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未来世紀ブラジル
最近アメリカで当たっている『トップガン』などという映画を見ると、アメリカ映画というのは、人に何かを考えさせるような映画を作る気などてんでないということがよくわかる。それにしてもこの映画、見せ場はすべて米海軍の協力で撮影され、元手はかかっていないのだから、商売としては実に効率がよい。SDIもそうだが、企業は行きづまると、軍事で息をつこうとするのである。
こんなアメリカ映画産業でも、そこにヨーロッパの人材が加わると様子ががらりと変わってしまうのはおもしろい。モンティ・パイソン・シリーズのテリー・ギリアムが監督した『未来世紀ブラジル』は、まさにそんな映画の一つであり、近年では『ブレードランナー』以来の傑作である。
ロジャー・プラットの撮影とノーマン・ガーウッドの美術に接するだけでも、この映画は実に刺激的だが、シニカルな政治劇を得意とするトム・ストッパードが脚本に参加しているこの映画のストーリーは、かなりサビがきいていて、その映像美に酔いしれることを許さない。
映画はテロとともに始まる。なぜか「8:49PM」の文字を映し出したテレビの画面。この映画で描かれる世界の人間関係を示唆しているような通気パイプ(すべてが筒抜け)のCMがその画面に映る。が、カメラが引いて窓を映すと、そこに人かげが走り、突然爆発が起こる。横倒しになり、燃えながら映像を映し続けるテレビの画面では、メガネのアナウンサーが「テロリズムの増加」を報じている。
ひどく衛生的なオフィスでミッシェル・フーコーのような顔をした男がテレタイプを打っている。そこへハエが迷い込む。狂ったようにハエを追い、ようやくたたき落とす男。が、そのときハエの死骸がポロリとテレタイプのなかに落ち、印字を狂わせる。
この二つのシーンは、この映画の物語の基礎的な環境を示唆している。最初に、ここは「近未来のある国」(ブラジルとは無関係)であることが告知されるが、ここではテロリズムが日常化し、その一方でオーウェル的な超管理社会が成立している。だから、次のシーンでは、家族とのクリスマスのだんらんを楽しんでいるバトルという男が、急襲した特捜隊員に妻と子供の面前で拘禁服に入れられて連れ去られる。この男は、テロリストの嫌疑をかけられて逮捕されたのだが、テレタイプにはさまったハエの死骸のために一字だけ名前のつづりを打ちちがえたために(タトル→バトル)、誤って逮捕されたのだった。
この映画の主人公サム・ローリー(ジョナサン・プライス)は、この国の情報局の記録課で働いている。なぜかこの映画に出てくるオフィスで働いているのは男ばかりで、その男たちは、みなシステムの完全な従僕になっている。サムも例外ではない。
それだけ、この国の管理は厳しく、反抗する者は逮捕され、ロボトミーを受けることになる。だから、かれらのやるわずかな反抗は、オフィスの事務用のヴィデオ・スクリーンを映画のヴィデオに切替えるぐらいのことで、あとは夢のなかで自由を空想するしかない。サムはいつも、たくましい騎士になって空を飛び、レースの衣装を軽くまとっただけの美女と空のなかで出会う夢想につきまとわれている。『ブラジル』という原題は、くりかえし現われるこの夢想シーンにかぶさるザビア・クガートの一九三〇年代のヒット曲のタイトルに由来している。
この世界でわずかに元気を保っているのは、当局から指名手配を受けているタトル(ロバート・デ・ニーロ)と、サムが一目ぼれするジル・レイトン(キム・グライスト)の二人だけだ。この国では、たとえ暖房装置や通気パイプが故障しても、それを勝手に直すことは許されない。タトルは、こわれた家があるとスパイダー・マンのようにビルとビルのあいだをつたってその家に行き、無許可で修理をしてしまうので、彼は当局から危険人物として指名手配されている。この映画には、アメリカ映画のような脳天気な勝利の解放感はあまりない。きゃしゃな美しい体で大型トレーラーを自由にあやつるジルの自立した姿勢や、いささかコミック小説風のユーモアと身軽さにあふれたタトルの行動が、この陰うつな世界でのわずかの救いである。
しかし、その二人も、最後には滅びてしまう。タトルが、路上に風でまいあがる新聞紙に−−まるでヒルの大群に襲われでもしたかのように−−まかれて消えてしまうのは、いかにも暗示的だ。彼も所詮は、紙の世界の人物でしかなかったのだ。主人公サムも、最後にはロボトミーされてしまう。
それにしても、ヨーロッパには、この映画の世界のような全面的な管理の浸透した社会に対する強迫観念がたえずつきまとっているように見える。これは、そうした管理がいまヨーロッパで深まりつつあるからではなく、そうした超官僚制社会を絶対に拒否するある種の政治文化が依然として生き続けているからである。
前出◎86/ 9/25『思想運動』
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