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都市を彩る環境表現

 先日東京で開催された「オーストラリアン・シネマ・ウィーク」という映画祭に出品されたレイ・ローレンス監督の『ブリス』を見ていたら、画面に突然なつかしい建物の映像が現われた。それは、コールガールのようなことをやっているエコロジストの女性が男友達と住んでいる建物で、表の壁面にびっしり壁画と落書きがある。
『ブリス』は、一九八五年に発表された映画だが、丁度この年、わたしはシドニーにおり、しかもこの建物の写真を撮ったのだった。それは、シドニーのパーマー・ストリートにある二階建ての家で、シドニーではスクウォッターたちの拠点として有名だった。
 いまではほとんど下火になったが、七〇年代後半から八〇年代前半のシドニーやメルボルンでは、学生、パンク・ロッカー、政治活動家、放浪者たちが空家に勝手に住み込んでしまうスクウォッタリングの運動が盛んで、スクウォッターたちの組合(スクウォッターズ・ユニオン)も結成された。この運動は、もともとヨーロッパから流入したもので、ベルリン、ロンドン、アムステルダム、ローマ、チューリッヒなどの都市に出現したスクウォッター・コミュニティは、ロック・ミュージック、パフォーマンス、壁画、落書き等のポスト・パンク・アート、さらには自由放送、ゲリラ的な政治活動、反核やエコロジーの運動のフリー・スペースとなった。
 パーマー・ストリートのスクウォッターズ・ハウスを見たのは偶然だった。友人を訪ねてウィリアム・ストリートのABC放送のビルに行き、それから彼の案内で昼飯を食べに近くのレストランに行ったとき、通りがかったのがこの建物だった。ベルリンのクロイツベルクでは建物の壁一面にポップな壁画を描いてあるのを感動してながめたことがあったが、パーマー・ストリートの壁画もなかなか見事なものだった。ただ、ベルリンのそれにくらべると、壁画のイメージが全体として温和でのんびりしており、やはりシドニーだなあと思った。ベルリンの壁画には、シニカルな笑いを浮かべた三人の「悪魔」たちがかたわらに積み上げられたダイナマイトを火にくべてあたっている絵があり、街頭闘争の激しかったベルリンらしい壁画である。
 友人と別れてから、わたしは一人でこのスクウォッターズ・ハウスの周辺を歩いてみた。驚いたことに、このあたりは、軒並みスクウォッターたちの家であり、一見中流階級の住宅が建ち並んでいるように見えるが、よく見ると、家々は、ガラスのない窓にビニール・シートを垂れ下げたり、壊れかけた階段を棒くいで支えたりして、ヒッピー的な生活をしているのだった。
 露地に入ると、トタンの塀に白いペイントで落書きがしてあるのが見えた。「われわれすべてが言い続けているのは平和だ」と書いてある。さらに奥に進むと、一部が抹消されているが、「君ら性差別主義者は、……握手し始めた方がいいぞ。今日のブタは明日のベーコン」と書いた落書きが見えた。この塀の向こう側の家も、スクウォッターたちの住居になっているらしい。しかし、なぜかあたりはシーンと静まりかえっている。
 スタンレイ・ストリートに出たら、ピエロの絵が手なれた筆致で壁に描かれている三階建ての清楚な建物が見えた。二〇世紀初等のものだろう。屋根にチムニーがあるが、いままで見た古い労働者階級の家よりも細部の飾りが多い。近年、オーストラリアでも古い家を直して住むことがはやっており、以前はスラム化していた古い建物がどんどん買取られ、小奇麗に改装され高く売られている。その意味でスクウォッターたちもスクウォットする家に不自由するわけだが、〈ダーリンガスト〉と呼ばれるこの地帯は、いわば〈最後の楽園〉であると言えよう。
 最近シドニーを訪れた友人の話では、この三年間にダーリンガストのスクウォッターズ・ハウスはめっきり数が減り、わたしが撮影した壁画や落書きももはや残っていないという。とすれば、わたしはシドニーのパンク・カウンター・カルチャーの最後の痕跡を記録する恩恵に浴したわけである。
 別に記録しようという気はなかったのだが、一九八五年にシドニーとメルボルンに行ったときには、建物の壁や塀に描かれた落書きや壁画を片端からカメラに収めた。わたしは、元来、旅行先で写真を撮ることが好きでなく、旅の写真はあまりない。が、五、六年まえにカメラ狂の友人をニューヨークの街に案内して歩く機会があり、彼の行動をながめるうちに、写真には記録とは別に、発見という機能があることに気づいた。つまり、写真を撮ろうという決意や、被写体に向かってカメラをかまえることが、記録として何が残るかということとは無関係に、普段気づかぬ被写体(ここでは街)の側面を発見させてくれることがあるということである。
