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ロボコップ/ワーキング・ガールズ/ソポトへの旅/ロビンソナーダ
映画を、そのハード面からだけとらえ、それを単にフィルムによる映像システムだとみなすならば、映画が近い将来、終末を迎えることは十分に予想できる。ヴィデオ技術のめざましい進歩は、フィルムを磁気テープや光学ディスクに替えうる条件を着々とととのえているからである。
しかしながら、映画を映像に対するある特定の関係だとみなすならば、それは、ヴィデオの時代にも生き延びることができるであろうし、また逆に、ヴィデオの時代にそれが一層活性化することもありえる。
映像に対する関係という観点から考えた場合、映画とヴィデオとの決定的な相違は、映画が集団的ないしは相互身体的なメディアとして生き延びてきたのに対して、ヴィデオがますます個人的な、さらには直脳髄的なメディアとして発達しようとしている点である。
むろん、ヴィデオ・シアターのような集団的なメディアとしての方向もあるわけだが、それはヴィデオのもつ技術的可能性としては、保守的な部類に属する。ヴィデオの可能性は、むしろ人間の神経細胞の最小単位にまで侵入しようとする凝縮性であり、ヴィデオにとっては「個人」ですら単位が大きすぎるのである。
映画の基本性格としての集団性・相互身体性とは、単に映画が集団で見られるというようなことではない。映画館によっては、客が一人だけということもある。が、それにもかかわらず、それがVCRでヴィデオ映像を見るのと違うのは、映画の観客には早送りやストップモーションといった−−ヴィデオのヴューアーにとってはあたりまえの−−操作が(少なくともこれまでは)許されない点であろう。
映画を見るということのなかには、観客個々人の意志を越えた〈他者的〉な論理が働くのであり、これが個々人の側には反復不可能な一回的な映像体験を要求するわけである。
このことは、映画における映像記憶とヴィデオにおける映像記憶との形式的な違いとしても現われる。VCRが普及した今日では、映像をくりかえし見て、その「正確な」構図や構造を頭にたたき込むことができる。このことを映画で行なうことも不可能ではないし、多くの映画研究者がノートを片手にそれをやってきたわけだが、それは、映画の見方としては特殊な部類に属する。映画の観客の大多数は、むしろ「散漫な」意識でその映像に対処してきたのである。
どちらかと言うと、ヴィデオの記憶が映像を部分の集まった全体とみなしているのに対して、映画の記憶は、モジュール的である。そこで記憶されている映像の単位は決定的なものではなく、条件次第で自由に組み替わる状態にある。映画の記憶が、ヴィデオのそれに比べて「あいまい」であるように思えるのはこのためだ。
こうなると、映画的な記憶は(ヴィデオが発達した時代にはなおさらのこと)、「不正確」で「錯覚」に満ちていたが〈創造的〉だということにもなる。ヴィデオ的記憶の方は、今後ますます「正確さ」を極めるだろう。ヴィデオが無声映画から今日の映画にいたるすべての映像をコンピュータ化された記憶装置のなかにとり込み、その映像をあらゆるやり方で検索・対照することがいずれ可能になるはずだ。
こうしたヴィデオ・テクノロジーの近未来を考えるならば、映画においては、ある映像がどのような映像を「引用」しているかといった内部記憶の側面よりも、ある映像が、映像システム内の記憶を越えてとめどもなく増殖する外部記憶の側面に留意した方がよいかもしれない。
少なくともわたしにとっては、「新しい」映画とは、その映像を見た瞬間からその映像がひとりでに増殖し始め、さまざまな〈夢想〉を生み出していくような部分をもった映画である。そして、この〈夢想〉は、映画館の外においては、「ホラ話」にも似た饒舌に転化し、他者の記憶をまきこんで増殖する。
このプロセスは、ビールスに感染するのに似ている。これに対してヴィデオ映像は、本来、もっと合理的な操作が可能な関係を要求するのだ。ヴィデオを見て〈夢想〉を披露するのは自由だが、それはあくまでも、記憶の展開としてではなくて、「思い違い」と同義の〈夢想〉としてでしかないのである。というのも、ヴィデオは、技術的にいかなる個所の検索・再提示も容易なので、それについての〈夢想〉的な「ホラ」を語りあうよりも、映像そのものをプレイバックするということになるからである。「ああだこうだ言わないで現物を見せてよ」というわけである。
以上のことは、わたしが最近見た『ロボコップ』、噬潤[キング・ガールズ』そしてナナ・ジョルジャーゼの『ソポトへの旅』と『ロビンソナーダ』について語るとき、より明確になるだろう。
