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ゴースト・ウィーク/ザ・フライ

 ダニエル・ヘルファーの『ゴースト・ウィーク』とデイヴィッド・クロネンバークの『ザ・フライ』を同じ時期に見た。両者は、エレクトロニクスが浸透した今日の社会との関連で見るとき、一つの共通問題を提起している。
『ゴースト・ウィーク』は、海賊テレビ局を開局する資金集めのために、テレビの長時間視聴記録に大金を出すスポンサーを見つけ、その記録に挑戦する男の話だ。もともと彼(リコ)は、電子テクノロジーに強い友人のバナナ、恋人のビギと三人でヴィデオのレンタル・ショップを経営しているのだが、そのやり方がふるっている。街の映画館の映写技師をまきこみ、館内に秘かにヴィデオ・カメラを置き、その信号を電話回線に流してバナナが外部で録画し、その録画テープを店に並べるのである。これは実際に可能な方法である。
 しかし、彼らは、もっと自由なやり方で映像を流通させたいと思っている。それには、現在の西ドイツでは−−日本と同じように−−非合法のテレビ局を開くしかない。かくしてリコの挑戦ということになったわけだが、調べてみると日本人がすでに一週間連続視聴記録を達成していた(これは電子中毒社会・日本への痛烈な皮肉だ)。リコは躊躇するが、技術マニアのバナナは海賊テレビ局の開設に賭けており、リコも結局連続二百四十時間の新記録にいどむことになる。
 しかし、リコが記録を達成したとき、彼は〈外界〉を知覚できない人間になってしまう。病院で検査するうちにわかったことは、彼の感覚機関が一種のテレビ受像器になってしまい、電波を通じてしか人とコミュニケイションをすることができないことだった。
 これとそっくり同じことが起こるとは思えないが、電子メディア−−とりわけテレビやヴィデオ−−によって知覚が大幅に変わってくるのは事実である。電波を直接受信しないまでも、映像と物との関係が倒錯し、ついにはすべてを映像とみなすようになるというのはすでに起こっている現象だ。テレビによく出る知人の話では、街頭で全く知らない人から親しげに話しかけられたり、あいさつされたりすることがよくあるという。これも、この種の現象の一例だろう。
 こうした傾向が昂進すると、『ザ・フライ』で描かれている世界の発想が現実的なものになる。この映画は、カート・ニューマンが一九五八年に作ったSF映画『ハエ男の恐怖』のリメイクだが、この三十年間に、状況は電子的な方法での物質転送や遺伝子操作を単なるSF的ホラーではなくしてしまった。
 生ま身の人間と映像としてのそれとを同一化できるという感覚の行き着く先は、生ま身の身体を電子映像としてどこにでも移動できるという発想であり、物や人間の体をすべて電子情報に分解・再構成できるという発想である。
『ザ・フライ』のセス・ブランドル博士は、高等動物を生きたまま転送できる装置の製作に成功する。今日の遺伝子生物学によれば、人間の特性を決定する遺伝子は情報である。その情報がすべて電子的な方法によって電子的な情報に還元されるかどうかは別として、こうした発想は、遺伝子操作が具体化している現状では、もはや空想的なことではない。
 だから、わたしは、この映画の結末には大いに不満をいだいた。セス・ブランドルは、自分の作った装置で自ら実験するうちに、体の異常に気づく。爪や歯が落ち、指先や口から体液が出てくるのである。そのかわり体は驚くほど身軽になり、性的能力も極度に強くなった。
 異常がますます昂進したとき、セス・ブランドルは、自分の身体の転送の記録をコンピュータで追跡調査してみた。驚いたことに、彼の体には一匹のハエが融合されていた。転送のためにブースに入ったとき、そこにハエがまぎれ込んでいたのである。
 ところで、この話はラブ・ロマンスと並行して進む。はじめは取材のために近づいた女性編集者ベロニカ・クエイフは、セスをじきに愛するようになり、彼の子を身ごもる。しかし、彼女が妊娠に気づいたとき、彼はすでに人間からハエ男への変身をし始めていた。彼女は恐れる。自分は巨大なハエを生むことになるかもしれない。
 しかし、人間の言葉をやっと話せる状態にまで変わってしまったセスは、ベロニカに向かって、おなかの子どもと三人でブースに入り、新しい融合体になろうと懇願する。それは、彼女を救いにやってきた彼女のかつての恋人によって阻止されるのだが、この結末は、いかにもアメリカ映画的で、つまらない。なぜ融合してしまわなかったのだろう? フィクションの特性は、極限状況を提示することによってそうした状況を生み出す可能性をもつ諸条件の恐ろしさを想像させることだ。ハエ男がライフルで撃ち殺されるよりも、奇怪な融合生物が生き延びる方が恐ろしいし、今日のテクノロジーは、そこまで進もうとしているのだから……。
[ゴースト・ウィーク]監督・脚本=ダニエル・ヘルファー/出演=ウベ・オクセンクネヒト、カタリーナ・ラーケ他/87年西独・スイス[ザ・フライ]前出◎86/11/24『社会新報』




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