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マダム・スーザツカ

 わたしはゲイではないが、「おかま」という言葉にはアタマに来ますナ。「おかま」というのは、「かまを掘らせる」というように、ゲイをもっぱら性器の側面からのみとらえた非常に貧しい表現ではないか。それを、みずからゲイであることをはばからない人たちまでもが平気で使っているのだからあきれてしまう。
「ポリセクシュアリティ」というような概念をまつまでもなく、性現象は決して単一ではない。純粋な「男」、純粋な「女」なんていはしないのであって、わたしたちは「男」であり、「女」であり、「ゲイ」であり、「レズ」であり、要するにトランスセクシャルなのだ。まして、一人の人間の性を単一な性器で区別することなどできはしない。
『真夜中のカーボーイ』で有名になったジョン・シュレシンジャーの作品は、『日曜は別れの時』ほど明確ではないにしても、つねにホモセクシュアルの問題を扱っている。だから、わたしは、彼をゲイ・アーチストの一人とみなしてきたのだが、最新作の『}ダム・スザーツカ?宸ナは、ゲイのセクシャリティを一歩越えた境地が出ていておもしろかった。
 この映画は、峻厳なピアノ教師とその子弟との「師弟愛」をメロドラマチックに描いているように見えるが、それよりも、一人の老女における少年愛的性を扱った映画として見た方がおもしろい。
 スザーツカ(シャーリー・マクレーン)は、むろん、教師として弟子の少年マネク(ナヴィン・チャウドリー)を愛し、彼の才能を発揮させるために厳しいレッスンを課す。しかし、シュレシンジャーにとっては、彼女の特訓を受けてマネクが才能を伸ばしていくことなどより、「男」/「女」を越えた性をめぐる彼女の心理的屈折とゆらぎを表現することの方が重要だったように思える。
 スザーツカは、ロシア系の天才ピアニストを母にもつヨーロッパ女性ということになっており、それをアメリカ人のシャーリー・マクレーンが演じているわけだが、これは、彼女が「ヨーロッパ人」になりきれたかどうかの問題以前に、味のある選択だったと思う。というのは、彼女はすでに『噂の二人』のすぐれた演技によって、社会的に認められない性関係(『噂の二人』ではレズ)のなかをゆらぐ一人の人物という映画的記憶を宿した女優であるからだ。
 この映画でも、ゲイの問題は終わりになったわけではなく、マダム・スザーツカと同じ建物に住む整体医の老人がゲイで、彼が街の若者から「おかま野郎」と殴りつけられるシーンもある。が、この老人が、最後には、家主の女性と「男」/「女」を越えた関係での共同生活をすることになるというのは、暗示的である。
 そこでは、同じ性意識をもった者同士が共同生活をするという近代家族の慣習的観念が確実に越えられているわけだが、スザーツカの苦悩も、実は、この観念をめぐってゆれ動いているのである。
監督=ジョン・シュレシンジャー/脚本=ジョン・シュレシンジャー、ルース・ブラバー・ジャブバーラ/出演=シャーリー・マクレーン、ナヴィン・チャウドリー他/88年英◎89/ 6/25『文学界』




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