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ジェイムズ・ウッズ
ジェイムズ・ウッズを評したいくつかの言葉のなかで、なるほどと思ったのは、批評家のデイヴィッド・デンビーが、「彼はパンクのようにしゃべる」と言った言葉だった。デンビーは、ハリウッドの映画システムを口汚くこきおろすウッズの口振りを評してこう言ったのであって、それほど深い意味ではなかったのだが、ジェイムズ・ウッズをパンク・カルチャーのなかに位置づけてみるのもおもしろいだろう。
年齢からすると、ウッズはパンクの世代ではない。彼はけっこう歳をくっていて、今年で四十歳になる。わたしは、彼はまだ三十代だと思っていた。ジョニー・ロットンよりも少し年上ぐらいだとしても決して不自然ではない。ウッズには、どこかに年齢不詳のところがある。
もっとも、パンク・カルチャーには、年齢を越えたところがあり、それは、従来のユース・カルチャーとは違っている。セックス・ピストルズと一緒に歌った大列車強盗のロニー・ビッグスは、年齢的にはふけていたが、彼は本物のパンクだった。アラン・タネールの『光年のかなた』でトレヴァー・ハワードが演じた偏屈な老人も、その文化的アドレスを指定するとすれば、パンクである。また、『マックス・ヘッドルーム』には、この二人をもっとしたたかにしたようなパンク老人が登場して海賊テレビ放送をやっている。
パンク・カルチャーは、七〇年代の後半にそのピークを迎えるが、この時代に何か新しいことを経験した者にとって、その経験はどこかでパンクと結び付いている。ジェイムズ・ウッズが映画的キャリアを築いたのも、七〇年代だった。彼が演劇に首を突っ込むのは六〇年代の終わりごろだったが、今日見られるような彼の方向が明確になるのは、七〇年代になってからである。
パンクの源流はヨーロッパであって、それはアメリカらしいアメリカとはどこか異質なものを持っている。それは社会の底辺と結びついているが、単なる物質的貧しさではない。経済的な貧しさに触発されて生まれるのはビートルズのような音楽であって、パンクではない。パンクは、「ノー・フューチャー」へのいらだちから生まれたのであり、働くことそのもの、愛そのものへの懐疑によって支えられている。それは、どちらへ転んでも楽天性から脱出できないアメリカでは生まれにくいものだ。
ウッズから漂ってくるものが、「ヨーロッパ的」であるとは言えないとしても、彼のキャリアはいわゆる「アメリカ的成功物語」の主人公のそれとは大分異なっている。一応、経済的な貧しさの点ではそうした主人公の資格は十分であった。「両親を除けば、おれほど貧乏に育ったやつはいないだろう」と彼は回想している。
父親は職業軍人だった。自分ではほとんど仕事のことを口にせず、ときどき、行き先も告げずに数カ月家をあけた。諜報の仕事をしていたのではないかとウッズは推測する。が、彼が十二歳のとき、父親は病死し、母親は、彼と二歳の弟を女手一つで育てなければならなくなった。「配管もない家」で社会福祉にすがって生活していたのは、そのころのことだろう。とはいえ、学校の先生をしていた母親は、やがて無一文から保育園を起こす。だから、ウッズの生い立ちを極貧生活から自力ではい上がったアメリカ的成功者のパターンにあてはめることは無理なのである。
貧しくても家にはつねに本があり、父親は軍人でもどこかで自分の仕事に距離を置いている。ユダヤ人やクエーカー教徒の多い東部のカソリック家庭。父親も母親も子供達を愛したが、父の死で単親家庭となる。さまざまな点でゆらぎのある環境。ここには、パンクが純粋培養される土壌があると言えなくもない。
ジェイムズ・ウッズの学業成績は優秀で最終的にMITに入り、学費免除(フル・スカラシップ)になる。MITに入るまえはUCLAにいた。その寮で彼は、友達と走り競争をしてガラスのドアーに突っ込み、腕の動脈を切る大怪我をして、九時間半の手術を受けた。
そのころには彼はすでに演劇にコミットしており、ギブスをはめたまま舞台に立ち、その演技が認められて賞を受けている。そのころは、彼はまだMITに入るつもりはなく、故郷ロード・アイランドの議員から空軍士官学校への入学を推薦されたときには、大いに心が動いたという。しかし、父が死の床で言い残したことは、「軍人には絶対になるな」ということだった。これは、実に印象的な話である。軍人の父親は、非常に醒めた目で自分の仕事とアメリカの現実を見ていたのである。アメリカは、以後、冷戦から「熱い戦争」に転じていく。
