終わり方はやや安易である。投げかける問題が多いだけに、この「ハッピーエンド」は残念だった。
マリアの意識を二重の意味で変えるきっかけになるのは、レンタルショップ店で買ったCDの曲、ローラ・マーリングが歌う "What He Wrote" 。まあ、彼女は、この曲に飽きたら、またこの映画の始まりのときのような状態にもどってしまうのかもしれないが。
【外国語映画賞】の候補には、あと、『ナチュラルウーマン』、『ラブレス』、『ザ・スクエア 思いやりの聖域』、『The Insult』があり、わたしは、『ナチュラルウーマン』を面白く見たが、映画としては、『心と体と』よりも「古典的」である。
そろそろ、発表までの時間が迫ってきた。書けるのは、あと1回ぐらいか?
(2018/03/03)
Fox Newsのアカデミー賞予想をとりあげたので、公平を期して、「敵対関係」にあるNew York Timesの予想を見てみよう。「わが社のエキスパートがオスカー・ウィナーを予言する」と大仰に出たカーラ・バックリー (Cara Buckley) の予想は以下の通りである。
【作品賞】:『シェイプ・オブ・ウォーター』
【主演女優賞】:フランシス・マクドーマンド(『スリー・ビルボード』)
【主演男優賞】:ゲイリー・オールドマン(『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』)
【助演女優賞】:アリソン・ジャネイ(『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』)
【助演男優賞】:サム・ロックウェル(『スリー・ビルボード』)
【監督賞】:ギレルモ・デル・トロ(『シェイプ・オブ・ウォーター』)
挙げる順番が、男優を先にするFox Newsに対して、女優を優先するのは New York Times の流儀なのだろう。筆者も女性であり、【主演女優賞】と【助演女優賞】に関しては、女性目線を重視している。
【作品賞】に『シェイプ・オブ・ウォーター』を選んだのは、New York Timesらしい選択だ。その「エレガントでドリーミーな」ところ、「寛容、残酷さ、人魚の性に関するデル・トロらしいお伽噺と寓話」、と同時に「映画へのオマージュ」を評価したいという。きわめてまっとうな意見である。
まあ、Fox にしてもTimes にしても、わかるひとにはわかるであろう「病的」な側面を隠した『ファントム・スレッド』のような作品は、避けるのである。
さて、【主演女優賞】に『スリー・ビルボード』のフランシス・マクドーマンドを選んだのは、彼女が「〝ミー・トゥ〟時代には誰でもが期待するであろう強い女」を「恐ろしいまでに容赦なく」表現しているからだと言う。
カーラ・バックリーのもの言いには、どこか奥歯にもののはさまった感じがあり、自分の本意はちょっとちがうというニュアンスが込められている。つまり、「〝ミー・トゥ〟時代」を全面的に肯定するわけではないが、時代の流れではこういうタイプが受けるでしょうねといった含みである。
ただし、わたしの印象では、〝ミー・トゥ〟で脚光をあびる女性は、 フランシス・マクドーマンドが演じるミルドレッド のようなストレートさはないような気がする。彼女は、後出しなんかはしない。むしろ、〝ミー・トゥ〟系の女性というのは、ミルドレッド的女性にあこがれながら、それができなかったが、みんなやり始めたからあたしも的な「みんな主義」のひとであって、ミルドレッドのような DIM (Do It Myself) ではない。
とはいえ、ここで論じなけらばならないのは、ミルドレッドではなく、それを演じるフランシス・マクドーマンドの演技である。それは、【主演女優賞】に値するのか? う~ん、迫真の演技ではあるが、古いのではないか? あいかわらずアクターズ・スタジオ系の「入れ込む」「役になりきる」演技の亡霊につきまとわれていないか?
コーエン兄弟のもとではそうはならないのだが、ガス・ヴァン・サントの『プロミスト・ランド』(2012) のスー・トマソン役がそうであったように、彼女の基本は舞台俳優的な演技なのだ。それは、助演ではいきるが、主役になると、その面が前面に出て来て、単調な感じがする。「うまい」けれど、新しくはない。
演技の多様性や奥行、繊細さやチャレンジ性という点では、『シェイプ・オブ・ウォーター』のサリー・ホーキンスは、はるかに上の演技を見せる。ハリウッドの政治経済がからまなければ、【主演女優賞】はこのひとで決まりではないか?
