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プラトーン

『プラトーン』の成功は、八年間続いたレーガン時代の終わりをタイムリーに象徴している。そしてそれは、今後のアメリカ社会と文化がこの八年間よりもアブナイものになるだろうことを暗示している。
 レーガンの時代はカラーの時代だった。が、それはカラーといっても、一九四〇〜五〇年代のハリウッド映画の「総天然色カラー」ではなくて、モノクロを電子的な操作で色付けした人工着色のカラーだった。人々は、その華麗さやあざやかさをつかのま楽しみはしたが、それが所詮は操作であることを知っていた。
 最近アメリカではモノクロ映画の「人着」に反対する運動がもり上がっている。発端は、ターナー放送システム、CBS/FOXヴィデオなどが『Jサブランカ?宸竅wマルタの鷹』をはじめとするモノクロの名画に「人着」をほどこして市場に流す計画を発表したことだった。これに対してマーティン・スコセッシ、ウディ・アレン、スティーヴン・スピルバーグらが強い反対をとなえ、アメリカ映画協会も最近人着に対する反対声明を発表した。
『プラトーン』と一見無関係なこんな話をもち出したのは、この映画の冒頭シーンを見たとき、わたしはまず画面の色に興味をひかれたからである。それは、チャーリー・シーンが初めてヴェトナムの基地に到着するシーンであるが、全体が砂塵を感じさせるような黄色っぽい色に仕上げられていた。ヴェトナムの空港にはたえず砂塵が舞っているのだろうか、それとも何かを焼く煙があたり一面にただよっているのだろうか? そんなことを感じさせる色だった。
 しかし、その黄色っぽいフィルムのトーンはずっと変わらなかった。監督のオリバー・ストーンは、意図的に生々しいカラーでも、レトロ趣味のセピアでもない独特の色でこの映画の色調を統一しているのである。
 それは、ヴェトナム戦争を描く映画のポリティクスとしてすぐれていると同時に、八〇年代のアメリカ映画のなかで政治と映画の現状に批判的意識をもった映画が試みてきたことのすぐれた帰結をあらわしている。
 モノクロが、ハリウッドの主流に対する反抗を秘めていることは、アレンの『マンハッタン』やジャームッシュの『ダウン・バイ・ロー』にもよくあらわれている。しかし、モノクロは、一つの逃避としての反抗であって、ハンフリー・ボガートの背広の色をグレーにも、ブルーにも、さらには金茶色にさえしてしまう「人着」技術にも似たレーガン時代の歴史の塗りかえ作業にはほとんど無力だった。
 レーガンの時代は、まさにヴェトナムを「人着」することから始まった。ちょうど、レーガンが大統領になる前年−−一九七九年四月−−のアカデミー賞に、マイケル・チミノの『fィア・ハンター?宸ェ最優秀作品として選ばれた。この映画は、その興行成績にもかかわらず、政治意識のある人のあいだでは評判が悪かった。いま冷静な目でこの作品を見れば、この映画がそれほどひどくはないという気もする。しかし、わたし自身その封切をマンハッタンの映画館で見たとき、ロシアン・ルーレットでヴェトコンからさんざんいじめぬかれたデ・ニーロが機に乗じて彼らを倒したとき、映画館のなかで猛烈な拍手が起こり、わたしはこの映画の社会的機能が明らかに「ヴェトナムでの誤ち」をうやむやにする作用を果たすことを痛感しないではいられなかった。
『ディア・ハンター』そのものは両義的な映画であり、それは、登場人物たちが「ゴッド・ブレス・アメリカ」(アメリカに祝福あれ)を歌いながら半ベソになってしまう最終シーンによくあらわれていたと思うが、その後のアメリカは、まさに「ゴッド・ブレス・アメリカ」を高らかに歌う方向に進んでいった。とてもそんな状態ではなかったにもかかわらずである。そんななかで『ランボー』シリーズが作られ、『若き勇者たち』などのような反共的映画まで登場した。これではとても、まともに政治をあつかう映画など撮る気にならなくなるのも当然で、ジャームッシュなどのある種のレトロ主義はこのこととも関係がある。
 しかし、ヴェトナム戦争を通じてアメリカ人がわが身に深く、痛みをもって刻みつけた教訓と、その一つの結晶としての七〇年代ニューシネマの記憶は、決して忘れ去られたわけではなかった。そしてハリウッドも一枚岩ではなかった。『ランボー』人気が高まっていた時代でも、たとえばニカラグア革命の前史を生き生きと描いたロジャー・スポッティスウッド監督の『アンダー・ファイア』のような反戦と革命の映画が(ニック・ノルティとジーン・ハックマンの主演で!)作られた。
 昨年ニューヨークで、ジェイムズ・ウッズ、ジョン・サヴェジ、ジム・ベルーシの出演した『サルヴァドール』を見たとき、そこに『アンダー・ファイア』の路線が確実にひきつがれているのを発見して驚いた。アメリカはおもしろい国である。それは、大統領の声明やハリウッド映画の主流だけからは決してつかめない。わたしは、レーガンがイラン政府とニカラグア反政府軍へ武器を密輸した問題で急速に失墜への道を歩むとは予想しなかったと同様に、この『サルヴァドール』を監督した人物が、ただちに『プラトーン』の撮影に着手するとは予想だにしなかった。
『プラトーン』が執拗に撮る戦争のむなしさとばからしさは、すでに七〇年代のニューシネマで周知のものである。ヴェトナム人への不信感が村人虐殺への狂気へ突き進む過程を描いたシーンは、ニューシネマのそれよりもすぐれているが、たとえばソンミ村(現ティンケー村)でそれ以上のことを実際に経験した人々にとっては十分ではないだろう。爆弾で(ときには味方の砲撃で?@?^)内臓を露出させ、脚を吹きとばされ、恐怖のなかで死んでいったアメリカ兵がこの映画で生きかえるわけではない。
 しかし、『プラトーン』は現在のハリウッド映画で出来る最大限のことをした。そしてそれは、戦争をカラフルな画面で描くなどということはもはやできないこと、少なくとも八〇年代末のアメリカはそのような反省をもう一度必要としていることを見る者に痛く刻みつけずにはおかない。
前出◎87/ 3/11『流行通信』




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