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モナリザ
車がすれちがう橋のロングショットに重なってナット・キング・コールの『モナリザ』が流れてきたとき、わたしは一瞬ひどくなつかしい思いがした。かつてそれは、別に好きではなくても、ラジオや喫茶店のBGMを通して無意識のうちに記憶に焼きついてしまうほどポピュラーな曲だったからである。
しかし、次の瞬間、それはノスタルジーから切り離され、ひどく謎めいた音楽としてわたしに迫ってきた。余りにポピュラーであるということが逆にさまざまな謎を喚起するのだ。これは、テリー・ギリアムの『未来世紀ブラジル』でも採用されている方法である。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』はまさに余りにポピュラーであることによって多義的であり続けているわけだが、ニール・ジョーダンはキング・コールのポピュラー・ソングを用いることによってこのアンビヴァレンツを強調しようとしている。だからわたしは、この映画の『モナリザ』を単純に黒人コールガールのシモーヌとは取ることができなかった。
モナリザとは誰か? ごく普通に考えればシモーヌがジョージのモナリザである。運転手役を引き受けたが最初は(たぶん人種的偏見もまじって)ひどく憎んでいたシモーヌ。この女性をジョージは次第に愛するようになる。しかし、彼は、娘のジェニーをシモーヌ以上に愛しているのではないか? ナット・キング・コールの『モナリザ』が流れた直後、彼は赤い花を手にして娘を訪ねる。
シモーヌが『モナリザ』ならば、この映画は単なるギャングスター・ムーヴィになる。それはそれでおもしろいが、ミステリー好きの友人トーマスや娘のジェニーの存在がほんの付け足しになってしまう。刑務所に入っていたというジョージが七年ぶりで見るロンドンの変わり様を示唆したショットも生きてこない。
ジョージは、その言葉や身だしなみからするとチンピラ風なのだが、映画の後半で展開されるようなはでな出入りとは縁がなさそうだ。むしろ彼は、働きがなくて女房に逃げられた中年男のイメージがぴったりであり、実際にこの映画のはじめの方で彼が女房と娘のいるフラットを訪ねたとき、彼は女房から追い払われてしまった。彼が会いたかったのは娘の方なのだが、二人の仲はさえぎられる。
戸を閉ざされたジョージが頭にきて、近くにあったゴミ罐を路上にたたきつけ、それをたしなめた黒人ともみあいになる。たまたま通りがかった旧友のトーマスになだめられ、その場をはなれながらジョージは、その界隈の住人が〈黒人だらけ〉になったことに驚きを示す。これは、ロンドンのリアルな現状で、こうしたショットを見せられると、後のギャングスター・ムヴィ的なシーンはひどく空想的に感じられる。
最近七年間のロンドンの変化という点ではこの映画はなかなかキメ細かい描写をしている。マイケル・ケイン演ずるボスのモートウェルのバアを訪ねると奥の事務所ではコンピュータの音がしている。はじめて使うことになったポケット・ベルに驚くと、友人のトーマスは「モダン・テクノロジーの時代だよ」とジョージに言う。
トーマスは大きなガレージのようなところに住んでおり、そこには本物に似せたスパゲッティのサンプルがある。これは、明らかに日本の影響であり、これがヨーロッパやアメリカで知られるようになったのは最近のことだ。ロンドンの日本人の数もふえた。シモーヌのヒモをやって「リッツ」というレストランに行くと、エレベーターのなかに身なりのよい日本人のカップルの姿がある。
この映画は、全体として、ジョージのパラノイア的な妄想から出来ていると考えることもできる。似たようなスタイルの映画としてはスコセッシの『タクシー・ドライバー』があるが、監督のニール・ジョーダンは、明らかにそれを引用している。
『タクシー・ドライバー』の場合、映像の妄想的性格は、主人公のナレーションとナルシスティックな態度によって暗示されたが、『モナリザ』では、ミステリー好きの友人トーマスから借りた本をめぐってジョージとトーマスがかわす会話が非常に婉曲にそのことを示唆している。構造的には、『モナリザ』の映像世界の大半は、ジョージとトーマスの会話のなかのフィクショナルな世界であるかもしれない。
妄想と不安とのあいだには密接な関係があるというのが通俗的な心理学の定説だが、『モナリザ』もある点ではこの定説に則っている。ジョージにとって一番不安なのは娘のジェニーが非行に走ることだ。それは、彼のモナリザを失うことである。
少年少女の非行は、イギリスでも深刻な問題になっている。経済的には不自由ではない家庭の少年少女が突然家出してホームレスになる。ヴィクトリア・ステイションとかキングス・クロス・ステイションのような大きな駅の構内にたむろし、通行人に金をせびる。路上で客を引くようになる少女も少なくないが、彼女らは大抵麻薬中毒にさせられ、ヒモから逃れられなくなっている。
映画でキングス・クロスの周辺で客を引く少女たちの姿がいささか幻想的な映像で描き出されていたが、通行人や通りがかる車を呼びとめるおびただしい数のホームレス・ユースたちは必ずしも幻想世界の存在ではない。彼女らは、マーティン・ベルのドキュメンタリー的な映画『子供たちをよろしく』に登場する実際のホームレス・ユースたちと直結しているのであって、いま欧米の平均的な親たちが恐れるのは自分の娘がホームレスになることなのである。
ジョージがシモーヌにたのまれてキャシーという少女をさがしていると、ある日その子に似た少女に出会う。彼女はジョージにアイスクリームをねだる。これは、彼女が所詮はまだ子供なのだということを現わしているというよりも、むしろ麻薬におかされた者が示す特有の反応である。彼女が、「リアル・フードはだめなの、アイスクリームしか受けつけないの」と言うのは本当なのだ。
キングス・クロスの少女たちのショッキングな生態は、ジョージが娘としあわせそうにつれだって歩く最後の方のシーンと対照をなす。ジョージの不安は娘がこのような少女の仲間入りをしないことなのだ。むろん、その保証はない。だからこの映画は、サルトルの『嘔吐』のように円環をなす。妄想が現実を追い、現実が妄想と癒着する循環がはてしなく続く。だからこの映画はさまざまな見方ができるのだ。
ジョージは、現在のロンドンに対して七年間のズレがあるので、逆に現在をより新鮮に見ることができる。彼は最初、黒人のシモーヌに対して人種的偏見をもっているが、やがて彼女を愛するようになる。しかし、彼女は、最終的にレズビアンであることが明らかになる。愛は不安に変わらざるをえない。今日では、男は相手がレズであるかもしれないという不安をいだきながら女を愛す。
結局、モナリザはジェニーであり、またシモーヌでもあった。モナリザとは、決定を拒絶し、不安をつねに内包する愛の対象だとすれば、映画『モナリザ』は、モナリザ・シンドロームの諸症状をうまく描いている。モナリザ、モナリザ、モナリザ。モナリザとは誰か? それはあなた−−『モナリザ』という映画それ自身だ。
前出◎87/ 2/18『キネマ旬報』
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