『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』のトニヤを演じるマーゴット・ロビーは、トニヤというキャラクターが「ぶっ飛び面白い」としても、マーゴット・ロビーでなければ演じられないわけではない。もっと適役がいたかもしれない。その点で、トニヤの母親は、アリソン・ジャネイならではの演技で、New York Times が【助演女優賞】に選んでいるのは納得できる。
【助演女優賞】の他の候補のうち、『シェイプ・オブ・ウォーター』のオクタビア・スペンサー、『ファントム・スレッド』のレスリー・マンビルは、いずれもベテラン中のベテランで、このぐらいの演技が出来ても何の驚きはない。『レディ・バード』のローリー・メトカーフ、『マッドバウンド 哀しき友情』のメアリー・J・ブライジは、何で候補になったのかわからない。『マッドバウンド 哀しき友情』は、「映画」というより、「テレビ映画」のつくりでわたしは買わない。
【主演男優賞】のTimes の選択は、『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』でチャーチルを演じるゲイリー・オールドマンで、Fox の選択と重なる。無難な選択である。こういうところが大メディアのつまらないところ。あたかも「視聴者」や「読者」や「大衆」という概念に実体があるかのような動きしかできない。ブロックチェーン的なピア・ツウ・ピア・メディアが台頭する時代にマスメディアに出来る意味あることは、挑発と偏執だ。
カーラ・バックリーによると、オールドマンは、『君の名前で僕を呼んで』のティモシー・シャラメや『ゲット・アウト』のダニエル・カルーヤのような「生意気な若造」 (whippersnapper) たちと互角にわたりあっており、キャリアのうえでも二人より上におり、また、『ファントム・スレッド』のダニエル・デイ=ルイスとデンゼル・ワシントンのようなベテランは、すでに何度も賞を獲っているからと、つまらない理由を挙げてオールドマンを【主演男優賞】に選ぶ。こういう言い方なら、演技をじっくり検証しなくても書けるだろう。
なぜもっとはっきり書かないのか? そもそも、『Roman J. Israel, Esq.』のワシントンは全然ダメである。『フライト』(2012) で見せたような屈折や矛盾やニヒルさやユーモアが混在した演技はどこかに行っている。つまりこの作品ではデンゼル・ワシントンは活かされていない。
アカデミー賞が年期や功労をねぎらう賞でないのなら、ティモシー・シャラメはいい仕事をした。ダニエル・カルーヤも悪くないが、作品の幅や奥行を考えると、シャラメの方が、面白い。早い話、『レディ・バード』にも出ていやいややっているかのような倦怠さとレイジーさをたたえた若者カイルの役を演じてもいるシャラメと、『君の名前で僕を呼んで』のエリオ役とを比較してみればいい。幅ある演技力がわかるだろう。
ゲイリー・オールドマンのチャーチル役は、メイクに負っている面がかなり強い。彼自身の俳優としての年輪に加えて潤沢な条件が整っている。その評価は、同時に候補に挙がっている【メイクアップ&ヘアスタイリング賞】の方で充たせばいいのではないか?
こういう特権的な条件のもとでの演技を評価するのなら、『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』で【主演女優賞】候補になっているメリル・ストリープおばさんなんかも真剣に考慮の対象にしなければならない。が、それはもういいと思うのなら、ゲイリー・オールドマンも除外すべきである。
どうも、あれこれ屁理屈を言って『ファントム・スレッド』のダニエル・デイ=ルイスに持っていこうとしているかのように思うかもしれなが、デイ=ルイスは、オールドマンに比べれば、「ノー・メイク」で演技している。オートクチュールの英国有数のドレスメイカーのステイタスを確立している初老の男が、無名の若いウェイトレスを愛するラブストーリーと思ったら、大間違い。単にマザコンで偏屈な老人ならいくらでもいる。老人好きの女もめずらしくはない。が、この映画の「主役」は、音楽であり、ある種の「ドラッグ」である。
観る方も、一度観ると抜けられなくなるかもしれない。というよりも、こういう映画で俳優として演技をするのは、並大抵のことではないと思うのだ。一見、初心(うぶ)な娘を「平凡」に演じているかに見えるヴィッキイー・クリープスも、【助演女優賞】にノミネートされてもいいくらいだ。
ダニエル・デイ=ルイスは、この映画を最後に、今後は、すでに本職裸足の靴作りに専念するとのことだが、そもそも針で縫うということ、しかも靴の底ではなく、女をまとう布を糸で縫っていくということは、きわめて「変態」的な行為でもある。それしか頭にない男を演技するのは、単に「仕立て」や「裁縫」の職人技を真似るのでは足りない。というより、そういうレベルを表現するには、別に針使いなど見せなくてもいい。デイ=ルイスは、それをただ歩き回ったり、手を些末に動かすだけで、表現しつくした。
というわけで、わたしは、断固としてダニエル・デイ=ルイスの【主演男優賞】を推したい。たとえ、それが、胡蝶の夢であるとしても。
『スリー・ビルボード』のサム・ロックウェルを【助演男優賞】に推すひとは多い。
『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』のウィレム・デフォーは、『スリー・ビルボード』のウッディ・ハレルソンに劣らぬベテランだが、この作品で彼の演技がいかされているとは思えない。「ベテラン」は、もういいんじゃないか?