『ロボコップ』を見るように勧めたのはマイケル・ライアンだった。国際電話で彼と最近のアメリカ映画についておしゃべりをしていたとき、彼はこの映画をわたしに「是非見るべきだ」と言った。
しかし、早起きして出掛けた試写で見た『ロボコップ』は、映画としてはわたしを失望させた。最初がテレビのCMシーンから始まるように、この映画はヴィデオとうまく折り合いをつけようとしている。サイボーグであるロボコップの「意識」を提示するシーンに現われるスクリーンもヴィデオだが、この映画にはひんぱんにテレビやヴィデオの画面が登場する。それは、たとえば『未来世紀ブラジル』のように、映画のなかにヴィデオ的なものをとり込んだのではなく、映画がヴィデオに接近しているのである。
これはヴィデオのもっと小さな画面で見られるべきものであり、画面をストップさせたり、戻したりして見られるべきものである。わたしは、ロボコップと張り合うED−209という巨大ロボットが登場するシーンで、その画面をスローにして見たい欲望にかられた。その動きが実にユーモラスであり、ロボコップのようなメカとしての中途半端さをもっていないからである。
もし、『ロボコップ』が、すべての登場人物をもっとメカニカルなものにしてしまったならば、映画がテレビ劇画をとり込んだおもしろい例になりえたかもしれない。もっとも、考えようによっては、この映画は、ロボコップという人間とロボットとの中間的存在を描くことによって、映画にもヴィデオにもなりきれない今日の映画の現状をはからずも示していると〈夢想〉することもできる。
ところでイメージ・コンピュータ「ピクサー」によるコンピュータ・グラフィックス『レッズ・ドリーム』や『ルクソ・ジュニア』のようなヴィデオ作品を見ると、今後は、ロボコップやED−209のようなメカを組み立てなくても、またこの映画でかなりメカニカルな悪役を好演していたカートウッド・スミスのような役者を登場させなくても、コンピュータのキーボード操作だけで彼らの映像を作ることができるようになるのは時間の問題だという気がする。
これは、ヴィデオが究極的に被写体を必要としないということであり、映画とは異なる方向をめざしていることを意味する。映画は、フィルムの技術的特性と制約のために、つねに被写体を必要とする。言いかえれば、映画においては、つねに出来事はある程度までフィジカルなレベルで起こらなければならないのである。これも、映画の集団的なファクターの一つである。
コンピュータ・グラフィックスで「生まなましい」映像を作ろうとしたら、その出来事のすべてを情報化し、プログラムしなければならない。これは、身体表現のような極度に情報量の多い出来事に関しては不可能に近い。コンピュータ・グラフィックスが好んでメカニックな働きを映像化するのは、その情報量が比較的少ないからである。
リジー・ボーデンの『ワーキング・ガールズ』は、モーリー(ルイーズ・スミス)という女性が朝ベッドのうえで目覚めるシーンから始まり、彼女が仕事から帰って入浴し、ベッドに横たわっているシーンで終わる。その表情一つとってみても、これは、精密にプログラムされたものではなく、被写体となったルイーズ・スミスとカメラとのあいだで起こった−−多くの偶然性を含む−−出来事なのである。だから、この最後のシーンでモーリーが見せる表情が何を意味しているのかは多義的であり、むしろこの映画は、眠りにつく彼女の〈夢想〉として構成されているのかという〈夢想〉をも呼び起こす。おもしろいことにこの最終シーンでは、いったん画面がストップモーションになりモーリーの表情が止まったまま、クレジットが流れ、それが終わったとき、ストップモーションが解除されるのである。その数秒後にはカーテンが閉まり始めるので、その後のモーリーの表情はよくわからないが、なかなか意味深長な終わり方である。
『ワーキング・ガールズ』の主要スペースはマンハッタンの−−せいぜいツー・ベッドルーム程度の−−アパートメントであるが、そこに多数の人物とりわけ男が登場し、しかも彼らは大部分服をぬぎ、性器を露出する。このスペースは売春クラブであり、モーリーは二カ月まえからここで働いている。
この映画を見ながらわたしが〈夢想〉したのは、売春とはアンドロイド・ゲームであるなということだった。フェミニストであるリジー・ボーデンは、女を買う男の側からではなく、男の要求に従う女の側から、しかもその生理に密着して売春を描いている。入れ替わり立ち替わりクラブを訪れる男たちが、あるいは恋人を気どって、あるいはマゾや横暴な男としてセックスを求めたのち、決まって口にすることは、「外で会えないか」という言葉である。こうしたパターンを見ていると、リジー・ボーデンは決して男たちを紋切型のパターンで描いているわけではないが、ここに登場する男たちはアンドロイドで十分だという気がするのである。
