「シネマノート」  「Polymorphous Space」  「雑日記」  前頁  次頁

粉川哲夫の雑日記」


[12] 「日本の発展」

arrestedNoel.jpg 「日本」にこだわるひとが多いこの日本で、こんなことが許されていいのだろうか? もし「日本の発展」を望むのなら、若い才能ある者がちょっと元気なことをやったぐらいで抑圧してはだめだ。「産業の発展」を望むのなら、「やんちゃ」な才能に新しいチャンスをあたえるべきである。

ドローンの規制が進みつつあるが、日本のマスメディアは、基本的な誤報を流している。「アメリカでも」と称して例にされるアメリカで目下進んでいるのは、ホビーとしてのドローンやRCをともども認可制にしてしまうような規制ではなくて、ドローンの商業利用を「脱規制」(日本訳では「規制緩和」)しようということである。

現在の法律では使用が不可能な商業利用(そのなかにはジャーナリストによる取材なども含まれる)を可能にするための法規作りなのである。「あぶない」からやめるというのではなく、今後ますます高まるドローンの使用への道を開くためである。これは、日本の法規制とは真逆の方向である。つまり、現在のところ、ホビーレベルのドローンやRCの使用を規制するなどという動きはアメリカにはない。

日本でも、ドローンの民間利用を促進するつもりだとしても、放送や報道の世界と同様に、大手にしか基本的に開かないような性格の規制の枠をはめ、ヴェンチャービジネスや個人などにはなかなか認可が下りなようなおなじみのやり方である。

ノエルへの、とりわけマスコミレベルの攻撃は、暗黙に、彼のこれまでの活動が、既存の放送や報道が寝そべってきた基盤をぐらつかせたという点にある。独力で、機材までかかえて、マスの放送や報道には決してできないことをやってしまったことへの構造的な復讐である。

国家というのは、そういうときにこそ、不偏不党の道を指し示すべき機能をになっているはずだが、国家と「民間」の大組織とが癒着しているので、国家が大組織に不利なことはやらない。国家は、大組織にとってのみ意味のある呪文のような存在になっている。

軍やCIAのような法規がらみの組織からもエドワード・スノーデンのような反逆的良心が生まれる国と、カルヴァンもびっくりの警察国家日本との落差は、今後ますます開いて行くのだろうか? ステファン・ツヴァイクは、ナチのドイツをカルヴァン独裁時代のスイスに重ねあわせながら、あらゆる娯楽を禁じられた「ジュネーヴの市民たちがいちばん好んだのは、自分の家に閉じこもっていることだった」と書いている(高杉一郎訳『権力とたたかう良心』、みすず書房)。

わたしは、いま以下の英文を書き上げ、世界の友人たちの感想を聴きはじめたところである。

Japan has turned out to be a repressive police state still now.

Since a couple of months ago, Seiya Kitazawa, a 15 years old net-activist, aka "Noel" worked hard at AfreecaTV (one of the relatively freer chat-streaming site). He had a unique style of independent live transmission with his white half mask and carrying his laptop just like a "cigarette girl" in the old American movie theater and transmit his talks and live movie images at various spaces. However, he met a lot of reactions from mass media and reactionary chatters because he was "too forward" and didn't mind familiar-Japanese manner and censorship. His transmission is not sophisticated but critically "alienated" the contradictions of Japanese mainstream media and alleged "democracy".

Apparently, they leaked his allegedly "illegal" (against the broadcasting regulations and socialized manner) behavior to the police. So, when he transmit his DIY program in Fukushima at the 3 years anniversary, police officers tried to stop him and even tried to take him to the police station. As he continued his interesting attempts, mass media tried to scandalously report his work.

As soon as he started his transmission, the police came and challenged him "what are you doing here?" He insisted on his freedom of speech and citizen right. But on the 29th of April when he started using a drone photographing cities from the sky, criticism against him escalated dramatically. And finally he was arrested at his home in the midnight of 21st of May! http://www.japantimes.co.jp/news/2015/05/21/national/crime-legal/teen-arrested-planning-fly-drone-tokyo-festival/#.VV3UdkbJnac [The fact is more complicated, but I can show the examples of mass-circulated English paper in Japan.]

What is the suspicion against him? The police argued that he "planed using his drone at the traditional festival in Asakusa, Tokyo which was to be held on the very day and it had a possibility to disturb the festival business. Kitazawa didn't plan such a thing and said definitely that he was probably just streaming from Asakusa. Usually, it would be impossible for the police to prosecute him. But they are very eager to do so.

The timing is bad because the Abe government has been trying to force establishing a special law for using drone. Don't mix up with the similar attempts of the other countries. For instance, in the US, the possible regulation is to be for the commercial use of drone: the hobby use is not be the aim. But in Japan, the government tries to prohibit the use of drone without licenses and to control everything.

Coincidently, there was a strange incident that a middle-aged guy had tried a drone demonstration against the Abe administration. The government argued it as the terrorist attack. But according to some speculation, this incident might be a put-up job to legitimate the law, though. http://www.japantimes.co.jp/news/2015/04/25/national/fukui-man-arrested-landing-drone-prime-ministers-office-says-protesting-nuclear-power-policy/#.VVZQ7JPJnad

Kitazawa has been never "political" nor declared any ideological messages against the government policy. He just tried to show his personal interesting talks and view images over the internet. That's why I highly evaluate his activity in the age of micro-politics. I think he is a radical successor of Mini FM although he didn't learn about it. Today, traditional type of criticism and demonstration don't work anymore.