MITでウッズは政治学を学ぶ。しかし彼は、MITを最後の学期にやめてしまう。ウッズによれば、「MITは、ヴェトナム戦争を完全に弁護していた。だからおれは、人々の殺し方についての学位なんかもらうのはやめようと決めた」のだという。
こうした彼の半生のなかから浮かんでくるのは、貧しさからはいあがった苦学生ではむろんないし、エリート校で出世コースを歩む秀才でもなく、といってまた、六〇年代には一つの流行ですらあった「ニューレフト」でもない。いかなる場合にも、ウッズには醒めた批判的意識がつきまとっている。
このことは、演劇へのコミットの際にも変わってはいない。ニューヨークへ出てオフ・オフ・ブロードウェイの役者になったのは一九六八年だったが、七〇年には、『セイヴド』の孤児役でクラレンス・ダーウェント賞を受けている。七二年には、ブロードウェイに進出し、『ムーンチルドレン』の役を得た。このまま行けば、彼は演劇の世界で成功したかもしれない。が、この年彼は、映画への最初のコミットメントを始める。それは、エリア・カザンの自主製作映画『ザ・ヴィジター』で、「ヴェトナムの残虐事件を証言する男について」の映画だった。
のちに彼が語ったところによると、演劇は彼にとって本気になれる場所ではなかった。ブロードウェイやオフ・ブロードウェイの芝居の多くは、「粗悪なイギリスの輸入品、やきなおし、博物館入りブロードウェイ、クソッタレ・オフ・ブロードウェイ、困ってしまう?嚴O人姉妹?宸?製作するアクターズ・スタジオ」といったもので、だから彼はあまり劇場通いをしなかった。その代わり、映画館には熱心に通った。
ウッズのおもしろいところは、自分が係わった世界をつねに否定的に語るところだ。ブロードウェイのスターにはならなかったにせよ、彼の業績を認めなかったわけではない演劇界を、ウッズは、「あんなものは、たいしたものではない」と否定してしまう。あるインタヴューのなかで、芝居の最初の仕事を得た経緯について次のような言い方をする。
「おれの最初の仕事は口からでまかせで手に入れたんだよ。『ボースタル・ボーイ(感化院児)』で本物のイギリス人俳優を求めていたので、おれは、リバプールから来たと言ったんだ。おれは完璧な発音をやってやつらを納得させた。やつらは、アビー・シアターから来たんだぜ。おれを雇ってから、やつらが言った。『リバプールにいたのはいつごろ?』おれは言った、『イギリスには一度も行ったことがありません』。すると、やつらが言った。『でもわれわれがほしかったのは、アメリカ在住のイギリス人俳優ですよ』。そこでおれは言った。『運よくわたしは皆さんをだしぬいてさしあげたわけですよね』。芝居はそのまま上演され、トニー賞と演劇批評家サークル賞を取ったんだ」。
こうした彼の姿勢には、どことなく『サルバドル 遥かなる日々』のリチャード・ボイルを髣髴とさせるところがあるが、ウッズ自身は、彼のような生き方や性格には批判的なのである。イヴ・バビッツとのインタビューで彼は次のように言っている。
「『サルバドル 遥かなる日々』でおれが演じた男は大嫌いだな。あいつは完全なまぬけだと思うよ。嫌いっていうより、やつに関心がないんだよ。酔っ払いで、退屈な、うんざりするアホタレ、ひとをいつも金でだまし、嘘とたわごとばかり言っている」。
しかし、リチャード・ボイルは決して実在のリチャード・ボイルではなく、また、それは、スクリプトのなかで予定されていたキャラクターとしてのリチャード・ボイルでもない。この点に関しては、オリバー・ストーンとウッズとのあいだで激しい議論があった。
われわれが、この映画のなかで見るリチャード・ボイルは、ウッズ自身が修正したリチャード・ボイルである。わたし自身は、一見およそ「政治的」でない勝手な男が、不可避的に政治的であらざるをえなくなるところに興味をもったし、その政治性は、ジョン・サヴェージが演じたヒロイックなカメラマンなどよりも、はるかにラディカルだと思った。
ジェイムズ・ウッズの魅力は、彼の「パーソナル・ポリティクス」のラディカルさである。彼は、エリザ・レオネリによるインタヴューのなかで、「おれが、これまで確立しようとしてきた唯一のポリティクスはパーソナル・ポリティクスだよ」と言っている。それは、つねにシステムに対して距離を保つことであり、自分の自由性の領域を戦略的に確保しておこうとすることである。
現実に「くそったれ」であることと、アスホールを演じること、戦略的にアスホールであることとは決して同じではない。ウッズは、アスホールではないが、しばしばアスホールを演じてはいる。彼は、監督や製作者ともめることでよく知られている。『サルバドル 遥かなる日々』では、リチャード・ボイルのキャラクターの解釈でもめ、ボイルを全く政治性のないアスホールとして描きたかったオリバー・ストーンは、遂にウッズに向かって「おまえは、ネズミかイタチみてぇな裏切り者だ。おまえなんか大嫌いだよ。死にゃいいんだ!」と叫んだという(なお、これには、裏話があって、ウッズはこのせりふを映画のなかで応用して使っている)。