『ゲティ家の身代金』のクリストファー・プラマーは、ご老体の身でそんなに頑張って大丈夫かねといった演技だったが、『シェイプ・オブ・ウォーター』のリチャード・ジェンキンスの演技の味わいは忘れがたい。
しかし、ジェンキンスの演技を取るならば、デフォーもハレルソンも同じ台に乗せなければならなくなる。
そういうわけで、【助演男優賞】に関しては、候補のなかにわたしがこれだと思うひとはおらず、受賞は、サム・ロックウェルに行くのを傍観することになる。
カーラ・バックリーは、選考理由として、サム・ロックウェルは、ディクソンという人物の意識の大きな変化過程を表現しなければならないという要求に応えており、それは、アカデミーの選考委員たちには受けるのだと、書いているが、またしても、言い方が直截ではない。
【監督賞】は、Fox Newsと同じく、『シェイプ・オブ・ウォーター』のギレルモ・デル・トロを選んでいるが、その場合にも、バックリーの言い方には棘がある。曰く、「もし彼が金をかっさらえば、この5年間に4度ひとりのメキシコ系の監督が賞を持ち去ることになる」と。
たぶん無理と思うが、作品の質から正しく選ばれるならば、【監督賞】は、『ファントム・スレッド』のポール・トーマス・アンダーソンに獲ってもらいたい。
(2018/03/02)
アカデミー賞の行方は、「リベラル」を装おう俳優や製作陣の路線で決まることはあまりない。また、時代が「リベラル」な方に傾いているような時代だからといって、そういう傾向の作品が選ばれるとはかぎらない。
いまのように、もはや「リベラル」とか「保守」という枠組みが通用しなくなってきている時代には、俳優やスタッフの言動や雰囲気(たとえば、トランプ批判が多いとかの)からは、ますますその行方はつかみがたい。
事実、トランプによって「フェイク・メディア」と腐されたマスメディアで連日トランプ批判が続けられているにもかかわらず、かつての赤狩りのときのような、ハリウッドの内部から結束したトランプ批判が出るわけではない。そもそも、「結束」とか「連帯」という概念自体が有効性を失ってしまった。
しかし、アカデミー賞を審査する者は、既存メディアの空気のなかで生きているわけだから、それが「フェイク」であろうとなかろうと、影響を受けないはずはない。そこで今日は、一貫してトランプを支持しているFox Newsが今回のアカデミー賞に関して、どの作品や俳優・監督を支持しているかを見ながら、戦略的に「偏見」にみちた見立てをしてみようと思う。
Fox Newsのタリク・カーン (Tariq Khan) は、以下のような「予見」をする(→Oscars predictions)。
【作品賞】:『スリー・ビルボード』
【監督賞】:ギレルモ・デル・トロ(『シェイプ・オブ・ウォーター』)
【主演男優賞】:ゲイリー・オールドマン(『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』)
【主演女優賞】:フランシス・マクドーマンド(『スリー・ビルボード』)
【助演男優賞】:サム・ロックウェル(『スリー・ビルボード』)
【助演女優賞】:アリソン・ジャネイ(『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』)
なるほど、さすがFox Newsだ、わたしなどとは全く考えがちがう。が、なんてつまらない選択だろう。これでは、当たりはずれは別とする「予見」の楽しみがまったくないじゃないか。
Fox Newsが【作品賞】に『スリー・ビルボード』を選ぶのは、きわめてトランプ路線に忠実な選択だ。 フランシス・マクドーマンドが見事に演じたミルドレッド の「過激さ」が、実は、アメリカの「右翼」の根底にあるものであり、かつてのトランプの「手配師」スティーヴ・バノンのお好みのスタイルだからである。
カーンが【監督賞】にギレルモ・デル・トロを挙げたのは、他の選択を封じるための無難な選択にすぎない。
クリストファー・ノーラン(『ダンケルク』)
グレタ・ガーウィグ(『レディ・バード』)
ジョーダン・ピール(『ゲット・アウト』)
ポール・トーマス・アンダーソン(『ファントム・スレッド』)
上記の残りの4作品のうち、Fox Newsがどうしても避けたい作品がある。それは、『レディ・バード』である。ただし、それは、わたしがこの映画を評価しないのとは別の、もっと単純な理由による。要するに、この映画の舞台となるカリフォルニア州サクラメントと、カソリック校という要素がそもそもFox News 好みではないからに過ぎない。