The repression against him reveals that in the area of micro-politics, Japan is much more controlled and unchanged. In the level of micro-politics, Japan is unchanged from the prewar period to the present. After his first challenge on the 29th of April, he flied his drone over the Buddhist temple in Nagano to show the ceremony on the 9th of May. Unfortunately, the drone 'landed' in the midst of the ceremony. Mass media reported that it "crashed" but it is a lie. Moreover, there is a speculation that it was hacked and forced to land by a cyber police department. http://www.japantimes.co.jp/news/2015/05/15/national/boy-15-using-pc-caught-trying-fly-drone-near-diet-building/#.VVZZi5PJnad

On the 13th, he tried to show City of Tokyo from the perspective of the top of Edo castle but just before starting his another drone (the previous one is still in the police department) many cops came and brought him to the police station on the excuse that they had to "protect" a "juvenile" (15 years old) who rejected his identity. He was released after 4 hours. But it turns out to be the beginning. He was arrested and will be in the police station not allowing to meet even his parents (except his lawyer) even after 14 days and more.

This is too unreasonable and absurd. Given the present "nationalist" feeling, people might consider "outsider's" opinion and criticism as an "domestic" matter and even as an "domestic interference". But I am wondering that as a world-citizen we might have any solution to clarify this absurdity.

Tetsuo Kogawa, Tokyo Japan

(2015/05/30)
[11] ドローンと「不敬罪」

nogoduphere テレビと新聞がノエルの逮捕理由として挙げているのは、警察発表そのままの「三社祭でドローン飛行示唆」(読売新聞)であり、「三社祭で小型無人飛行機(ドローン)を飛ばすとインターネット上で予告し、祭りの進行を妨害した」(朝日新聞)というものであるが、「少年事件課によると」といった観点ばかりで、本人に関しては、「容疑を否定しているという」という程度の記載しかない。マスコミが権力の「広報」化したのは、昨日や今日のことではないが、報道なのだから、事実を伝えるぐらいのことをしてはどうか?

報道にはリサーチが必要である。時間がなくてできないのなら、時間をずらせばよい。とりあえずの無責任な報道が、これまでどれだけひとを追いつめてきたかわからない。今回のノエルの「暴走」も、もしマスメディアが無責任に彼の配信の又聞き的な内容を誇張して報道したり、傍観者的姿勢で物語づくりをやって事件化しなければ、起こらなかったかもしれないのだ。彼のほうも、マスメディアに騒がれることに無関心ではなかったから、破滅的な結果がみえみえの「暴走」をみずから呼び寄せたことも事実である。

しかし、ノエルは、三社祭でドローンを飛ばすという「予告」などしてはいない。この話題は、5月14日夜の「理不尽」と題するAfreecaTVにおける配信で語られたが、彼自身は、三社祭でドローンを飛ばすとは言わなかったし、「予告」したりもしなかった。チャットの書き込みをする参加者が「三社祭にドローンを飛ばしてくれ」という挑発的な文章を書きはした。しかしながら、彼の発言と書き込みを確認できるノエルのチャンネルが、翌朝にはAfreeca側の意思で停止されてしまったので、その「過去記録」(http://afreecatv.jp/33879426/v/87755)を再確認することはできない。おそらく、すでにこの時点で警察の介入があり、AfreecaTVはその要請に応じたのだろう。

が、記録がないわけではないから 【下段注参照】、今回の逮捕のことを報じるのなら、マスメディアはそういう記録を入手して、経緯を確認するとか、あるいはAfreecaTVに問い合わせるとかして、事実を報道すべきである。ちなみに、ネットの生配信というのは、YouTubeなんかに転載された映像だけで判断してはならない。チャット欄とセットになって進むのだから、その両方を見なければ、事実誤認をする場合もある。ここが、一方通行のテレビや新聞とは違うところなのだ。

善光寺の境内に「落下」(「墜落」という表現もある)したノエルのドローンに関しても、マスメディアは全く警察発表だけを横流ししている。複数のテレビ局が撮ったニュース映像をつなぎ合わせてみると、赤い機体のParrot Bebopは、速いスピードながら、「落下」や「墜落」ではなく、ちゃんと着陸していることがわかる。それがバウンドして、裏返しになるのだが、それは、着地に無理があったためであり、この程度のことは、ドローンの動き方として決して異常ではない。

では、なぜドローンは儀式の場所に着陸したのか? 操縦ミスの可能性はある。操縦のトランスミッターと機体との距離が延びすぎて、電波が弱くなり、コントロールが効かなくなった可能性はある。が、他方で、この種のドローンは、同種のトランスミッターを持ってくれば、操縦をハックすることができる。マスメディアが、本当に事実報道をする気があるのなら、そのへんを調査すべきである。本体に装填されているメモリーカードを調べれば、どこでどういう飛行変化が起きたかがわかる。また、参道に転がった機体をすばやく拾ってSECOMの警備員に渡した男は何者だろうか? 

