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マリリンとアインシュタイン

「このストーリーの内容はすべてフィクションである」と最初に断るような映画にかぎって、歴史の真相に肉迫していることが多い。ニコラス・ローグの『マリリンとアインシュタイン』は、まさにそんな映画の一つだろう。マリリン・モンロー、アルベルト・アインシュタイン、ジョー・ディマジオ、ジョゼフ・マッカーシーがこの映画のような出会い方をしたことはなかったが、彼女や彼らがこの映画で描かれているような意識をいだきながらあの時代を生きていたことは十分にありえることなのだ。
 映画の時代設定は一九五四年。モンローは、この年の二月一日に新夫のジョー・ディマジオと日本を訪れ、「モンロー・ウォーク」を披露している。が、二人は年内に離婚。そして翌年、彼女の一見奔放な男関係に便乗したかのように『七年目の浮気』が公開される。
 しかし、当時のニューズ・フィルムに映っている〈素顔〉のモンローは、ディマジオとの離婚を発表する記者会見で実に悲痛な顔をしている。そこには、あのセックス・シンボルとしてのハリウッド・スターのおもかげは少しもなく、今度こそ幸福をつかもうと思いながら失敗しつづける薄幸な女がいる。そのうちひしがれた表情を見ると、離婚の理由が彼女の浮気にあったようには思えない。
 モンローが当時、アインシュタインのような知識人に魅力を感じていたことは確かだろう。が、それは、頭の弱い女がインテリにひかれるのとは全然ちがうのだった。一九五六年に彼女はアーサー・ミラーと結婚するが、彼は、当時、「赤の劇作家」として社会的烙印を押されている人物だった。彼女は決してただのインテリ男にひかれたのではなくて、反権力の知識人にひかれたのである。
 当時アメリカでは、ジョゼフ・マッカーシー上院議員が率いる非米活動委員会によって「赤狩り」が進められ、その矛先は映画や演劇の世界にも向けられた。一九五二年にはエリア・カザン、クリフ・オデッツ、リリアン・ヘルマンが、そして翌年にはジェローム・ロビンスンやリー・J・コブが委員会の喚問を受けている。一旦この喚問で「赤」の烙印を押されてしまうと、それまでの職を失うことは確実だったので、エリア・カザンのように、「転向」を表明し、友人の秘密を委員会に告げて自分の身を守ろうとする裏切者も現われた。だから、アーサー・ミラーのように明らかに赤狩り批判とわかる戯曲(??
』jを書く者はまれであり、未来に失望して自殺する知識人や俳優もいた。
 非常に矛盾した時代だった。モンローの笑いやセックス・アッピールとは裏はらに、人々の意識の底には権力への無力感が蓄積されていた。『るつぼ』の初演からひと月たらずのうちに、ローゼンバーク夫妻がソ連のスパイの嫌疑をかけられて死刑に処せられた。アインシュタインも、こうした状況に公然と抵抗した知識人の一人だった。彼は、一九五三年六月十二日の『ニューヨーク・タイムズ』紙上に、状況の深刻さを警告する反「赤狩り」批判の手紙を発表している。
 こうしてみると、ニコラス・ローグが、モンロー、アインシュタイン、ディマジオ、マッカーシーの四人の歴史的人物を想起させる登場人物をニューヨーク−−とりわけマディソン・アヴェニューのフォーティフィフス・ストリートに実在するルーズベルト・ホテルの一室−−で出会わせたのは、実にひらめきのある発想である。かつてワルター・ベンヤミンは、歴史をとらえるということは、過去を「もともとあったとおりに」認識することではなくて、「危機の瞬間にひらめくような回想をとらえることだ」と書いた。実際に、このホテルで四人の人物たちは、それぞれの「危機」に直面していた。