映画の冒頭に、ジョーン・ディディオンの言葉が引用される。「カリフォルニア州の快楽主義について語る者は誰も、サクラメントでクリスマスを過ごすことなかった。」(→参考)まあ、そのくらい、禁欲主義が強いということだが、ちなみに、いまは違う。サクラメントは、いまでは、アメリカの都市のなかでLGBTQの人口が最も高い街の一つであり、カソリック系の学校に愛想をつかし、ニューヨークのコロンビア大学へ入ろうとする〝レディ・バード〟ことクリスティン(シアーシャ・ローナン)が、結果的にここにとどまるのは、この都市のその後の変化からするとまちがいではなかった。
監督グレタ・ガーウィグの自伝的要素の強い『レディ・バード』は、その意味で、17歳の高校生が変わって行く過程と都市の変化の予兆とを重ね合わせて見る示唆をあたえていて面白い。が、それならば、シアーシャ・ローナンは、もっと奥行のある演技をしなければならなかったし、監督はそういう演技指導をしなければならなかった。自殺願望的な要素を持ちながら、あっけらかんとしてもいるという、ある種「バイポラール」(「双極性障害」という訳語は使いたくない)的なキャラクターが、全然出ていないのだ。低予算で頑張っても、これでは、【監督賞】はあげられない。
『ゲット・アウト』のジョーダン・ピールは、アフリカン・アメリカンであり、ひねりを利かせているとはいえ、白人至上主義を批判しているかぎりで、潜在的にはFox Newsが避ける作品である。
あまり偏見にみちたFox News 批判も退屈だから、結論を急ぐ。
『ダンケルク』のクリストファー・ノーラン監督としては、いろいろと思い入れがあるだろうが、この作品は、彼のこれまでの映画的「冒険」からすると新味(少なくとも「素人」目から見たかぎりでの)がない。彼の演出の可能性が出きっているとは思えない。
【監督賞】では、わたしは、『シェイプ・オブ・ウォーター』のギレルモ・デル・トロは非常に有力だと思う。【作品賞】を避けた者は、この作品に【監督賞】をあたえてバランスを取ろうとするパターンが考えられる。
しかし、この作品の基本と情感は、すでに『ヘルボーイ』シリーズにあったと思う。だから、わたしが、この作品よりも、最後に残る『ファントム・スレッド』のポール・トーマス・アンダーソンを選ぶのは、Fox Newsが推す作品には抵抗したいという子供じみた理由だけからではない。彼は、彼のこれまでの作品のなかでも異質なものを取り入れており、「冒険」をしているからである。
俳優に関する賞については、次回を待たれたい。 (2018/03/01)
しばらく書かなかったので、書きたいことがたまった。新たな流行の兆しを見せるヴィーガニズムのこと、中途半端な書き方をしたロボットアームの実験のこと、最近入れ込んでいる井原西鶴のこと、それからオスカー/アカデミーのことなどである。
それらは、わたしのなかではみんなつながりがあるので、ひと続きに書きたいところだが、今日は、あと何日かで受賞が決まるアカデミー賞についてまず書こうと思う。
この1年半ほど「トランプ劇場」に日参していたために、リアリティ感覚が変わってしまった。それは、文字通り「リアリティTV」そのもので、そんじょそこらのハリウッド映画を見てもリアリティを感じないほど下品で鈍感になってしまった。
おかげで、この間にノミネートされた作品を見たり、見直したりしても、非常にかぎられたものしかピンと来ないのは、困ったものである。少なくとも、トランプ・リアリティTVには登場しないタイプのものでないと興味をそそられないのである。
おそらく、この賞の審査員たちも、評価の基準に大なり小なりそんな係数がかかった状態で作品や俳優を評価するということになるだろう。
そこで、ここでは、もし、いまのアメリカの「空気」のなかで、ハリウッドの業界経済とは無縁に賞を選ぶとすれば、どうなるかといった観点から、いくつかの作品をコメントしてみようと思う。
まず、あたかもアメリカの社会・歴史的な「実相」を映そうとしているかのような作品はオミットしたい。「現実」が映画にかぎりなく近づく時代には、映画らしい映画、つまり映画というメディアを意識し、映画でなければやれないことを試みる作品こそが評価されると思うからである。
そうすると、【作品賞】のなかでは、『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』は真っ先にはずしたい。『ダンケルク』と『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』も、もういいだろう。