逮捕理由は、「威力業務妨害罪」に抵触するというのだが、「威力を用いて人の業務を妨害する」というその「威力」と「業務」の解釈にも諸説あり、検察が起訴に持ち込むことは難しいだろう。もうすでに拘留を解かれているかもしれない。が、48時間をこえて拘留され、それが延長されることになれば、日本の司法は、「不敬罪」でひと(しかも15歳の少年)を拘束し、罰しようとするということになる。

実際、彼にかぎらず、マスメディアで非難をあびるさまをながめると、日本には「不敬罪」が依然生きているように思えてならない。戦前戦中の「不敬罪」よりも、もっと広範なモラルを戒め、タブーで塗り固められたモラルの枠を越えると、まずは週刊誌やテレビでたたかれ、そのつぎは、「国策捜査」、「国策逮捕」がはじまるのである。

ノエルは、警察官に「言いたい放題」言ったことは事実である。彼の生配信でその様子を見る者が、子気味よい思いをしたり、そうした反応をノエルが知らなかったということはない。が、いまでも見ることができる記録で彼の発言を聴けばわかるように、彼の言っていることは正論である。ドローンをもっているだけで、パトカーに連れ込むというのは、「民主国家」のやることではない。

しかし、実は、ノエルは、警官の侮辱よりももっと重大な「不敬罪」を犯した。それは、5月1日に京都の東本願寺ちかくでドローンを飛ばしたときに、本願寺の警備員が漏らしたように、「高所から寺を見下ろすのは宗教的な問題がある」ということである。また、5月9日の長野善光寺の場合も「聖なるもの」を上から見下ろす行為であった。さらに、5月14日に国会前庭庭園から垂直方向に100メールとほどドローンを上昇させ、「江戸城」の高さから東京をながめようとしたと言っているが、これは、いまだ生きている古典的な「不敬罪」に抵触する。

そのむかし、猪瀬直樹が『ミカドの肖像』(小学館)で、東京海上ビルの高さが、「百メートルよりわずかに三十センチ足りない」ということを指摘して、話題になった。このビルが昭和41年(1966年)――戦前・戦中ではない――に計画されとときは128メートルの高さだったのだが、それが許されなかったのだ。なぜか? それは、皇居を「見下ろす」ことになるからである。だから、「江戸城の高さ」から東京を見下ろすなどというのは、タブー中のタブーであり、「日本の暗部」をかき回すことになり、かき回されたほうは、必死で抵抗してくるわけである。あな恐ろし。


不完全ながら、第三者によって、このときのやり取りがYouTubeに掲載された。参加者が書き込んだチャットの文字も読める。
《【ノエル】 浅草・三社祭 犯行予告映像 ドローン 【ニコ生】》という転載者が付けたタイトルにもかかわらず、この記録を参照すれば、ノエルは、「行きますよ、撮影禁止なんて書いてないからね」と言っているのであって、ドローンを飛ばしに行くとは言っていない。
この「記録」の終わりのほうでは、「さわーず」というハンドルネームのチャット参加者が、「犯罪予告で通報しました」という書き込みをしたので、いったい自分がいつ「犯行予告」などをしたかとノエルは言い、「さわーず」に説明を求めている。が、この人物は、このあと姿をくらませてしまう。
この個所をちゃんと聴くならば、「犯行予告」などまったくしていないということがわかる。マスコミは、この点で、完全に誤報を流している。というより、ノエルを「犯罪者」に仕立てる犯罪に加担している。
(2015/05/22)
[10] ノエルの逮捕

censor-and-freedom-of-speech-media-prisoner-and-human-rights いま幕張メッセでは、「第1回国際ドローン展」が開かれている。他方、街ではドローンまがいのものを持ち歩いているだけで逮捕されるような状況がエスカレートしている。事実、有楽町で「羽をはずしたドローン」のカメラをつかっていたノエルが、本日、「威力業務妨害」の疑いで警視庁に逮捕されたという。もし、ドローンが持っているだけで逮捕されるような危険なものだとしたら、「ドローンに関連する人・情報・技術の交流の場として、産学官が一堂に集い、一丸となって新たな産業を育成する絶好の機会」(開催にあたっての言葉)なんかを設けていいものだろうか?

ある意味、新技術を個人が問題にすると危険視され、政府承認の組織がやればOKというのは、この国の国風ではある。ドローン展の認識では、ドローンは、「新たな産業として無限の可能性を秘めている」のであり、本展では、「グローバル競争に勝ち抜くため、スピード感ある実用化に向け、法規制などの世界的な動向も積極的に情報発信されます」という。

ノエルの逮捕は、正論をつきつけられた警察が、旧い体質そのままに――つまり「国際ドローン展」などの「グローバル」な方向とは真逆に――勇み足をしただけなのかもしれないが、日本って、全然変わっていないのですね。ノエルぐらいの「やんちゃ」を許容できない国家というのは、先行きが暗い。ミクロな政治をみたら、いま、戦前・戦中となにもかわらないじゃないか。

思い出したが、『週刊文春』5月28日号の「身柄引き受け拒否に警察激怒 15歳ドローン少年 家庭環境と余罪」(138~139ページ)を読むと、すでに先週あたりから、ノエルの逮捕のシナリオが警察とマスコミの一部との連携で進んでいたことがよくわかる。マスコミによるスキャンダラス化→逮捕という構図が始まってから久しいが、ここまで来ると、末世である。

(2015/05/21)
[9] ドローンと体外離脱

OBE_beyondVR ドローンというと、米軍によるISIS殲滅とか、「官邸襲撃」とか、善光寺境内への落下(末尾の【注】参照)とか、否定的な話題ばかりがとびかっているが、はたしてドローンとはそんなものでしかないのか?

