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2022/03/30

ウクライナ戦争で「雑日記」にもどった。 簡素なCSSへのこだわり

ウクライナ戦争についての雑感はすでに『発作のウトポス』No.3に書いたが、日々書きたいことが急に増え、雑誌形態では歯がゆくなった。アキタトキニハスグヤメル、ヤバイトキニモスグヤメルを信条とするこのサイトでは、早速雑誌形態はやめることにした。

で、じゃあなにをやるかと思ったとき、『発作のウトポス』で書いたCSS(カスケーディング・スタイル・シート)の簡素さは捨てがたかったので、そのフォーマットを踏襲し、総タイトルだけを『雑日記』にもどすことにした。

クリス・ロックの「魂胆」

早速、ウクライナ戦争について続きを書こうとしているうちに、気まぐれ的に関与したヤボ用で時がたち、第94回のオスカー/アカデミー賞が決まり、まずはこちらについて書こうと思い、受賞作をチェックしてみた。ところが、どいつもこいつもピンと来ない。

まあ、こっちの映画への思いが変わってしまったのと、候補作品・俳優自体に鋭さが貧しいのである。そもそも、「ウィル・スミスの平手打ち」事件のような副次的エピソード大きな話題になるということからして、今回の受賞儀式の乏しさを表している。

ただ、この「事件」に関しては、マスメディア(いまやSNSも含む)が取り上げないことをあつかおうとしてきた本欄としては、大急ぎで書いておきたいことがある。むろん、本欄のことだから、「事実」関係の保証はない。

それは、平手打ちされたクリス・ロック(Chris Rock) には最初から「魂胆」があり、それは、ロシアの侵攻で始まったウクライナ戦争の暴力への批判を展開することだというのだ。そういえば、軍隊の男性至上主義を批判した映画『G.I.ジェーン』にひっかけてウィルの妻ジェイダ・ピンケット・スミスの短髪をからかい、“脱毛症で悩んでいるのになんてことを”と夫のウイルを怒らせ、平手打ちを食わせて暴力に関心を持っていくというのは、沈滞したハリウッドにはいい刺激だ。

クリス・ロックといえばSNL(サタデー・ナイト・ライブ)のメインメンバーであり、彼の辛辣な政治感覚には定評がある。2020年10月4日の番組で、ステージに登場した彼は、「番組のまえにひとこと。トランプ大統領がコロナで入院しました。コロナに気の毒で心が痛みます(My heart goes out to Covid)」と言ってのけた。

"My heart goes out to you. " は、誰かが不幸に見舞われたとき、「お気の毒で(心が痛みま)す」といったなぐさめの表現だが、その相手をトランプではなく、Covid-19にすり替えたわけである。要するにあんな野郎に感染されて、コロナも気の毒だなという意味である。

このときの観客は、彼のジョークに慣れているから、このジョークにどっと笑ったが、これまたツイッターなんかのチクリでトランプ派の連中の怒りを買い、翌日、毎度トランプに扮しているアレックス・ボールドウィンが座長役のような形で、このときは「真顔」で慰め的な声明を出し、バランスを取らざるをえなくなった。

戦争の暴力問題にしたかった

ただ、今回は、クリスがその場で、「ウクライナで起こっているロシアの暴力にくらべれば、こんな平手打ちは屁でもないよ」と言うとか、あるいは、ウィル・スミスのほうが、「暴力をふるって申し訳ない。ウクライナのロシア軍の暴力に免じて許してね」とでも言うとか、軽妙なポリティカル・ジョークの展開が見られなかった。さらに、まずいことに、最初は笑っていたウィルが、途中から「本気」の表情でクリスに罵声をあびせかけてしまった。会場にも気まずい雰囲気が流れた。

このため、ウィルの「暴力」だけが独り歩きし、のちの記者会見でウィルが「涙ながらに」陳謝したという報道が流れた。が、日本でよくあるように、ひとつの「失態」に対する陳謝のためだけの会見ではなく、基本は主演男優賞受賞の挨拶で、そのなかでそうい陳謝の言葉も漏れたということで、「涙目」は受賞の歓びからのもので、「申し訳ございません」の涙ではなかった。

一説によると、クリスは、あとで、アレックスだったらなとちょっとぼやいたとのことだが、アレックス・ボールドウィンは、『発作のウトポス』でも書いた銃の事故で撮影監督を死なしてしまった問題があり、いまだ謹慎中で人騒がせなパフォーマンスはできない。彼なら、トランプのキャラをパロってきた俳優だから、白人の大柄の男が黒人のやさ男を平手打ちにしても、観客は「本気」にはしないはずだからである。暴力を白人がふるうというのもきわめてアクチュアルな設定になる。

主演男優賞の候補は、ウイル・スミスとデンゼル・ワシントンを除くと、ハビエル・バルデム、ベネディクト・カンバーバッチ、アンドリュー・ガーフィールドとみな白人である。平手打ちのパフォーマンスぐらいなら、このうちの誰でも出来るだろうが、みんなシリアスな雰囲気の俳優ばかりで、「本気」の展開になってしまう。もうひとりの黒人俳優デンゼル・ワシントンじゃあ、(『マクベス』は最高だったが)怖すぎる。とすれば、知り合いでなくもないウィル・スミスということになる。

助演男優賞候補はみな白人だが、トロイ・コッツァーもシリアスすぎ、キアラン・ハインズは怖い感じ、ジェシー・プレモンスでは迫力が出ない、J・K・シモンズだと、「攻撃」が「変態」っぽくなってしまう。やはりウィル・スミスしかいないのだ

この問題は、今後の展開次第というところもないではないが、すでに、プロットは「本気」路線で進んでおり、「クリス・ロックは、ウィル・スミスを訴えるべきだ」などと言いだすのもいる。むろん、その反対に、クリスの言説の「不適切」をやり玉に挙げる流れも不滅である。

いまごろ「平手打ち」シーンの映像をスローモーションで分析し、「これは演技だ」なんて言っているひともいるが、クリスもウィルも、実際には接触なしに殴る/殴られるのシーンを演出するスタントアクションは体得済みだが、そういうことはどこかに飛んでしまったのも、いまのハリウッド環境の貧しさである。

「暴力」の多義性の終わり

2年ほどまえ、デヴィン・ザーネ・ショウ (Devin Zane Shaw) の『アンチファシズムの哲学:ナチを殴り、白人至上主義と戦う(生ける実存主義)』〔Philosophy of Antifascism: Punching Nazis and Fighting White Supremacy (Living Existentialism) 〕という本が話題になったことがある。この本は、「ハイル・トランプ!」で有名な極右のトランプ主義者のリチャード・スペンサーがワシントンDCの路上で殴られた事件に触発され、「暴力」の両義性に焦点をあてているが、かつては「愛のムチ」から「鉄拳制裁」ぐらいまでは許された「暴力」が禁止事項になるのは、テロリズムのエスカレーションと同時に、身体性そのものに対する認識論的な変容の問題が介在する。

しかし、今回の事件でこの問題をからめると、「不適切」な(といってもアイロニーとしての)発言行為自体が暴力で封殺されるという流れに持っていかれそうである。クリスくん、どうする? 冴えに期待する。