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ゴッドファーザーPARTⅢ

 コッポラの『ゴッドファーザーPARTⅢ』が公開された。折りしも、アメリカは、「多国籍軍」の名のもとにイラクを空爆し、クウェートを「解放」した。ブッシュは「勝利」宣言をしたが、その「勝利」には虚しさと悲惨さが影を落としている。わたしは、破壊されつくしたバグダッドの街のテレビ映像を見ながら、『ゴッドファーザーPARTⅢ』で描かれるコルレオーネ・ファミリーの行く末を思い起こした。マフィア戦争とアメリカ国家が引き起こす戦争。明らかに、コッポラは、両者のなかに同じ根を見出している。
『ゴッドファーザー』から『ゴッドファーザーPARTⅢ』までの時代背景は、一九〇〇年から一九七九年までということになっているが、『PARTⅢ』の公開に先だって、第一作と『ゴッドファーザーPARTⅡ』を時系列で編集しなおしたヴィデオ『ゴッドファーザー 特別完全版』が発売された。ここには、未公開のシーンがかなり付け加えられており、特に若きコルレオーネ(デ・ニーロが演じる)が、友人に誘われてマフィアの世界に入っていく過程が詳しく描かれているくだりが、新たな関心を呼ぶ。時系列に並べ換えられたので、見る者をぐいぐいと引き込んでいくハリウッド映画的なリズムはくずれてしまったが、二十世紀アメリカのドキュメントとしてみるならば、それも許容出来るだろう。
 ゴッドファーザー・シリーズの魅力は、それらが、アメリカ社会とそれを動かす権力の叙事詩(エピック)になっている点である。デ・ニーロとブランドが演じたドン・コルレオーネは、最初、シシリーからのオリーブオイルの輸入を表向きの仕事にする。これは、製造業中心の段階にあった時代のアメリカと重なっている。
 マイケルは、ここからラスベガスの賭博、エンターテインメント、ホテルなどの「サービス業」に手を延ばすことによってファミリーの事業を飛躍的に拡大した。アメリカは、まさに四○年代末から次第に「サービス社会」への転換を開始するわけだが、コルレオーネ・ファミリーの「発展」は、その動きと轍を一つにしているわけである。
 アメリカ経済の重心は、七○年代になって、物品経済から金融経済に移行するが、『PARTⅢ』で描かれるコルレオーネ・ファミリーの事業も、いまや金融である。すでにファミリーは、利潤の一部を財団の基金にして文化振興を行なったり、宗教事業や学校に寄付したりしている。マイケルの娘メアリー(ソフィア・コッポラ)は、そんな財団の責任者である。野望に燃えるマイケルにとって、それは、むろん、一つの隠れミノであり、蓄積した財貨を元にして世界の金融市場を操作したいと思っている。そして、そのためにローマ法王庁に近づく。
 時代は一九七九年。マイケルは、ここで、ヨーロッパ最大の不動産会社インモビリアーレの買収を画策する。そのためには、この会社を支配しているバチカン銀行を動かさなければならない。不動産会社をねらったのは、石油や金融経済といっても、株や証券を操作するためには、実物経済を独占しなければならないからである。金融経済とは、要するに、すべての経済を金融のために再編したもののことであり、ここでは、石油も土地も工業生産品も、実際に使うためのものであるよりも、むしろ利潤操作のための「金融情報」となるのである。
 問題は、土地にせよ石油にせよ、それらを必要とする者に供給することではなく、価格を自由に操作して思い通りの利潤をえることである。ちなみに、アメリカがイラクのクウェート侵略にイラだったのは、石油をそうした操作の道具に出来なくなることを恐れたからであった。もしフセインがクウェートやサウジアラビアの石油を押さえたら、アメリカとその同盟国は石油価格を操作することによって世界の金融市場を自由に操ることが出来なくなるだろう。金融や情報の操作が中心を占めるシステムの時代には、「独占」は、所有のためにではなくて、操作のために行なわれるのである。
 一九七二年に日本で『ゴッドファーザー』が封切られたとき、前年にカンボジア内戦に介入したニクソン政権は、「北爆」をさらにエスカレートさせようとしていた。
 実は、わたしが一般のメディアに書いた最初の映画評は、この『ゴッドファーザー』を論評したものだったのだが、そのなかでわたしは、この作品が、マフィアの抗争をリアルに描くだけでなく、同時に、「あのような血で血を洗う苛酷な戦いを強いてまで『共同体』を守りぬかなければならない」のかという疑問を提起していることを指摘した。「共同体」という言葉でわたしが考えていたのは、家族であり、ギャング集団であり、国家であり、そして、何よりもニクソン政権がカンボジアやヴェトナムで守りぬこうとした「国家の威信」や「正義」であった。