『スリー・ビルボード』は、トランプを倒すには、『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』みたいな「理性的」なやり方ではなく、「次は火だ」式にいっちゃえというような挑発があって楽しいが、これも、社会的なメッセージ性が感じられるかぎりにおいて、【作品賞】からは、はずす。最有力候補だそうだが。
『ゲット・アウト』は、最初、なんだまた人種差別反対の映画かと思って見ていたら、ホラー/サスペンスと「持つべきものは友人だ」という話であることがわかり、かえって感心した。最初、なんの変哲もないリベラルな意識の女の子にを演じていたアリソン・ウィリアムズの変貌ぶりが見事。しかし、【作品賞】としては弱い。
『レディー・バード』は、シアーシャ・ローナンの(ひと昔まえの)広末涼子的な演技が鼻について、見通せなかった。『ハンナ』のローナンには瞠目し、『つぐない』もよかったが、『グランド・ブダペスト・ホテル』あたりから演技が安くなった。
『君の名前で僕を呼んで』は、あちこちで非常に高い評価を受けており、実際に、主演のティモシー・シャラメはすばらしいのだが、これも、屈折した意味で「社会派」なので、除外する。ドラマに同化した批判で不公平かもしれないが、わたしは、彼が演じるエリオが、なんでまたオリヴァー(アーミー・ハマー)みたいなツマラナイ奴を好きになったのかと終始イラついた。
ただし、この映画は、実はそこが狙いなのかもしれない。一見、田舎の「純真」な少年と都会男とのひと夏の切ない同性愛の物語のような成り行きは見せかけか? エリオの父親のパールマン教授から招かれて夏の休暇をすごしにイタリアに来るアメリカ人の大学院生オリバーが、イタリア人の目で、しかもユダヤ人同士の目で批判されているのかもしれない。
このオリバーという男は、最初から嫌な奴として描かれている。まず、朝食のゆで卵の食い方がなってない。アプリコット・ジュースを出されて、その飲み方も下品だが、おまけに、"apricot" という言葉についてエリオの父親がヨーロッパのインテリ特有の雑談的ユーモアのつもりで口にしたその語源を、ひとまず聞き流したうえで、そんなことはあなたより知っているよと言わんばかりに滔々と語源的蘊蓄を聞かせる。何というユーモアのなさだろう。そのときの父親の若干の当惑と困惑の混じった笑いは、演じるマイケル・スタールバーグの妙技だが、同時に、ヨーロッパ人が困った「野蛮人」に見せる典型的な表情でもある。
それから、庭の古い小プールのところでオリバーに、ハイデッガーの言葉を引用した自分のメモを読んで聞かせるくだりにもオリバーの俗物インテリ根性が露出していて胸糞が悪い。ここでオリバーが読む駄文は、ハイデッガーがヘラクレイトスのアーレテイヤ等について言っている「非隠蔽性/隠れなさ」に関する文章を参照していると思えるが、そんなものをなんでいきなり読むんだよ、という感じ。
ある意味で、アーミー・ハマーの演技は、ドライで身勝手なアメリカ人をよく出しているとも言える。そういえば、彼は、『コードネーム U.N.C.L.E.』 (2015) のイリヤ・クリヤキンを演じていた。もとのテレビシリーズでデイヴィッド・マカルムた演じたクリヤキンは違うが、ハマーが再演したクリヤキンは、白人至上主義を隠し持つ「アメリカ人」に見えてしかたがなかった。
それに、この『君の名前で僕を呼んで』は、一見同性愛を支持しているように見えながら、ユダヤ系のファミリーではあたかも同性愛に対して(まあ時代設定はあるとしても)強い偏見があるかのような設定になっている。結局、エリオは同性愛に生きて、傷つくのだ。どうして、どんどんブッ飛んでしまう描き方ができないのか? これは、トランプのアメリカで目下増殖しつつあるネオピューリタニズムの差別意識を暗黙に肯定するものだ。いずれにせよ、『君の名前で僕を呼んで』に【作品賞】はやりたくない。
とすると、残るは、『シェイプ・オブ・ウォーター』と『ファントム・スレッド』のどちらかということになる。わたしは、『シェイプ・オブ・ウォーター』のなさそうでありそうな話、シュールな飛躍、「怪物」を見せてしまっても違和感がない作り(メイクがうまいということではない)、サリー・ホーキンスが演じるイライザの切なさ、最後の熱い高揚に感動した。
しかし、この作品は、アカデミー賞の選考委員の平均値には「高級」すぎるかもしれない。彼や彼女らは、もうちょっと「普通」の「完成度」のようなものを評価し、『ファントム・スレッド』を取るのではないか?