YouTubeのような映像資料サイトには、アフガニスタンでタリバンの「殲滅」に使用されたらしいドローン攻撃の生々しい映像がいくつも投稿されている(参考:Incredible!! Isis being taken out by US Helicopters/Drones at night. Happening now! Not on the news!)。映画『ピースメーカー』(1997)ではまだ映画的誇張と思われたドローン攻撃は、『シリアナ』(2005)の公開時にはかなり現実化し、いまは、映画的現実をのりこえてしまった。

しかし、ドローンのこうした使い方は、ドローンを空撮や運搬の道具として使っているのだが、道具をそのように使うかぎり、ここには、生身の人間の存在は捨象される。兵器としてのドローンは、通常、搭載したカメラで地上を空撮し、その映像にしたがって飛行機やヘリコプターからピンポイントの爆撃をくわえるという使われ方をする。そこには、映画『Drones』(Rick Rosenthal/2013)で、この「正確すぎる」殺戮システムをコントロールする要員の良心の呵責が描かれていたように、このシステムの端末には「人間」が存在しはする。しかし、その人間は、メカニカルなシステムに隷属せざるをえないのであり、事実上「無」なのだ。ドローンにかぎらず、軍事システムにおいては、兵士はそのメカニズムになる。

ドローンを単なる空撮や運搬装置として使うかぎり、人間の存在はかぎりなく無化される。が、ドローンのそうした使い方とは反対に、人間的なものの拡張・展開のために使う方法があり、それは軍事的使用におとらぬ歴史を持っている。FPV (First-person View)である。要するに操縦者の「わたし」(一人称)の視点を空に飛翔させることである。

FPVは、 ラジコンの模型飛行機にカメラを搭載するような試みのなかでさまざまに実験されてきた。空撮だけが目的なら、飛行機にカメラを積んでやれば済むが、無人の飛行機にカメラを積み、その映像信号を送信機で地上に送るというのは、地上でその映像を見る者の眼として無人飛行機を使うことにほかならない。視点を換えて言えば、眼を身体からかぎりなく拡張したいという夢がこのような試みをさせるのであり、FPVとは、ある種の「体外離脱経験」(out-of-body experiences=OBE) にほかならないのである。

ロバート・モンローが言うような「体外離脱の旅」(Jouneys Out of the Body)が可能かどうかはわからないが、ドローン・テクノロジーは、ラジコンではまだ単なる「空撮」とみなさらざるをえなかったことを、ニューエイジ・ファンタジーをこえた「体外離脱経験」にかぎりなく近づける。体外離脱とは、また、いまのVRやARが追及している「テレプレゼンス」にも通じる。物理的な距離を介して自分を身近に感じること。自分はここにいるが、同時のあちらにもいる。「離脱」とも言えるし、「旅」とも言える。

ノエルは、4月29日の「新企画 Fly to NOEL ドローンで空撮」以来、「Fly to NOEL ドローンで桜」、「Fly to 古都 夕焼けドローン」、「Fly to 黄金の空」、「姫路城空撮」、「Fly to 御開帳 ドローンで空撮」と、5月9日の「墜落事故」まで、彼自身の「体外離脱経験」をライブで配信し続けた。「空撮」という語を使っているように、彼には「体外離脱」の意識はなかったようだが、この配信にネットを通じて立ち会った者は、彼が撮影者としてドローンを操り、視聴者はその被写体を見るというのではなく、ノエルという人物がParrot Bebop Droneというドローンを通じて空中に「体外離脱」していくプロセスに立ち会ったのだった。このドローンは、内蔵メモリーへの録画では14 MP (3800 x 3188)/1080p30の映像を撮影できるが、WiFiで送られてくる映像のレゾリューションはそんなに上質ではない。その映像を巨大スクリーンで見た者はいなかっただろう。が、ノートパソコンやiPhoneの小画面で見ても、この「空撮」にわくわくするものを感じたとすれば、それは、単に被写体よりも、映し方がユニークであったからであり、セッティングから離陸、着陸、そしておまけに警察との騒動までが映されたからである。視聴者は、ノエルの体験をリモートで追体験した。

官邸の屋上に落ちていたというドローンは、Parrot Bebopより高価なPhantom 1らしいが、警察発表では、これでなにかを偵察した気配はなく、福島から持ってきた少量の汚染土を積んでいたという。つまり、この操縦者は、ドローンを運搬装置として使ったのであって、FPVとして使ったわけではない。これは、ドローン・テクノロジー使い方としては「遅れている」。操縦者は、福島の土地に依然として「セシウム134」が存在することを警察とマスコミに「不本意」に――本来ならばあらためて問題にしたくない――発表させてしまったことは、評価できるとしても、彼がドローンで体験したことを他者に共有させることはなかった。