彼は、極度に自分に固執する。当然そこにはリアクションがあり、そのために彼は「スター」として一般に認められ、自分が仕事を選べるようになったのは、役者を始めてから十八年後つまり『サルバドル 遥かなる日々』以後のことなのである。彼は、つねに「プロデューサーの最初の選択ではなかった」。
「おれは、コンヴェンショナルな意味ではいい男じゃなかったからね。オフビートなんだ。・・・『オニオン・フィールド』のときだっておれはお呼びじゃなかった。あの役には向いてなかったんだ。おれは自前でスクリーン・テストを受けなきゃならなかった。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』でもおれはお呼びじゃなかった。あの役には向いてなかったんだよ」ウッズは言っている。
その意味では、ウッズのこれまでの歩みは、ある種の成功物語だと言えなくもない。しかし、必ずしもそうでないところがウッズのおもしろさである。一九八五年に封切られた『ジョシュア・ゼン・アンド・ナウ』の際には、監督のテッド・コッチェフも脚本のモルデカイ・リッチラーも口をそろえてウッズが「適役」だと述べた。「やせた、鷹のような顔つきの、粗野で同時に頭のいい男」にウッズはうってつけだと言った。そこで彼は、満足して役を引き受けた。ところが、ウッズ自ら語るところによれば、
「『ニューヨーク・タイムズ』のジャネット・マスリンというアホがこう書きやがった。『ウッズ氏は、極度のミスキャストだが……』と」。
いまや、ウッズは、その「成功」においてよりも、むしろその「失敗」によって評価されるような役者になりつつある。これは、ジェイムズ・ウッズの個人的資質から来るものであると同時に、ハリウッド映画のような幻想への酔いを至上の価値としてきた世界においてすら、《距離の文化》がリアリティを持ち始めて来たことを意味している。
「役に成りきる」こと、「迫真の演技」、「憑依する肉体」等々は、これまでハリウッド映画のリアリティを形づくってきた。それは、スタニスラフスキー・システムの合理化された応用であり、リー・ストラスバーグのアクターズ・スタジオは、その普及に大いに貢献した。その影響は、今日でも続いており、アクターズ・スタジオの優等生であるロバート・デ・ニーロも、結局はこうした《憑依のリアリズム》を越えることができない。デ・ニーロの新鮮さは、むしろそうしたリアリズムをはずれたオフビートな、内的な距離をはらんだ演技にあったはずなのだが、彼自身は、最近の『アンタッチャブル』のアル・カポネ役に見られるように、憑依する肉体の神話に深く捕われているのである。
ウッズの場合、彼自身は「迫真の演技」をしようとこころがけているかもしれない。だからこそ、彼は、『ジョシュア・ゼン・アンド・ナウ』の批評に腹を立てる。しかし、重要なことは、彼の場合には、むしろ酷評が評価になってしまっていることであり、その屈折が一つの文化にまで成って来ていることである。彼が、一般に評価されるようになったのは、『オニオン・フィールド』で病的な警官殺しの「迫真的な」演技によってである。 確かに、彼の演じたキャラクターは、『ブルー・ベルベット』でデニス・ホッパーが演じたキャラクターよりも「怖い」。しかし、ホッパーには、現場に居合わせたら本当にやられるんじゃないかと思わせるような怖さがあるのに対して、ウッズの場合は、テッド・ダンソンにピストルを突きつけて病的な緊張をエスカレートさせていくときでも、突然「おれやめた」と言って演技から降りてしまうようなしらけがどこかにあって、それがウッズの演技を−−保守的な観客にとっては「どこか違う」と思わせ、他方ウッズにより現代的なものを感じるわれわれにとっては実に納得のいくものに感じさせるのである。
これまでのところ、彼はこうした特性を内容的なレベルで展開する機会にしか恵まれない。が、その場合でも、ウッズがエキセントリックな殺人犯よりも、信頼する仲間の密告さえも計算に入れておくような老獪な男を演ずる方がふさわしいということは、アメリカ映画ではまだ認識されていないのである。
