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粉川哲夫の雑日記」


ノエルの「釈放」についての対話
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――ノエルが明日釈放されるんだね。23日ぶりに。

――よかったですね。で、その情報はどこから?

――もちろん警察情報さ。いや、正確には「讃警」、もとい「産経新聞」の情報だけどね。〈東京地検は10日、少年を家庭裁判所に送致する〉って書いてある。

――「送致」されるんだったら、釈放じゃないですね。

――うん、釈放は一瞬で、家に帰る余裕はないかもしれないね。裁判所のサイトによると、〈家庭裁判所が少年に対して行う処分は,非行を犯した少年を改善・更生させて,再び社会に迷惑をかけることのないようにすることを目的としています。具体的には,少年を保護観察所の指導,監督にゆだねたり(保護観察),少年院で指導や訓練を受けさせる場合もありますし(少年院送致),少年に刑罰を科すことが適当なときは,事件を検察官に送って刑事裁判を受けさせる場合もあります(検察官送致)。また,家庭裁判所の教育的な措置によって少年の更生が見込まれるときには,このような処分をしない場合もあります(不処分)。〉とあるからねぇ。

――なにもしていないのに、なんでそんなことができるんですか? 許せないなあ。

――そこが日本なんだよ。「讃警」いや「産経新聞」によると、ノエルは、〈少年は一貫して、「答える必要はない」と調べに応じていない。〉というから、警察と検察としては、メニューにある可能なかぎりの懲らしめをしようとするわけね。大人だったら無理なことが、逆に未成年ということで可能になる懲らしめもある。

――懲らしめですか。宗教国家ならいざしらず、近代国家である日本で懲らしめなんて合法なんでしょうか?

――え、知らないの、日本はれっきとした宗教国家ですよ。かの山本七平先生も、「日本教」って言ってたじゃない。そもそも、21世紀というのは、20世紀にくらべると、前世紀や前々世紀の要素を復活させる度合いが強くなるんだ。20世紀には、その時代の先進的な部分を徐々にであれ、なるべく全体に広めようという傾向があったのに対して、21世紀には、先進的な部分は隠し、「遅れたもの」や「バカなこと」を広めるんだね。

――意味がちょっとわからないんですが。

――よく言う「格差」が極度に強まるから、1%の特権階級を守るためには、99%を「バカ」にしなければならない。だから、マス・レベルの情報だけを見ていると、信じられないような「バカ」げた、理不尽な話が横行するようになるんだ。昨日特権を謳歌していた奴も、明日は「バカ」にされてしまう。そうそう、適菜収が「今週のバカ」という連載をやってるね。ああいう選り分けがもっと組織的に、かつ暗黙に行われているのが現実なんだよ。

――それじゃ、日本では天才は世に出られないですね。『アメリ』の監督、ジャン=ピエール・ジュネの『天才スピヴェット』(The Young and Prodigious T.S. Spivet/2013)で、10歳の少年がその発明を評価され、賞をもらいにモンタナからワシントンまで無賃乗車やヒッチハイクで大陸横断をするんですけど、フィクションとしても、オリジナリティや才能を尊敬する真摯さというのかな、感動させられました。実際にアメリカにはそういうカルチャーがありますからね。

――先ほど言った「格差」の度合いは、アメリカでのほうがもっと先鋭化しているけれども、1%の特権階級に対する99%は「バカ」に分類・隔離されて終わりとはならないよね。99%は、1%への候補でありえる。さまざまな障害や妨害はあるとしても、99%のなかから這い上がる道はまだ開かれている。その結果、1%がつねにコンペティティヴなダイナミズムを維持できる。それが、日本は、特権階級を固定するほうに向かう。だから、ビル・ゲイツが、アメリカでは通用しないと批判したトマ・ピケティの『21世紀の資本』が売れたんだよ。

――1%のエリートは、新聞もテレビも見ないといいますね。にもかかわらず、新聞と放送の系列化と決まった新聞と放送局しかない独占状態が続くのは、その独占が作られたものだからですね。

――そう、マスメディアやバカサイトの最近のノエル批判は、もっぱらノエルを「あやつった大人」に向けられているけど、それは、はからずも自分のことを暴露してるんだね。ノエルは、「囲い」の言うことなんか訊くようなバカではない。彼は、自分の欲することをしただけだ。それだけの自発性をたくわえている。が、既存のメディアは、「囲い」の言うがままに動いている。現に、福島の原発事故のときにも、多くのメインストリームのニュース番組が東電のコントロール下にあることがわかった。で、いっとき、ひさしぶりにメディア批判が高まったけど、すぐにもとにもどってしまった。「囲い」がなければやっていけない構造が基本にあるからね。

――話は変わるんですが、先日、神道関係のひととノエル問題について話す機会があったんです。で、そのひとが言うには、彼がお上の懲らしめを受ける最大の要因は、三社祭りではなくて、皇居を見下ろしそうになったということだというのです。つまり、権力の拠点は、天上から発せられる神の信号を、もっとも秀(ひい)でた高さで受け取るという特権を持っている。だから、その特権を持っているところより高い位置に昇るということは不敬だというのです。

――そうか、信号傍受の既得権を犯したのか。じゃあ、東京タワーや東京スカイツリーはどうなの?

