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薔薇の名前

 ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』は、わたしにはなぜか近くて遠い本だった。何度もチャンスに恵まれながら遂にその本を手に入れることがなかったのは、エーコが余りに有名な記号学者であり、そういうひとの書く小説はつまらないだろうとたかをくくっていたからかもしれない。
 とかくするうちに、この本は英語に訳され、世界的なベストセラーになっていった。数年前、メルボルンの友人宅に招かれたとき、彼の息子がわたしに向かっていきなり、「エーコの『薔薇の名前』を読んだ?」と尋ねた。彼は、当時まだ十二歳ぐらいだったので、彼の口からエーコの名前を聞いてわたしはびっくりした。「おもしろいよ、読むべきだよ」。三カ国語を話す彼はわたしにそう言った。しかし、その後もわたしはこの本を読む機会をもたなかった。
 ジャン=ジャック・アノーの映画『薔薇の名前』を見てふとこんなことを思い出したのは、この映画の随所にエーコらしい要素を感じたからであり、原作をもっと早く読まなかったことを残念に思ったからである。
 一三二七年の北イタリアのあるベネディクト修道院という設定は、一見抹香臭いが、その時代がカソリックの重大な転機であり、この映画でも、教会を中央の従属機関とみなすか、それとも自律体とみなすかという根本問題が議論されていることを考えるとき、この物語は単なる歴史ものではないのである。むしろそれは、イタリアで一九七○年代に起こったことを直接思い出させる。
 問題は、要するに、教会を「共産コミューン」とみなすかどうかの問題であり、ローランド・ジョフィの『ミッション』に出てくるのと同じ問題である。『ミッション』ではよりはっきりえがかれていたが、修道院や教会は、ひとつの自律した「コミューン」を形成しており、村民と教会とは被支配・支配の関係にはない。そしてそのために、この「コミューン」は解体される。
『薔薇の名前』の修道院には屠殺場や作業場があり、そこだけでひととおりの生産がなりたつようになっている。しかし、映画に出てくるように、この修道院は寄進と称して村人から食料や物品を搾取しており、村人たちはまるで動物のような生活を強いられている。
 教皇ヨハネス二十二世にとって教会は道具であり、修道院や教会の自律を認めることはできない。それゆえ、アヴィニョンから教皇の代表を迎えてこの修道院で行なわれた会議では、教会のラディカルな清貧を本義とするフランチェスコ修道会派は敗北する。
 エーコは、明らかにこうしたプロセスを一九七○年代のイタリアでの状況にダブらせている。すなわち「アウトノミア」である。アントニオ・ネグリは、資本主義が高度化した現在こそ、真の「共産主義」が可能であると主張した。ウンベルト・エーコは、当時、アウトノミアのイデオローグではなかったが、アウトノミア運動については多くの思い入れがあったのをわたしは知っている。
 修道士のウイリアム(ショーン・コネリー)が見習修道士のアドソを連れてこの修道院にやってきたのは、ここで行なわれるその会議に出席するためだったが、ここで彼らは次々と修道士が謎の死をとげる事件にまきこまれる。映画は、前述のテーマを基底に据えながら、ウイリアムがその殺人事件を解いていくという形で進む。そのやり方は、またしてもウンベルト・エーコらしく、記号学的ないしは暗号解読的なのである。
 殺人は、ある一冊の本をめぐって起こる。それは、失われたとも書かれなかったとも言われているアリストテレスの?嚴濠w』第二部であり、現存する『詩学?宸ェ「しかし、イアンボスと喜劇については……」という文章で終わっているところから、その内容は喜劇に関するものだろうと考えられている。映画は、この書が実際に書かれており、それが中世の教会権力によって隠匿されたという仮説を置く。これは実におもしろい。
 修道院に到着したウイリアムが荷物を解くときにわかるのだが、彼は当時としては最も進んだ測定機類を持っており、彼がある種の「合理主義者」であることが暗示される。実際に、彼は自分がアリストテレス主義者であることを隠さない。ちなみに、中世において、アリストテレスは最高度に「合理的」な哲学者であった。
 修道院の文書館長が『詩学』第二巻を隠匿し、しかもそのページに毒を塗り、二重のやり方でそれを修道士から遠ざけたのは、笑いが神の権威への冒涜だとみなされたからである。この映画にも、ほとんど笑いはないが、火事になり、火の海となった建物からウイリアムが厚い本をかかえて飛び出してきたとき、わたしはなぜか笑ってしまった。書痴的なエーコを思い起こしたからである。
 ウイリアムは、ようやく問題の本を発見すると、すでに相当火の手が回っている部屋のなかで、それを読み始める。わたしは、このとき、ウイリアムは、本とともに燃え尽きるなと思った。しかし、彼は本とともに脱出し、情報をコントロールしてきた不気味な文書館長が滅びる。
 修道院は燃え、権力の砦は滅んだ。しかし、それは、「共産コミューン」になることにも失敗した。アウトノミアの帰結を考えるとき、この物語の結末は意味深い。
監督=ジャン=ジャック・アノー/脚本=ジェラール・ブラッシュ、ハワード・フランクリン他/出演=ショーン・コネリー、F・マーリー・エイブラハム他/86年仏・西独・伊◎87/11/12『月刊イメージフォーラム』




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