主演のダニエル・デイ=ルイスは、本作をもって俳優をやめるというし、相手役のビッキー・クリープスは、さすがポール・トーマス・アンダーソンの演技指導のかいあってちょっと現実離れした、ある種「宇宙人」的な(つまり『レディー・バード』のシアーシャ・ローナンみたいなカマトトにならない)演技を見せる。
この映画は、ある意味でレイノルズ・ウッドコックというロンドンの由緒あるドレスメーカーと若いウエイトレスとの〝変態愛〟の話である。それが通常の意味の「変態」とは見えないように描かれているところがアンダーソンの上手いところ。
エレクロトニカの鋭角的な音で始まるこの映画で音楽と音の力は大きい。音楽がエモーショナル・ナレーターを演じているとも言える。好き嫌いはあるだろうが、ジョニー・グリーンウッドはいい仕事をした。【作曲賞】の候補になっているが、その資格は十分だ。 ここでテーマ音楽を含めてピアノを弾いているカスリーン・ティンカー(Katherine Tinker) は、ロンドンの若いアーティストで、これがフィーチャー映画では初仕事のようだが、これからどんどん出てくるひとに思える。グリーンウッドの引きで参加したらしい。
ここまで一気に書いて来て、ふと、『シェイプ・オブ・ウォーター』の方が『ファントム・スレッド』よりも、アカデミー賞の選考委員の平均値には「高級」すぎるかもしれないと書いたが、それは逆で、彼や彼女らには、『ファントム・スレッド』の奥深さは決してわからないのではないかという思いが強まった。
だから、【作品賞】がもし『シェイプ・オブ・ウォーター』か『ファントム・スレッド』かということになれば、『シェイプ・オブ・ウォーター』となるだろうが、わたしの希望はあくまでも『ファントム・スレッド』だということである。まわりくどくて失礼。
(2018/02/28)
トランプについてしばらく何も書かなかった。書きたいことがなかったわけではないが、いまいち確信が持てないことが多かった。
すでに明らかなことは、トランプのロシアコネクションは、すくなくとも、選挙まえからの商売関連を含めれば、決して浅くない。それをプーチンが利用したことも否定できない。
プーチンにとって、依然、アメリカ陣営との「冷戦」は終わっていない。というより、「冷戦」を終わらせないことが有利だという国家戦略を捨てていない。融和や外交的懐柔よりも、軍事的対立のほうが有効で、国内と国外を動かしやすいという判断である。
実際には、エネルギーや国際関係においては、「冷戦」の戦略は終わっている。どのみち、情報操作的な戦略があたりまえになっている。そんなことは、元KGBのプーチンは百もわかっている。だが、同じ情報戦でも、ギャング映画風にやるか、スパイ映画風にやるかでは、意見が別れる。
プーチンにとってトランプが御しやすいのは、まず、トランプが外交の素人である点である。対するヒラリー・クリントンは、元大統領夫人としても、国務長官としても、外交のプロであり、戦争や紛争をチラつかせるよりも諜報や情報操作による国際戦略をよしとする。これは、プーチンにとってはやりにくい相手であり、絶対に粉砕しなければならなかった。
ヒラリーにとって、「デモクラシー」は、そうした国際戦略の基本イデオロギーであり、概念ツールであるが、これは、プーチンがとりわけ国内的に一貫して誇示してきた権威主義的でマチズモ的なイデオロギーと相反する。よって、「デモクラシー」は世界的規模で抑止しなければならない。
トランプとその「両」腕だったスティーヴ・バノンは、必ずしもプーチンのそうした考えに賛同していたわけでも、また、トランプはプーチンのようになりたかったわけでもない。が、トランプにとって、政治は、不動産業で培った権威主義とマチズモをモデルとするしかなく、自分を出せが出すほど、プーチンの方に近づいてしまうことになった。
皮肉なのは、アメリカ(国)人にとって、トランプを非難し、弾劾裁判に追い詰めれば追い詰めるほど、ロシアは、かつての「冷戦」時代のように、「敵国」の度合いを増してくることだ。
現実には、エネルギー関係を見ても、国家対国家という構図は崩れている。企業の活動を見ればわかるように、経済のダイナミックスは、かつて「多国籍」とか「トランスナショナル」とか言った言葉が死語になるようなレベルに達している。
ならば、国家対国家の「冷戦」体制などは、名実ともに終わりにした方がすっきりするはずだが、既存の特権にしがみつく勢力にとっては、そうした「オープン」性、(たとえヤラセがあるとしても)スポーツ競技的な「公平」性は避けたい。