 カメラをもって街を歩くといっても、カメラ狂の友人のように、肉眼で街をながめているよりもファインダーを通して街をながめている方が時間が長いというようにはなれないので、わたしは、一種の自己暗示的な方法を採用することにした。たとえば、「今日は浮浪者を撮ろう」と自分に言い聞かせて街に出るのである。目的は記録ではない。が、不思議なもので、そう思い込むと、カメラをもたないときには出会うことがなかったような人物に出会ったり、次から次にユニークな浮浪者に会ったりするのである。
 このときのオーストラリア旅行で、わたしがカメラに期待したのは、落書きを発見させてくれることだった。おもしろいことに、このときもわたしは、カメラをもって歩くだけで、そのカメラが落書きをかぎつけるかのように、次々と落書きに出くわし、オーストラリアの落書き文化の多様性を見聞することが出来た。
 今日、オーストラリアにかぎらず、落書きや壁画は、都市を彩る環境表現の一つになっている。「先進産業国」の大都市で落書きを見ることが少ないのは日本の都市(とりわけ東京)ぐらいのもので、他では落書きが都市文化を活気づけている。もっとも、ニューヨークのように、落書きが麗々しい「アート」になり、建物ごと高値で取引きされるようになると、落書きがもっているアブなげな多面性が薄れ、単なる都市デザインになってしまうが、いずれにしても、落書きのない都市は、十分に〈生きられ〉ていない都市だと言ってよいだろう。
 都市デザインとして見ても、落書きは、建造物のスタティックな景観に、?枕\築?誤植〉竅q完成〉といった概念とは裏腹の〈暫定性〉や〈アブなさ〉を付け加えるのであり、それによって都市にダイナミズムを与えるのである。
 シドニーとメルボルンというオーストラリアの二大都市の落書きをくらべてみて気づいたのだが、シドニーの落書きは、メルボルンのそれよりも装飾的であり、政治性が少し弱い。むろん、シドニーでも政治的な落書きは多数あり、たとえば中央鉄道駅の一面落書きだらけの地下通路には、赤字で「USはサルヴァドルから出ていけ」とか「トルコ人を殺せ トルコは一五〇万人のアルメニア人を殺した」などと書いた落書きが多数ある。しかし、メルボルンの落書きは、そうした単なるアジビラ的な落書きではなく、もう少し洗練され、屈折しているように思われた。
 ある点でメルボルンの落書きは、ヨーロッパのそれに似ている。ニューヨークの落書きは、いまや文字すらも〈絵文字〉のようなものになってしまい、メッセージ性が乏しくなっているが、ヨーロッパの落書きは、依然、メッセージ性を維持している。しかし、そのメッセージは、アジビラのように単一ではなく、読む側次第で複数の意味を表わすので、そのことが見る側にある種のアート感覚をよび醒すのである。
 メルボルンのカールトン地区をうろついていたら、何の変哲もない壁に簡素な赤字で「もっと野菜を食べなさい」と書かれているのを発見した。これだけならどうということもない。が、その横に、丸に矢印の「反核マーク」が添えられている。これはなかなかいいセンスだ。おそらく、これは菜食主義のエコロジストによる落書きだろう。
 バーク・ストリートの露地裏では、「ファック・オフ・メイト」(失せろ)という落書きを見た。これは、鉄のドアーの上に黒の油性マジックか何かでさりげなく書かれている。が、よく見ると、そのすぐ上に「サンヨー・オフィス・マシーン」というスタンプした文字がある。このドアーは、サンヨー機械の事務所の裏口なのである。とすると、「ファック・オフ・メイト」は、「サンヨー機械、テメエら出てけ」という排外的な意味にも取れる。おそらく、日本企業のオーストラリア進出に反発する者が書いたのだろう。場所を選び、簡素に、しかも含意のある落書きを書くというのが、どちらかというとメルボルン・スタイルである。
 近年、オーストラリアでは、アジア人移民に対する反撥が強まっている一面があるが、町中で「アジア人の侵入をストップさせろ」と書いたビラが貼ってあるのを見たことがある。それは、右翼団体によるものだったが、コリングウッド地区を歩いていたら、同じ文章が黒い文字でビルの壁に書かれているのに出会った。しかし、おもしろいことに、その落書きは、「アジア人」の部分が白いペンキで薄く消されており、そのためその落書きのメッセージは、「侵略をやめよ」という意味になっているのだった。つまり、誰かがもとの人種差別的な落書きを〈平和主義的〉な反戦の落書きに書き換えたわけである。
[ブリス]前出◎88/12/14『SD』




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