 その後アメリカは、ヴェトナムでの敗北を契機に、そのような「威信」や「正義」をおおっぴらに振り回さなくなるが、それもつかのま、八○年代になってレーガンが登場すると、ふたたび失われた「威信」や「正義」の回復が叫ばれるようになった。むろん、その間に、アメリカの土台骨はぐらつき、とても「回復」どころではない状態になっていた。だが、そのアメリカが、リビア、パナマに侵攻したのち、またしても、というよりも、歴史を半世紀逆戻りさせたような勢いで、イラクに向かって進撃を開始し、クウェートを「奪還」したのである。
 結果は、アメリカにとって「満足すべき」ものであったというが、しかし、その「勝利」の向こう側には累々たる死体と果てしない瓦礫、そしてアメリカに対するおさまりようのない憎しみしか見えない。これは、二度くりかえされた悲劇(悲劇が二度くりかえされると笑劇になるとヘーゲルは言った)であるが、それを笑うとしても、その笑いは、笑うたびに凍りつくような笑いである。
 コルレオーネ・ファミリーの悲劇は、権力の必然であり、独占と支配を求める「共同体」が不可避的に陥る悲劇である。アメリカが「脱工業化」するにつれて統合力を失ったように、コルレオーネ・ファミリーも、その「事業」が文化や情報や金融に移行するにつれて、統合力を失っていった。脱工業化とは、統合ですべてをあやつる「父親」的なシステムの終わりの兆候であり、その先には、近代的な意味での(つまりわたしたちが知っている意味での)「国家」や「家庭」は存在しない。八○年代になって、ソ連や東ヨーロッパで起こったことも、こうした一種の「脱工業化」の過程であったが、九○年代になって、それを阻止する動きが目立ってきた。
 しかし、阻止といっても、方法は一つしかない。すなわち歴史の歯車を逆に動かすことである。すでにレーガンは、時代の雰囲気を五○年代に逆戻りさせることに成功した。しかし、ブッシュの時代になると、雰囲気でごまかしてきた問題がふたたび姿を現わしはじめた。
 このときブッシュは、大方の予想を裏切って、時代を一挙に四○年代に逆戻りさせることを敢行した。つまり、フセインという「ヒトラー」を作り、それを殲滅センメツさせることである。それは、当面成功したようである。とすれば、今後五十年間は「近代」(モダン)でやっていけるということか? だが、いまの十年は、たかだか一カ月にすぎないから、数年後には、またシステムの深刻な危機が再来し、アメリカは、何かをでっち上げなければならなくなるだろう。そして、そういうその場しのぎの雰囲気作り(バブル政治)をくりかえしているうちに、アメリカ帝国は瓦解するだろう。
 ところで、わたしは、前述の『ゴッドファーザー』評の終わりで、マーロン・ブランドが演じる老コルレオーネが、孫のアンソニーに噴霧器をもたせて自分を追わせ、遊んでいるうちに倒れてしまうシーンについて次のように書いた。
「この原作には出てこない印象的なシーンは、祖父と孫のあいだでとりかわされる〈イニシエイション〉の儀式を思わせる。少なくともここには、自分が〈道化〉になり、媒介者となって、孫に自分を踏みこえさせたい願望が象徴的に現われている。今日のアメリカはドンの孫たちの世代にゆだねられようとしているわけだが、彼らはあの『噴霧器』をどのようにあつかうだろうか?」
『ゴッドファーザーPARTⅢ』で明らかになることは、この孫アンソニーが「噴霧器」を、ドン・コルレオーネの願望通りに「銃」として使うことを拒否し、オペラ歌手としての道を歩んだことである。「噴霧器=銃」を引き継いだのは、長男ソニーと愛人とのあいだに生まれたもう一人の孫マンシーニであった。
 この映画で示唆されているように、本当の「世界権力」は、アメリカではなく、むしろローマ法王庁のようなボーダーレスな組織である。最小の土地と最大の情報に依拠するこのような権力の活動に加わろうとすればするほど、アメリカは、せいぜいのところ世界の「マフィア」になるしかない。アンディ・ガルシアの演じるマンシーニのかっこよさが、メアリーの死の瞬間に最高度の虚しさに転じるように、湾岸戦争で得たアメリカの「勝利」は、じきに虚しさに転じるにちがいない。
監:督=フランシス・F・コッポラ/脚本=フランシス・F・コッポラ、マリオ・プーゾ/出演=アル・パチーノ、ダイアン・キートン他/90年米◎91/ 3/ 1『流行通信OM』