しかし、時代はいっときしか後ろへはもどらない。どのみち、「ブロックチェーン」のように、個々人の情報がすべてつながり、個々人の思惑や行為が世界を動かすという傾向は強まるだろう。
といって、それは、脳天気な「デモクラティスト」が考える「公明正大」で「平等」な社会の実現につながるとはかぎらない。個々人の意識と無意識の底まで管理することも可能になる危険もより深まる。
その意味で、「仮想通貨」の最近の問題は示唆的である。本来、ピア・ツー・ピアの関係のシステムが、銀行という中央集権的な組織との関係でトラブルを起こし、銀行システムが「仮想通貨」に規制をかけようとしている。これでは、「仮想通貨」の意味がない。そもそも、cryptcurrencyと呼ばれたものを「仮想」と呼ぶ日本は、すでにかぎりなく「仮想通貨」の本質からはずれてしまっている。
(2018/02/19)
ロボットアームのことを書いたら、早速質問をもらった。「ロボットアームのキット」って、完成品ですか、というのだ。
いや、キットはキットである。わたしが「完成品」など買うはずがない。コンピュータだって、使っているのは、「マック」を含めて全部自作だ。完成品は買っても、OSなしで「ロックされている」、裏技で直さないと使えないしろものです。
このキットは、「水圧式ロボットアーム」という、イーケイジャパンが出しているヨドバシで¥4380(税込)のキットである。130個ぐらいの部品から成り、それをいちいち組み立てなければならない。130個というと相当の数で、1個の取付に1分かかるとしても、完成までには2時間以上かかる。
ただし、このキットの思想は最低であった。組立てるということは、手を使い、わたしの言う「手の思考」にしたがうわけだが、このキットは、完璧なまでに「手の思考」に逆らっている。「手の思考」を発揮すれば、絶対に組立たないように出来ている。
130個の部品を番号にしたがって、マニュアル通りに組立てるのは、「手の思考」を無視し、「脳の思考」を優先することである。いまや、「脳の思考」なんて時代遅れになり、「手の思考」に焦点が当たり始めているというのに、最低である。「脳の思考」は、すべてAIでやれてしまうのだ。
その点、このパフォーマンスで使った「テスラコイル」(これも時間の関係で中国製のキットを使った)の方は、キットとうたいながら、実際には、冒頭の写真にあるような「部品セット」であり、添付の配線図にしたがって(ここは「脳の思考」)「手の勘」で組立てていかないと組み上がらないという点で、「手の思考」を優先していた。
この場合、「手の記憶」にしたがって、部品に触われば、おのずから組立て方が浮かんでくるのであり、その意味で、「水圧式ロボットアーム」は、官僚志向が好きなひとには向いているが、独立独歩のひとには薦めない。
(2018/01/18)
毎年、1月17日は、「アートの誕生日」 (Art's Birthday) というある意味ではわけのわからないイヴェントの日である。最初に言い出したのはFluxusのロベール・フィリウ (Robert Filliou) だが、彼がそう言ったということを喧伝し、世界のあちこちのアーティストや〝好事家〟を巻き込んだのは、ハンク・ブル (Hank Bull) だった。
以来、高揚時には、既存のラジオ局や通信衛星のネットワークまでが加わって一大イヴェントにもなった。 こうなると、わたしのような天邪鬼は、一歩引きたくなり、まあいいかといった感じになって、うちうちで「アートの誕生」を祝うということになった。折も折、1995年には阪神・淡路大震災が起こり、そんな日に〝風流〟に浮かれてもいられまいという気も起き、大分こちらの勢いが衰えた。
とはいえ、2003年から2011年ぐらいまでは、Radio Kinesonus という音の実験サイトを立ち上げたこともあって、自然発生的にそこそこのイヴェントをして遊んだ。→若干の記録
その後はクヌートアウファーマン (Knut Aufermann) らのセッションにつきあうといった形で消極的な参加をするにとどまったが、ハンクが主催していたウェスタン・フロント (Western Front) でエンジニアをしていたピーター・クートマンシュ (Peter Courtemanche) が中心となって(というより彼が独力で)「アーツ・バースデイ・ネット」(→URL ) を整理・更新し、参加者をつのるようになった。そのせいか、態勢は、後退しているといえ、いま現在も、世界の各地からSNSなどで「勝手に」(これこそがFluxus流だ!)ライブをながしたりしている。