ちなみに、この事件によって官邸の「無防備」が非難されたりもしたが、実際には、この事件は、ドローンを規制する格好の材料として利用された。なぜなら、日本の公安は、Parrot Bebop やPhantom程度のホビー用ドローンをハックするノウハウはすでに習得済だからである。それは、別に公安やサイバー警察でなくても簡単にできるテクニックである。同じコントローラー(トランスミッター)を用意し、操縦者よりも近距離から操縦してしまえば、どうにでもなるし、また、「ドローン・ジャマー」を使って、コントロール信号(通常は2.4GHz)を封殺してしまえば、ドローンはたちまち制御を失ってしまうからである。アメリカでは「Dorone Jammer」と銘打った製品が数々出ているが、日本で「携帯電話電波遮断機」というような名で発売されている製品を使っても可能である。ホワイトハウスはすでにやっているというが、官邸でも強力なジャマーで周囲を防御済かもしれない。ただし、ジャマーからは身体に悪い電磁波が流れるから、その代償は覚悟しなければならない。

ドローンは、すでに映像表現のひとつのトレンディなスタイルになりつつある。しかし、「体外離脱経験」の面白い、飛びぬけた表現方法のひとつとして意識された試みはまだ多くはない。CGIによる「ウォークスルー」とさしてちがいがないものが多い。それは、身体を持った「主体」の介在が及び腰だからである。だから、身体表現と電子テクノロジーという点ではいつも「先駆的」なポルノ業界がドローンでそれなりの成果をあげるということにもなる。Drone Hunterというポルノ映像シリーズのサイトには、「Hunting For Girls Using The Most Advanced Geek Technology」という文字がおどる。つまり、ギャルをハントする男の意識を表現するには、ドローン的映像が適しているというわけだ。たしかに、ハンティングは、ある種の「体外離脱経験」かもしれない。

【注】ノエルのドローンは、5月9日、「御開帳」さなかの善光寺の境内に「墜落」した。これは、彼の操縦ミスの可能性もあるが、意図的に落とされた可能性も高い。すでに4月29日から警察にマークされ、ドローンの機種も特定されていたから、そのコントローラーを用意して近距離からハックすることも、ジャマーで制御不能にすることも十分可能だったからである。機体に積まれたメモリーカードを見れば、第2の制御者の姿を確認するこもできるかもしれないが、もしそうなら、機体が警察に押収された時点で消されているだろう。いまではもう確認することはできまい。
【追記】テレビのニュース映像を詳細に分析すると、このドローンは、決して「墜落」してはいないことがわかる。かなり乱暴なやり方で「着地」してはいるが、制御を失って地上に激突したわけではない。ということは、意図的に僧侶の列のそばに着陸させたという可能性もある。着陸でバウンドした機体が裏返しに静止したとき、すぐさま飛んできて機体を拾った男は誰か? 片手に持った書類は? 肩からかけたバッグは?
【追記】問題の映像を「メディア・リテラシー」の講義素材のようなスタイルでまとめてみた。→ YouTube 「長野の怪 Nagano Mystery 」
(2015/05/11)
[8] 通報とプライバシー

window-privacy 神出鬼没のノエルは、4月28日、長野県飯田市の市立動物園にあらわれた。ここに来るのは初めてとのことで、とても初々(ういうい)しい目線で動物園のアンデスコンドルやニホンザルの群れを眺める自分とその視覚の延長線上の被写体としての動物たちを映しながら、楽しそうだった。彼自身が感動していたように、AfreecaTVの映像は鮮明であり、既存のテレビとも、ビデオアーティストのもったいぶった映像ともことなる映像パフォーマンスが実現したが、30分もしないうちに、またしても職員から「撮影許可」を取るようにという横やりが入った。

そのものごしは一見「おだやか」であったが、指定された市役所に行き、事情を話したあとかなり長い時間待たされてから言われた結果は、いつものパターンだった。許可を出さないわけではないが、その相談をするには「まず生配信を停める」ことが条件だという。が、ノエルのほうは、常時自分を撮り、配信することが基本で、配信を停めることはできない。過去の彼の配信を見ている者は、彼が意図的にそうした「対立」を企画していると思うかもしれないが、最初の配信から見るならば、彼が「市が無料で一般公開している」この動物園についてネットで紹介したいと思ったということにウソはないことがわかるだろう。

が、もし、それが意図的な試みであったとしても、なぜ彼の生配信はいつも妨害されるのか? わたしは、ここに、日本の特殊事情のようなものを感ぜざるをえない。この日、「撮影許可」を拒否した市役所の職員は、言われたとおりに「退去」するノエルを追跡し、配信を停めろと要求するのであった。彼らが言うには、「市の公道」で無断配信はできないというのだが、「公道」というのは、「市民」が自由に使える場所ではなかったのか?

