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尋問

『尋問』は、アンジェイ・ワイダがプロデュースしているというので警戒した。わたしは、七〇年代以降のワイダを少しもいいとは思わないからである。しかし、監督がリシャルト・ブガイスキなので見る気になった。
 なるほど、ワイダの映画とは違っていた。そして、見ているうちに、この映画がなぜポーランドで上映禁止になったのかがわかった。要するにアブナイのである。
 しかし、わたしは、この映画を普通の意味でアブナイとは思わない。一見この映画は、「国家権力」の抑圧とそれに対する「抵抗」という図式のなかを動いているように見える。あのクリスティナ・ヤンダが演ずるジビシという女性が不当に逮捕され、でっち上げの証言を強要される。彼女が書類に署名すれば、男友達だった活動家が有罪になる。が、彼女は、証言を拒否して拷問に耐える。
 しかし、この映画は決してそんな「抵抗」映画ではないのだ。ジビシはがんばるけれども、それは、思想に殉じたり、何かの信念を貫くためにそうしているわけではない。大体、彼女は、思想とか信念などに生きるタイプではなく、尋問する係官が言うように、「快楽主義者」であり、自分の好きなように生き、その場その場で出会った男を愛す。
 八〇年代に入って東欧で台頭しはじめた「ポストコミュニズム」の動きは、「人権」を合言葉にしたが、このことの重要さと新しいアブナさは、日本ではあまり意識されていないようだ。というのも、東欧で「人権」の尊重が問題になる場合には、強制収容所で人が動物のような扱いを受けたり、信じていもしない思想を強制されたりするようなイメージだけが想起されることが多いからである。
 だが、八〇年代になって浮上してきた「人権」問題で中心をしめるのは、そうした人間の既得の「基本的な生存条件」に関わる問題であるよりも、むしろ、「精神」の自由の問題であった。
 精神の自由としての人権は、最初から保証されるべき量がきまっているわけではなく、あなたやわたしの自発性や欲求の度合いに応じて姿を変える。あなたが縛られたというだけでは、精神の自由が犯されたことにはならない。あなたはマゾかもしれないからだ。その場合には、あなたが希望通り縛られないということが不自由なのであり、「人権無視」なのである。逆に言えば、自分で言いたいことや自発性がなければ、人権問題は意味をなさないということでもある。
『尋問』では、表面上、スターリニスト体制の国家権力が無実の女性を拘束するという「古い」スタイルでストーリーが展開する(これが、この映画のクサイところ)ので見えにくいが、全体のロジックは、ジビシが、尋問の担当官のこしらえあげた「証言」を真と認めてしまえば、釈放されるという形式になっている。それは、担当官の口から出てくるので、実際にそうした場合にどうなるかはわからないが、「証言」で有罪に持ち込まれるはずの活動家が銃殺されてしまってからも、延々と尋問が続く(その感じはちょっとシュールだ)ところをみると、この映画の核心は、自分を貫こうとする個人と、それを曲げさせようとする者との闘いであることがわかるのである。
 その意味では、この映画は、「国家権力」と個人(しかも、背後に反対制組織をもっているかのような個人)との関係においてよりも、むしろ男と女、親と子、といった日常的な関係のなかで日々反復されている(が、たいていはうやむやにされている)闘いを、ややカフカ的な異化効果でちょっとばかり大げさに描いてみたにすぎないとも言える。
 日本みたいに「自由な国」でも、ジビシみたいに思想と無関係でシタタカな女が「標準」になったら「危険」だと思う輩はけっこういるのではないかな。
監督=リシャルト・ブガイスキ/脚本=リシャルト・ブガイスキ、ヤヌウシ・ディメク/出演=クリスティナ・ヤンダ、アダム・フェレンツィ他/82年ポーランド◎91/ 1/22『ニュー・フリックス』




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