――展望台は、てっぺんにはないのです。ちゃんとななめからしか見えないように作られています。見下ろすことはない。

――そうすると、権威ある拠点より上に位置するとしても、天上からの信号を受信しなければいいということなんだね。東京タワーも東京スカイツリーも、送信しかしてないよね。電波塔だ。放送電波の電磁波スモッグで天上の信号は受信できないようにしてるんだろう。なるほど、テレビって、ジャマーなんだ。天上からの信号を特権的な受信にゆだねるために勝手な受信を妨害する装置なんだ。これでラジオアートにつながった。

(2015/06/09)
ノエル問題でわかったこと

 Liesa Van der Aa :where what's happening ノエルこと北澤聖也氏が、アフリカTVという「生配信」メディアと出会い(「これからアフリカTVで配信していきます♪ 」、2015年2月26日)、斬新なメディア活動を続け、それが権力によって強引に停止されるまでのプロセスを12回(①~⑤⑥~⑫)にわたり論評してきた。ここでページを替えるにあたり、そのなかで明らかになったことを列記してみよう。

「配信」は、既存のテレビや新聞とは異なるメディアである。それは、後者を「ブロードキャスティング」(broadcasting)とすれば、その語の本来の意味での「トランスミッション」(transmission)であること。だから、「配信者」とは、「ブロードキャスター」ではなくて、「トランスミッター」である。

配信業」とは、単に「配信」によって営利を得る活動ではなく、「トランスミッション」としての「配信」のメディア機能を社会化する行為である。したがって、「配信業」の台頭は、既存の「ブロードキャスター」たちの存亡を脅かすので、「配信者」は、強度の反撃を受ける。しかし、その反撃は、滅び行く者の最後のあがきでしかない。

善光寺でのドローン「墜落」事件以来にわかに高まり、彼の逮捕でピークに達したノエル批判は、きわめて陰謀的な操作であり、彼を批判する者たちは、彼が実際におこなった生配信をリアルタイムでも、「過去記録」ででもほとんど見てはおらず、たかだかYouTubeなどに転写・編集されたヴァージョンで見るか、あるいは、その一部をテレビが歪曲して引用したヴァージョンを見たにすぎない。「生配信」は、チャットを書き込む参加者との「双方向的」なメディアプロセスであり、その映像だけでは、意味を曲解したり、誤解したりする。

ノエルへの「献金」が、不当なものであるという批判が横行しているが、それは、「囲い」とか「タニマチ」というような古びた概念では説明しつくせない。これは、要するに、フリーソフトやオープンソースのソフトウェアのダウンロードサイトにある「コントリビューション」(寄付)と考えるべきである。フリーソフトのダウンロードサイトに「寄付」を募るバナーがついていたとしても、そのソフトが気に入らなければ、誰も寄付したりはしない。その額は、満足度や感動の度合いで決まり、その上限も下限もない。「配信」を見れば、ノエルが、受け取った「寄付」を有効に使ったことがわかるであろうし、金額には替えられない労力を費やしていることがわかるはずである。

ノエルが独力で「配信」したものは、半可通の批判者が知ったような言い方で単純化できるレベルのものではない。それは、「幼児的」な「自己顕示」の産物ではなく、カメラワーク、ストリーミング、電波状況、ロケーション等へのしっかりした認識と経験のもとで創られたものである。このへんに関しては、映像批評やメディア論の専門家が真剣に検証するのに値する。ここでは、「15歳の少年」という日本の悪しき年齢主義を括弧にいれるべきである。

なぜ配信するのか?」ということに関して、ノエルは、「問題解決をみんなと探したい」と言ったことがある。これは、一方通行の「ブロードキャスト」メディアにはできないことであり、「配信」=「トランスミッション」の本質をとらえた言葉である。「自己顕示」というような、中心に「自我」があり、そこから「外」(エクス)に「押し出す」(プレス)「エクスプレッション」(表現)を越えて、「相互主体的」(インターサブジェクティブ)な横の関係を生み出すことが目的である。ノエルは、映像の前面に出はするが、その「彼」は、近代主義的な「人格」としてではなく、参加者の「主体」とリンクしたヴァーチャルな「主体」である。

ノエルと警察とのやりとりのなかで暴露されたのは、そこでは論理的な言語が無視され、したがって「人権」も「民主主義」も無視されるという日本の現実である。言い換えれば、くりかえし指摘されてきた日本の「人権」軽視や擬制の「民主主義」が、あっけなく暴露されてしまったこと。つまりは、「戦後70年」と言うが、その間に「何も変わっていなかった」ということがわかった。

戦前の「不敬罪」が、経済的な損失をよそおった科罪(たとえば「務妨害罪」、「信用毀損罪」、「威力業務妨害罪」)として復活してきた。いまの資本主義経済は、本当は、「不敬罪」=不経済なのだが、にもかかわらずそんなことがあえて再採用されたのは、今日の資本主義経済が不可避的に引き起こす「格差」をカモフラージュする効果を期待しているからである。しかし、ドローンが象徴的に示唆するように、もはや国境であれ年令であれ、プライベートとパブリックであれ、既存のテリトリーに執着することはできない。「トランスローカル」、「横断性」があたりまえになるのだ。だから、長持続の歴史のなかで見れば、「不敬罪」の復活は、全くの「不経済」であることがわかるだろう。

(2015/06/01)