しかし、考えてみると、日本には「国民」はいても「市民」はいない。「都」(みやこ=宮処=貴人が住むところ)はあっても、「都市」はない。「都」は、所有地だが、「都市」には「市民」の自由をゆるす《共有圏》がなければならない。中世ドイツの封建領土に対して「都市の空気が自由にする」と言われたのは、都市ではつかのまであれ、支配・隷属の関係が帳消しになるからであった。日本の「公」というのは、共有ではなく支配の概念である。「公」は市民の共有性ではなくて、国家が国民を支配する便宜的な平均値でしかない。

「市民」と「都市」を獲得した西欧でも、個々人の《共有圏》としての「公」(パブリック)が特定の「私」(プライベート)にすり替えられていく傾向が強くなってきた。「公」は、大企業のビルの広めの歩道のように、「私」の「チャリティ」になってきた。「市民」の要請という操作されたロジックを口実に監視カメラがかぎりなく増設される。が、日本の場合は、「市民」は不在だから、「官」は思うままに監視カメラを街に増設、国家によって監視された世界をもって「公」と居直ることができる。

飯田市役所の職員は、「通報」があったということを理由にノエルの配信の停止を要請した。もし、「公道」が《共有圏》ならば、その使い方は、使う者同士の交渉によって決められるべきである。市当局などが頭越しにその使い方を命令することはできない。「通報者」は、映され、配信されることが「迷惑」だと言っているというのだが、「迷惑」というのはなんだろか?

長野県には、日本の他の県と同様、「迷惑防止条例」(公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例)がある。ここには、「何人も、公共の場所又は公共の乗物において、みだりに、他人を著しくしゆう恥させ又は不安を覚えさせるような仕方で、次の各号に掲げる行為をしてはならない」ことを禁じる第4条の(2)として、「衣服等で覆われている他人の身体又は下着をのぞき見し、又は撮影する行為」というのがある。しかし、自分を撮る配信を禁じてはいない。それは、「公衆に著しく迷惑をかける」暴力行為などではないからである。

法律というものは、いったん制定されると、その法律が禁じる事項を先取りして予備的な逮捕や処置をおこなう口実になる。「迷惑防止条例」の場合、「迷惑」があって適用されるのではなくて、「迷惑」が予測されるからあらかじめ「防止」しておこうというぐあいに使われる。これが昂じると、個人宅のまえに立っている者がいたら、「覗き」をするのではないかと予測して逮捕するようなことになる。

日本の生活習慣は、「迷惑防止条例」的になってきた。街を歩いても、電車に乗っても、個人宅やマンションの窓が見えるが、その大半はカーテンでしっかりと閉ざされている。これは、海外ではめずらしい。見ようと思えば、素通しのガラス越しに家々の生活が見える。それは、「犯罪都市」といわれるような都心でも変わりがない。なぜ、日本は、こんなに「秘密主義」になってしまったのか?

それは、個々人の共有領域としての「パブリック」が存在しないまま、「プライベート」の領域が肥大したからである。だから、プライバシーを守ろうとすると、お上に頼るしかないというなさけないことになる。パブリックな場では、共有しがたい相手が出てきたら、議論をする、そして闘うという手続を踏むが、パブリック=公はお上が市民のふりをしてつきあう場でしかないから、お上に「通報」するということが、公への「正当」な手順になる。まあ、覗きとまちがえられて家のなかから銃をぶっぱなされるより安全かもしれないが、そういう苦労がないだけの代償は大きい。

パブリックな場での自分の行為をつねに生配信するというノエルのやり方は、《共有圏》の幅を広げることに貢献している。パブリックな場所というのは、本来、個々人がその共有意識を発揮して自己表現をするための場である。個々人の意識や行為を個々人の「所有」にとどめないで開放し、共有させることによって、パブリックな場は豊かになる。インターネットは、日本のように、プライベートな領域は心や身体の深層部分にしか残されず、パブリックな領域は国家に独占されてしまっているという場所では、わずかに残された可能的な《共有圏》である。「可能的」というのは、そのままでは決して自動的に《共有圏》にはならないが、勇気ある努力と実験次第では、創造的な《共有圏》になりえるからである。

(2015/04/29)
[7] 「シェア」は割り勘ではない

19770228_Voice_share 「シェアハウス」とか「シェアしましょう」とか、シェアという言葉が流行りである。が、日本でシャアなんて出来るのだろうか?

シェアの由来も英語 (share)である。が、これは動詞であって名詞ではない。外国語が日本に入ってきて、定着するときは必ず名詞としてである。それは、言語構造からくるのだが、名詞は、同じことが無限に反復することを前提とする。電車が止まって、「ただいま線路立ち入りがありましたので・・・」というアナウンスが入る。要するに誰かが線路に落ちたということだが、「線路立ち入り」という名詞にすると、そういうことが今回初めてではなく、比較的ひんぱんに起こっているということを意味する。いや、ひんぱんに起こってはいなくても、この言葉が出来た瞬間から、何度でも起こり得ることだという認識が成立し、この出来事の一回性はどこかに吹っ飛んでしまう。

shareという言葉ば物珍しかったので、わたしは、こんなリポートを書いたことがある。

若者は、また、体力にものをいわせてみつけたアパートメントを”シェアー”(一種の間貸し)し、家賃をセーブする――日本でこんなことをしたら即刻家主に追い出されるだろう。新聞の三行広告欄をみると、こうした”シェアー”の広告がたくさん出ている。「二十九歳の女性。円熟した男性との”シェァー”を求む・・・」などという思わせぶりなものもあれぼ、「当方左翼。バス、キッチン、用具一式共用可。革新思想の交換歓迎。ただし、性差別をする人、喫煙者お断り・・・」などといううるさい注文もある。シェアー代はもうまちまちで、安いのになると月五〇ドルぐらいからある。   シェアーといえば、日本から来た映画監督のMは、ニューヨーク大学の掲示板で女流画家がロフトをシェアーしたいという広告をみつけ、胸の高なるのをおさえながらそのロフトに行ってみると、ブーツをはいたその金髪の白人女性は、誰もがやるように、ひととおり台所やバス・ルームをみせたあと、「ここがあなたのベッドよ」と言って二段ベッドの上段を指差した。むろん下段は彼女のベッドである。が、もうこの手の女性にはうんざりしている彼は、それでも大いに迷った末、「やっぱり骨までしゃぶられちゃう感じがしてやめた」という。(『ニューヨーク街路劇場』、1981年所収)