イタリアの監督セルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』で彼が演じたマックスは、ヌードルス(ロバート・デ・ニーロ)をやむなく裏切らせることによって自分を〈消す〉。一見不可能に思える連邦銀行襲撃。失敗すればマックスは死ぬだろう。ヌードルスは、彼を救うために密告の電話をかける。だが、その結果マックスとその仲間の三人は、警官の襲撃を受けて《死ぬ》。ヌードルスは、それがマックスの手のこんだ計略であることには気付かない。マックスは、黒焦げのニセの死体を晒すことによって、自分の死を演出し、名前を変えて生きのびるのである。マックスにとって、生身の肉体などはどうにでもなると言わんかのように。
基本的に、ジェイムズ・ウッズは、その肉体を伝統的な役者とは異なる仕方で観客に提示する。それは、彼の言う「コンヴェンショナルな意味でいい男ではない」ところから次第に形成されたスタイルなのかもしれないが、結果的に、〈肉体のアンドロイド化〉が昂進する今日では、かえってリアルな印象を与えるのである。
デイヴィッド・デンビーは、鋭くも「ジェイムズ・ウッズには頬がないということ」に気づいた。「これこそ最も重要な事実である」とデンビーは言っている。「彼の目と口のあいだには長くて狭い平面、アイロン台のように平らな平面、何もない空間が拡がっている。彼の顔は、皮膚の下の頭蓋骨を示唆していて、それを最初見ると、人はおじけづくのである」。デンビーによれば、彼は、さらに「全体としてやせており、肉がギスギスにそげおちており、皮膚にはあばたがある。目を見開くと、想像以上に白目が大きい」という。
明らかにジェイムズ・ウッズには「ハリウッド的」な肉体が欠如している。カナダのデイヴィッド・クロネンバーグが、彼を『ビデオドローム』の主役に抜擢したのは、二重の意味で適格なことだった。まず、カナダ映画とりわけクロネンバーグのそれは、決してハリウッド的でないという点において。そして、次には、この映画が伝統的な肉体(そのマス・イメージの形成にはハリウッド映画が大きな影響力を持ってきた)の死と変容をテーマにしている点において。
ハリウッド的な肉体の変容は、マイケル・ジャクソンやマドンナの声と身振りのなかにすでにその顕著な例を見出すことができるが、ハリウッド的肉体の死の向こう側には、肉体の過剰なヴィデオ化がある。『ビデオドローム』でジェイムズ・ウッズが演ずるマックスは、最終的に己の肉体をヴィデオ映像に変換するために〈死ぬ〉。しかし、マックスがおこなった《ヴィデオ悪魔との取引》は、単にSF映画のなかの出来事ではなくて、すでに現実に起こっていることなのである。
映像のなかでしか知らない人や世界はますますふくれあがっている。そして、その映像世界と生身の肉体とが軋轢を起こしている。映像世界を白紙に戻すことができないとすれば、肉体世界に消えてもらうしかない。かくして、マックスは〈死に〉、マックス・ヘッドルームが誕生する。肉体を引きずった世界は、いまや時代遅れなものとなる。
考えてみると、こうした肉体の死は、シド・ヴィシャスの死によって常態化した。もともとパンクは、肉体の世界を欠如していたし、その点では六〇年代のロックとは根本的に違っていた。ジョン・レノンの死(肉体の死)が大袈裟な社会身振りによって追悼されたのに対し、シドの死がほとんどそうした身振りを呼び起こさなかったのは、単に両者の知名度の違いのためだけではない。そもそも、知名度というもの自体、その時代に何が「リアル」と見なされているかということの関数である。しかし、ヴィデオ映像のなかで一つの映像が消えた程度の喪失感しか起こさなかったシドの死は、いまやわれわれ自身のものになろうとしている。
こうしたリアリティのドラスティックな転換期のなかで、ジム・ウッズは、軽やかに、そしてしたたかに身をそらし、〈皮〉肉な笑いを浮かべて生き続けるだろう。彼が、ウォンボーやクロネンバーグの特殊世界のキャラクターからありきたりの日常世界のヒーローになるときまで、われわれはジム・ウッズのうさんくささをエンジョイすることができるというわけである。
[サルバドル 遥かなる日々]前出[オニオン・フィールド]監督=ハロルド・ベッカー/脚本=ジョセフ・ウォンボー/出演=ジェイムズ・ウッズ、ジョン・サベージ他/80年米[ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ]前出[ジョシュア・ゼン・アンド・ナウ] [アンタッチャブル]監督=ブライアン・デ・パルマ/脚本=デイヴィッド・マメット/出演=ケビン・コスナー、ショーン・コネリー他/87年米[ビデオドローム]前出◎87/11/ 6『SWITCH』
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