売春において客は売春婦・夫に対し、その行動パターンの予測できる(期待どおりにセックスする)アンドロイドになることを求める。他方、売春婦・夫たちは、客を「たかがアンドロイド」と思いながらその要求につきあう。これはアンドロイド・ゲームである。
このことを前述の映画テクノロジーの問題にひっからめて考えてみると、リジー・ボーデンの映画では、男の登場人物をすべてコンピュータ・グラフィックスで作った映像アンドロイドで代行させることができる。むろん現在の技術段階では映画としておさまりの悪いものになるかもしれないが、画素のプログラム度からするとここに登場する男たちの身体パターンはプログラムしやすく、将来の映像テクノロジーには被写体なしの合成が可能なのである。
これに対して、リジー・ボーデンが『ワーキング・ガールズ』に登場させた女たちは、映像媒体にフィルムを使うにせよヴィデオを使うにせよ、被写体としてレンズが光センサーの前に立たなければならない。というのも、ボーデンにとって彼女らは決して男のコードでプログラムされつくせない存在だからである。
身ぶりや言語をディジタルな部分に分割し、再合成できる技術が発達する時代には、レンズを用いて被写体を再現前させる技術は、プログラム度の低い技術に身を置かざるをえない。だがその代わり、この技術はその分だけ「不確定性」やパフォーマティブな度合をますのであり、そのため、出来上がった映像=身体はアンドロイド化をまぬがれるのである。
被写体、レンズ、アンドロイド、身体といった問題を《夢想》するうえでおもしろいと思うのは、ナナ・ジヨルジャーゼの短篇映画『ソポトへの旅』と長篇『ロビンソナーダ』である。
『ソポトへの旅』の冒頭は、壁面を思わせるような黄ばんだ地に映されるクレジットである。が、文字が流れ終わった瞬間にわかるのは、この地は、登場人物の一人の背中であり、ソリッドな物体の表面と見えたものは、この男の着ている上着の布地であることだ。これは非常に重要な瞬間だ。このときわたしたちは、カメラの存在を知らされるからである。
男は、『溝の中の月』よりももっとうさんくさい肉体性を感じさせる路地に入って行き、もう一人の男に会う。話は、この二人があやしげなヌード写真を売りながら、アメリカの三〇年代のホーボーのように貨車にタダ乗りして「旅」をするというものだが、わたしにはこの「旅」は、むしろカメラの旅として〈夢想〉されたのだった。
このことは、『ロビンソナーダ』ではもっと明確に提示される。この映画は、一九二〇年代に謎の死をとげた自分の祖父をモデルにしたオペラを作りつつある人物(ジャンリ・ロラシヴィリ)を核にしながら、同じ俳優によって演じられる祖父の世界が「再現」的に空想されるというスタイルをとる。映画のなかには、この歴史的な映像部分を撮影するシーンも現われ、全体がつねに相対化される。
が、その相対化によって強まるのは、この映画で描かれる世界の物語性や虚構性ではなくて、むしろカメラと被写体の存在そのものなのである。
その意味では『ロビンソナーダ』は、カメラと被写体とのスタンスをさまざまにヴァリエイトした試みである。演ずる被写体とカメラ、演ずることを演ずる被写体とカメラ、役者ではない九十六歳の女性が、「演ずる」というよりも記憶のなかの民話を物語るように語り、身ぶりする被写体とカメラ、古い記録映画の引用……。この映画ほどカメラが被写体に対してとるスタンスの多様さを集約している映画は少ない。
映画は、その〈完成〉としての終末において、映画における「主役」はカメラであることをあらわにする。そして、このような映画の伝統は、フィルムが光学ディスクになっても残るはずであり、カメラの遠近法的な機能そのものが電子的な手段によってふたたび〈演じ〉られるはずである。
とすれば、いま映画の観客に求められているのは、スクリーンから反射する光の浴び方の多様さを学ぶことであろう。劇場の最前列に座ってスクリーンの反射光を直接浴びるのはなかなかいいものだ。
[ロボコップ]監督=ポール・バーホーベン/脚本=エドワード・ニューマイヤー、マイケル・マイナー/出演=ピーター・ウェラー、ナンシー・アレン他/87年米[ワーキング・ガールズ]監督・脚本=リジー・ボーデン/出演=ルイーズ・スミス、エレン・マッケルダフ他/86年米[ソポトへの旅] [ロビンソナーダ]監督=ナナ・ジョルジャーゼ/脚本=イラクリ・クビリカーゼ/出演=ジャンリ・ロラシヴィリ、ニネリ・チャンクベターゼ他◎87/12/ 8『月刊イメージフォーラム』
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