シェアハウスという言葉は、5、6年まえから耳にするようになったが、この日本的造語が言わんとしているのは、居間やトイレや台所をシェアする家ということだ。しかし、これだと、shareという言葉に含まれる要素のごく一部を特化した意味でしかない。シェアハウスと並行して浸透した「シェアしましょう」という言葉は、「割り勘にしましょう」という意味だが、これも、「割り勘」をちょっとスマートに言っているにすぎない。

shareとは、割り勘にするということではなく、「共有する」ということだが、共有するのは、ものだけではない。共有するものがある以前に、共有できる条件がととのっていなければならない。さもないと、共有のつもりが「所有」や「占有」になってしまう。共有が可能であるためには、共有する個々人が、相手の権利を等しく認められなければならない。つまり人権を尊重する習慣がなければ、shareは成り立たないのだ。

シェアハウスで暮らしたひとの話によると、「共有」のはずが微妙に誰か特定の人物の占有に傾くことがままあるという。だから、シェアハウスの管理人は、そのテナントの権利のバランスを取るのに気を使うという。が、これって、いかにも日本的である。共有は、自発の行為である。管理人がルールを作り、命令ではなく暗黙であれ、ある方向に仕向けるのでは、共有でない。

日本で「共有」としてのシェアがいかにむずかしいかは、ノエルのこれまでのライブ配信で証明されている。4月21日、彼は、靖国神社に「参拝」に行った。「終戦70年の節目の年なので正式参拝します」というのだが、「テレビでよくありますよね、総理や天皇が参拝してほかの国からさあ、ぶうぶう言われる・・・」などとアバウトなことを言いながら境内に入っていくので、天皇すら参拝を拒否しているというようなことも知らないで、ノエルも所詮は「いまの若者」かと思っていたら、10分後には、私服の公安警察官たちに囲まれてしまった。カメラを外付したノートパソコンを例の「お弁当屋」スタイルでかかえた姿が目を引いたのだが、基本的に、この場所から配信をするということが許されないのであった。

ノエルは、したたかに抵抗し、ほかのひとたちがケータイで儀式(白装束の連中がなにかをやっている)を撮っているのに、なぜ同じことをやっている俺がいけないのだと抗議したが、これまでのこの種の拘束のなかでは、今回がもっとも厳しく、公安が強引にカメラをつかみ、ホールダー部分が壊れてしまったらしい。ノエルの場合、このときもくりかえし叫んでいたように、撮っているのは自分の顔であって、他人ではない。自分を撮ってはなぜいけないのか? つまり、この国では、自分の顔を撮って配信し、他人と「共有」することが許されないのである。

なにごとも、共有できるためには、フリーなゾーンが存在しなければ不可能である。共有圏があってはじめて共有が可能である。ネットも電波も、そうした共有圏にほかならないが、それがこの国では強力に規制されているのだ。基本的に、共有圏はなしにしておいて、そのつどお情け的に共有を黙認する(許すのですらない)というやり方である。

日本の人権問題(人権が決して尊重されてはいないということ)も、公共性が国家の利権とかさなってしまうこと(基本的に公共性は存在しないこと)も、すべて、個々人を越えた共有圏が求められていないという点に起因する。

神社は、本来、誰でもがその場を「共有」できる場所であるべきところである。電波もネットも公園も街路も、基本は、共有の場である。そこでのルールは、そこを共有する者たちが自発的に決めるべきであって、上からあらかじめ決めるようなものではない。

(2015/04/24)
[6] 自撮りと被写体
autopoiesys

ノエルの冒険は続いている。4月16日には、いきなり田舎(山梨あたりか?)から生配信だった。農家の広大な庭に台があり、そのうえで種と土を混ぜてブロックを作るような作業をしている。促成栽培の下ごしらえのようだが、よくはわからない。ノエルは作業に参加しているらしいが、若干引いている。画面は、いつもとちがい、作業をメインにし、ピクチャー・イン・ピクチャーの小画面にノエルの姿が映っている。

しかし、カメラが気になるのか、作業に没頭するわけでもない。饒舌な農家の主人らしい老人がしゃべっているが、何をやろうとしているのかがわからない。そのうち、見かねたのか、若いひとが老人にインタヴューをはじめる。どうやら、ノエルをこの現場に導いたひとらしい。有機栽培の活動家といった感じ。手際のいい質問だが、こうなるとNHKの探訪ものにちかくなる。

チャットの書き込みは鋭く反応し、「のえるはいちゃもんつけるのはうまいが普通のトークスキルなら浅い」、「話に加われよアスぺ」、「自分のテーマでしかしゃべれないのがわかっただろ」、「~さん、電話でもして助けてやれよ」というようなキツイ言葉がずらずら流れる。が、今回は、チャットを見ながらの配信ではないらしく、ノエルはチャットの批判に対応しない。ときどき、困ったような、孤独な表情が映る。チャットには、「ノエルはいま何を考えてるのかな~」と書く者もいる。

