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サブウェイ
映画の世界でも確実にニュー・ジェネレイションの時代が始まったように見える。
最近日本に入ってきたものだけにかぎっても、ジム・ジャームッシュは三作目の『ダウン・バイ・ロー』ですでに国際的な地歩を築きつつあるし、『リヴァプールから手紙』のクリス・バーナード、『赤ちゃんに乾杯!』のコリーヌ・セロー、『ロンリー・ブラッド』のジェイムズ・フォーリー、そして『サブウェイ』のリュック・ベッソンらは、確実に新しい映画空間を生み出しはじめている。
彼や彼女らが描く映像世界は多様であり、アメリカン・ニュー・シネマにおけるアウトローのような一定のパターンを見出すことは難しい。が、それにもかかわらず、そこにはある種の共通性−−たとえば働くことへの強い否定−−があり、パンク・カルチャーをくぐりぬけてきた世代の映画であることを強く感じさせるのである。だから、これらの映画はポスト・パンク・シネマと呼ぶのがよいかもしれない。
とりわけリュック・ベッソンの『サブウェイ』は、ポスト・パンク・シネマにふさわしい作品であり、ここには一九七〇年代のパンク・カルチャーのなかに流れこんだすべての要素が地下鉄駅という、街路でも室内でも自然環境でもない人工的なスペースのなかに結集されている。
『サブウェイ』の冒頭シーンにカーチェイスがある。このシーンは、部分的に『フレンチ・コネクション』のカーチェイス・シーンを思わせながらも、これまでのカーチェイスとは決定的にちがっている。まず、フレッド(クリストフ・ランベール)は、車を疾走させる勢いづけに車のカセット・ステレオをかける。ノリのあったカセット音楽をセットしたフレッドは、まるで電気の通じたメカのように車を猛烈なスピードで運転しはじめる。
これまでのカーチェイスは、結局のところドラッグ感覚に支配されていた。車は、それがどんなにうまくあやつられたとしても、やはり運転者にとっての道具であり、運転者はたかだか、ドラッグで高揚したときのような意識で車をあやつるのである。これに対して『サブウェイ』のフレッドは車のメカになってしまう。これは、ドラッグ感覚ではなくて電子感覚だ。だから彼の車は、最後に、ソケットに納まるプラグのように地下鉄駅の入口にピシャッとはまりこんでしまうのである。
フレッドは、子供のときに、車の下をくぐる賭けを父親として(見上げた父親だ!)大怪我をしたことになっているが、彼は乗物の下に入ることが好きらしい。地下鉄駅で警察に追われると、走って来た地下鉄の下に飛びこみ、急停車した地下鉄の陰をつたって駅のもう一段下の地下スペースにもぐりこむ。これは、いわば車や列車に象徴される旧文化(カー・カルチャー)を見送り、その裏をかくことであり、フレッドがもっとも新しい文化(エレクトロニク・カルチャー)に属していることを暗示している。
実際のパリの地下鉄駅に映画のような地下スペースがあるのかどうかは知らないが、非常にSF的であると同時にひどく現実的な感じのするこのスペースには奇妙なひとくせある連中ばかりが住んでいる。いつもローラー・スケートをはいている鳥かコン虫のような感じの青年(ジャン=ユーグ・アングラード)、怪力の黒人男、ホームで花を売っているが、実は〈地下世界〉のボスであるジプシー風の男(リシャール・ボーランジュ)。それに、いつもドラムのスティックを持ち歩いているパンク・ロッカー。
彼らは、全く働かないわけではないようだが、問題の地下スペースでは決して働かないらしい。ここは、〈労働〉の存在しない世界であり一種のユートピアである。こうした世界が、駅のありふれたドアーの向こう側に存在し、彼らは、二つの世界を行ったり来たりしている。
ただし、この地下スペースのような世界は必ずしも空想の世界ではなく、ホームレス(浮浪者)やスクウォッター(空家占拠者)たちがたむろするところはどこもこれと似かよっている。一九七〇年代後半から八〇年代の初めにかけてヨーロッパの各地ではこのようなスペースが次々に生まれ、そこがパンク・ロック・ミュージックや落書・壁面アートの拠点になった。ニューヨークやメルボルン、シドニーでも似たような現象が見られる。
『サブウェイ』は、この辺の感じをよくおさえている。地下スペースだけではなくて、駅の構内自身も、これまでの(日本ではまだまだ有力な)ワーク・エシック(労働観)には完全に距離を置いており、働くことを至上のものだとは誰も思ってはいない。駅長はなるべく仕事をしない努力をし、構内の売店にはいつも寄生虫のような連中がいっぱいいる。一番働いているように見える警察官たちにしてからが、大した仕事はしていない。フレッドは、もともと金庫破りであり、彼に魅かれるエレナ(イザベル・アジャーニ)は、貧しい〈団地の娘〉からブルジョワの妻におさまった。彼女は、家事労働などに追われることはない。
もっとも、〈労働の拒否〉には二種類あり、パンクのように一切の労働を拒否するものと、〈有閑階級〉のエレナとその夫のように、必要労働を誰かにやらせることによって自分たちは労働から逃れる者とがある。映画ではこうした有閑階級の鼻もちならない感じをエレナの夫がうまく表わしていたが、後半のディナー・パーティのシーンでエレナがついにその世界に耐えられなくなって招待主の妻にどぎつい言葉をはき、それをたしなめた夫と最終的に決裂する。このとき彼女は、もう一つの世界を選んだのである。
フランス語では普通、地下鉄のことを「メトロ」と言う。だから、『地下鉄のザジ』はZAZI DANS LE METROだった。リュック・ベッソンがこの映画のタイトルを「メトロ」ではなく、「サブウェイ」としたのは、この語を両義的に使うためだろう。サブウェイとは地下鉄であるとともに、もう一つの道/場であり、日常的な論理−−とりわけワーク・エシック−−が通用しない世界を意味するのである。
〈労働の拒否〉とは、単にさぼることではなく、仕事を強制されたものではなくすることだ。『サブウェイ』では、その極地は音楽という形をとる。この映画には多くの個所に−−ちょっとブラッドウルマーのギターに似た響きの−−エレクトリック・ベースのサウンドが挿入されているが、フレッドはこのベース奏者を含むミュージシャンを駅の構内でかり集め、ポスト・パンク・スタイルのバンドを結成する。そして彼らにサファリ・ルックを着せ、構内のステージで演奏させるわけだが、このとき、彼はうしろからピストルで撃たれて床に倒れる。これは、〈労働の拒否〉に対する権力の対応であり、演奏までの一連のシーンが非常にいいノリで進むだけにその点が浮き彫りになる。
しかし、それで終わってしまえばこの映画は、「おれは最低だな」とか言って死んでしまう『勝手にしやがれ』のベルモンドと一向に変わりばえしない。ところが、ポスト・パンク・カルチャーの主人公であるフレッドは、そんなメロドラマとは無縁である。すなわちフレッドは、息たえたと見えた次の瞬間、何もなかったような表情でパッと目を開き、音楽のリズムを口ずさむのである。
考えてみれば、フレッドは、ドラッグよりもカセットで元気づくような〈電子人間〉だった。彼がピストルのような前時代のメカで殺されるようなことはないのだ。エレクトロニックのビートさえあれば何度でも生きかえることができると彼は信じている。
監督=リュック・ベッソン/脚本=リュック・ベッソン、ピエール・ジョリベ他/出演=クリストフ・ランベール、イザベル・アジャーニ他/84年仏◎86/11/18『キネマ旬報』
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