わたしは、SNSをやらないので、自分でストリーミングを立ち上げないとすると、毎度やっているように、数メートルの距離で電波を飛ばしてレゾナンスを作ってアートの誕生を祝うことになる(それがわたしのラジオアートの基本だから)が、たまたま、ウィーンのリズ・ツィマーマン (Elisabeth Zimmermann) の誘いにのって、彼女のKunstradio の「投稿」サイトにきわめて私的な実験の写真をアップすることにした。
それは、わたしがこれまでやってきた素手と送信機との「いちゃつき」を「ロボット・アーム」でやってみようという実験のひとつで、キットで作った「ロボット・アーム」でテスラ・コイルを動かし、蛍光灯を無線で灯し、それから「誕生日」らしくロウソクに火を点けるという他愛のないラジオアート・パフォーマンスである。
ラジオアートにとっては、このときの音がメインなのだが、送信機も装置もすべてDIYの自作が基本のわたしとしては、キットを使った今回の装置で出る音は本意ではない。だから、今回は、音のほうは「投稿」しなかった。
突然飽きるかもしれないが、この関心が続くならば、キットではなく、DIYでロボット・アームを作り、わたしの素手に張り合うような動きをさせてみたいと思っている。
今年はトランプ離れで行こうと思っていたが、またしてもトランプ関連の書き込みになってしまうのは宿命か?
マイケル・ウルフ (Michael Wolff) の『Fire and Fury: Inside the Trump White House』が先週出て以来、そのなかで書かれているスティーヴ・バノンのトランプ批判が話題になっている。
バノンは、ホワイトハウスを離れたとき、依然としてトランプを支持すると宣言したが、この本のなかの発言の調子では、いくらトランプがプロレス仕込みのやらせ戦略の策士だとしても、二人の関係をなれあいとみなすことはもはやむりだろう。
詳細は、日本のメディアもいまごろになって熱心にバノンをとりあげはじめているので紹介しない。その影響で、日本のメディアなんかがバノンを日本に呼んだりするかもしれない。(→【追記参照】)
そういえば、あの亀井静香先生は、孫氏には遅れを取ったが、早々とトランプに会いにアメリカまで行ったが、トランプには会えず、当時側近中の側近だったバノンが代わりに会うことになった。そんなチャンスはめったにないのに、亀井先生はバノンが誰であるかを知らず、世間話をして帰ってきてしまったらしい。もったいないことをしたものだ。
日本のメディアをながめていると世界の動向がわからなくなるのは、いまに始まったことではないが、いまごろになってバノンなんかに関わるとロクなことはないということだけは明らかだ。
その点、あちらの富豪は抜け目ない。あれほどバノンをサポートしてきた右翼勢力の資金的黒幕ボブ・マーサー/レベッカ・マーサ父娘 (Bob and Rebekah Mercer) は、BuzzFeed News の最近号によると、トランプの支持は続けるが、バノンとの関係は絶つという。→参考
まえにも書いた経緯をたどれば、バノンはそれを見越して動いてきたはずであり、マーサ・ファミリーの援助後の対策を考えているのだろうが、トランプは、バノンとの関係を離れれば離れるほど、「普通」になり、共和党との関係はよくなる。
では、バノンのほうはどうなるのか? むかしから、「極右」と「極左」、いや、「左翼冒険主義」というべきか、は、ときとしてシームレスな関係をなす。つまり、「左翼」のなかにバノンを支持する者が出てきたりしかねないのだ。このへんで、彼が作ったドキュメンタリー『Occuppy Unmasked』をもう一度見てみたほうがいいだろう。→参考
【追記】「いやあ、バノンはもう日本に呼ばれてますよ」というコメントをもらった。2017年12月16~17日に行われたJ-CPAC のイヴェントで来たという。が、〝「バノン来日公演」4万8600円払って行ってみたら、ズッコケた〟という記事にあるように、来たには来たが、一般向けにはまだ顔見世程度である。バノンは、トランプとの関係で知られるようになるまえに、NHKの仕事をしている。したがって、NHKとはコネクションがあり、だから、NHK国際は、かなりひんぱんにバノンのことを報じている。 独占インタヴューもある。わたしが言いたかったのは、もっとマスレベルでバカ受けしかねないということだ。
(2018/01/08)
「まつ人、をしむ人、喜こぶ人、さまざまなるべき新玉のとし立ち返りぬ。」(樋口一葉、1892年元旦、日記)
教育勅語(1890年) 大津事件(1891年) 「君が代」選定(1893年) 日清戦争(1894年)