農『米』01 育苗箱に種籾を蒔く」と「農『米』02 田んぼ水抜きと早期栽培」と題する全3時間20分におよぶ生配信だったが、チャットの常連は、終わりのほうでこともなげに、「つまらん配信だったな」と書いた。たしかに、ノエルの配信らしくない配信であったことはたしかである。

既存のテレビは、もっと気軽にこういうルポをやればいいが、実際にはほとんどやっていない現実からすれば、ノエルのこの配信は偉業である。が、彼があえてこういうサービスをする必要があるだろうか? 批判的な書き込みのなかに、「アンチの自分がいうけど、ここまでやったら後戻れんぞw」というのがあったが、ノエルがこの方向に行くと、普通の放送局のが新しいネタを求めて「企画」を消化せざるをえなくなるという意味だ。

わたしもこの配信にはがっかりしたが、以前にも同じような印象を持ったことがある。それは、彼が、3月14日に渋谷でホワイトデーに反対するロートルたちのデモを「中継」したときだ(「ホワイトデー粉砕デモ in 渋谷」)。が、このときは、デモといっしょに歩きながら、撮影をしていたので、彼の顔の代わりにデモの姿を映すという《被写体主義》に堕してはいても、揺れる映像やノイジーで不安定な音声のおかげで、ノエルの配信というノリは残っていた。

農家からの配信では、カメラが固定された。ノエルが設定をしたとしても、彼の身体から切り離された。ノエルの配信の基本は「自撮り」である。が、彼の「自撮り」は、自分を「鏡」に映して自分で見、そして他人に見せている――というのではない。ある意味、ノエル自身はロボットでもアンドロイドでもよい。重要なのは、被写体を「リアル」(ぼんやりとかクリアとかとは関係なく)に映し込もうとするのではなく、映す者と映されるものとのカップリング(メルロ=ポンティなら「アントレラ」、ガタリなら「アジャンスマン」と言うだろう)を配信し、アクセスするものをそのカップリングに巻き込む点だ。

その意味では、この「退屈」で「教養番組」的な配信のなかにも、面白い瞬間は何度もあった。スタティックなカメラ/コンピュータ配置にもかかわらず、ときおり見えるノエルの困ったような、生身の他者に介入することができない彼の姿が、隠されることなく配信されたからだ。

ノエルが、自撮りでいかに本領を発揮するかは、彼が、この地から5時間のバス旅行のすえ、新宿駅に着いてから始めた生配信を見れば一目瞭然である。彼は、新宿から横浜まで車中からチャットに応答する生配信をやり、さらに、もよりの駅から自宅まで歩く15分あまりのあいだ、書き込みにリスポンスしながら、商店街で見つけたガチャガチャをやったりする。その間、彼は、一度としてチャットのアクセス者とのコミュニケーションをやめることはない。

面と向かったあなたとわたしが「ここ」にいるのとはちがうトランスローカルな《ここ》をよりリアルな場とするコミュニケーションが、ごくあたりまえのように行われるのを見るのは、すがすがしい。

(2015/04/20)
[6] 経験と判断

ibp-notepc 2chで、わたしが「作品を見ずに評論するという離れ業をやってのけた」、「エスパーなんだろ」とからわれたのを読んでひらめいた。

3月1日という書き込みの日付から推定すると、この「離れ業」とは、2015年1月25日から2月21日まで「シネマノート」に連載した第87回アカデミー賞の「予測」のことを指しているのだろう。

実のところ、わたしはアカデミー賞の候補に挙がった作品をほとんどすべて見ており、「作品を見ずに評論するという離れ業」はやっていない。海外からDVDを取り寄せたり、映画のはしごのためにちょいと長距離旅行をしたり、「作品」を視聴するのには手間暇をかけた。「超能力者」(エスパー)は皮肉でも光栄だが、その資格はない。しかし、2chの「誤解」はなかなかインスパイアリングである。

以前わたしは、メルボルンへの初めての旅の直前に、一ヶ月のタイムスリップをからませた「旅行記」を書いたことがある(『遊歩都市 もうひとつのオーストラリア』所収)。そして、次号でその「旅行記」がどの程度「正しかった」どうかを書いた。それは、ある種の遊びであると同時に、旅行記の多くが先入観やクリシェで書かれることを異化したかったからである。結果的に思ったのは、「旅行記」なんてものは、必ずしも現地を実際に訪れなくても書けるし、そうしないほうが面白いこともあるということだった。

経験と判断は、決して前者が後者をゆたかにするとはかぎらない。判断を刺激し、ゆたかにする経験もあるが、思い込みが強ければ、その境界線はあまり動かない。逆に言えば、思い込みの「地平」(フッサール的な意味で)をずらせてくれる経験こそが生きた経験である。そういう生の経験だけをしたいものだが、すでに経験自体が型にはめられ、一見どんなに刺激的な経験をしても、活性期の経験にふれることは稀である。素朴な経験主義は意味がないし、「過激」な経験を求めても結果は同じである。

ならば、最少の経験で最高の判断を求めのもオツではないか。近々、「シネマノート」でそういう映画評を書いてみようと思う。

(2015/04/18)