「女優」は、「男の想像物」でしかない女を演じることに嫌気がさしていた。「教授」は、ホロコーストのおぞましい記憶にさいなまれながら、自分がその責任の一端を担っている広島の原爆に罪の意識を感じていた。虚空に白いシーツがひらめき、地上に落ちてゆくと、その白地に血がにじむ妄想。日本の牧歌的なイメージが原爆投下の血なまぐさいイメージによって打消される。「上院議員」は、ピューリタン的教育の精神的傷痕に悩まされており、部屋に連れこんだ売春婦のまえで不能を暴露する。赤狩りは、そうした屈折を解消する手段となっている。「野球選手」は、虚像を増殖しつづけている女優の妻に愛想をつかしはじめている。彼の関心のすべては野球であり、その理想の妻は、子供を生み育てるよき母なのである。しかし、その妻は、うわべの美しさとは逆に、「体のなかがボロボロになって」いて、流産ばかりしている。
 むろん、最も危機的なのは「女優」である。「教授」、「上院議員」、「野球選手」の内面的危機は、結局のところ、「女優」の大文字の危機のなかに吸収されるのだ。身勝手な男たち。男たちは誰も傷つかず、「女優」だけが血を流す。その血は、「教授」の書類を押収しにやってきた「上院議員」になぐられたときに子宮から流れ出る流産の血なのだが、この出血には「教授」も「野球選手」の夫も責任がある。
 ニコラス・ローグにとって血の赤は、死にかぎりなく近い色だ。『赤い影』では、赤いレインコートが死を招く。だから、「女優」が自分の子宮からの血をバス・ルームの鏡に塗りつけるのは、彼女の子宮世界の終末を告知する儀式なのである。
「教授」の幻想のなかでシーツににじむ血と、「女優」がベッドのうえで自分のシーツのうえに見出す血とのあいだには重要な連関がある。前者は、核爆発と世界の終末につながっている。が、そうだとすると、後者の血は、子宮というミクロコスモスにおける〈核爆発〉がもたらす世界の終末を示唆している。
 このことは、この映画を歴史の方に越境させる違犯をちょっと犯してみればよくわかることだ。マリリン・モンローの肉体と子宮は一つのアメリカのミクロコスモスだった。そこには多くの「男」たちがやってきては〈核〉を爆発させていった。ある意味で、「男」たちはマクロな世界に〈核〉を投じる代わりに、彼女の子宮でミクロな核爆弾を炸裂させた。実際に、ジョン・F・ケネディは、キューバに核ミサイルを投下することを断念したが、モンローのミクロコスモスに〈核〉を投下しつづけたのだった。
 モンロー自身が−−まさにこの映画で「女優」が「教授」に対して示す−−愛情と信頼をいだき、今度こそ幸福をつかめると信じた相手のアーサー・ミラーも、結局は、彼女に対して〈核爆弾〉を投じる役割を果たしてしまうのだった。当時のニューズ・フィルムには、ミラーの子を流産してしまったモンローが、ほとんど泣き出しそうな顔で、殺到する記者をふり切りながら病院を出るショットが記録されている。
 生育を拒絶する子宮−−それは、侵略と破壊、生産と労働を至上のものとする「男」の論理への厳しい拒否であり、ヴェトナム戦争において一つの終末に達するアメリカへの拒絶を意味している。すべては「無意味」(この映画の原題は「インシグニフィカンス」つまり「無意味」)なのであり、何も生まれないのである。が、この映画では、登場人物たちはほとんど誰もその「無意味」さに気づいてはいないようだ。重要書類をホテルの窓から投げ捨てる「教授」にしたところで、それが、フィフス・アヴェニューで事あるごとに行なわれる軍事パレードの際に道ぞいの建物の窓から投げられる紙吹雪に酷似していることには気づかない。わずかに、ウィル・サンプソン演じるエレベーター・ボーイだけが、この世界の「無意味」さを知り、笑いをこらえている。世界の終末−−インシグニフィカンス−−のあとには彼の笑いしか残らない。
監督=ニコラス・ローグ/脚本=テリー・ジョンソン/出演=テレサ・ラッセル、ゲーリー・ビジー他/85年英◎86/ 7/18『キネマ旬報』




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