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シネマ・ペダゴジー

ショート・サーキット/スペースインベーダー
 アメリカ社会にとって映画は学校以上の教育機能を果たしているのではないかと思うことがある。なるほど、読み書きや知識に関しては映画よりも学校の方が影響力大であろう。しかし、しゃべり方や行動のしかた、流行やセンスに関しては映画の力は極めて大きい。とりわけハリウッド映画は、国家的なメディアであり、その動向を注意して見ていれば、いま国益として何が求められているかがわかるほどである。
 しかも、ハリウッド映画はトランスナショナルなメディアであり、日本だけでなく他の国々でも、外国映画のなかでアメリカ映画が占める率は非常に大きいため、ハリウッド映画は世界中の人びとの文化・社会的な側面を左右する力をもっているといってよい。
 直接的な効果という点では、日本の場合はとくに、映画よりもテレビの方が影響力があるように見える。ロードショウに先立ってテレビで上映されるヴィデオ・クリップの出来ぐあいが映画の観客動員数を決定することも事実である。しかし、日本のテレビは依然として、ハリウッド映画の〈端末〉にすぎないようなところがある。
 現に、テレビのディレクターやカメラマン、CMの製作者たちのなかには、自分が見たアメリカ映画のショットを模倣するのをこのうえない喜びとしている人たちがいる。これは、日本映画の場合もそうだった。同時代の日米の映画を比べてみると、アメリカ映画の影響がいかに大きいかがわかるだろう。
 その結果は日本社会のアメリカ化、いやハリウッド化である。いつの日かアメリカが滅んだとき、アメリカの平均的文化を研究するには日本社会をリサーチすればよいというようなことになるかもしれない。
 近年、アメリカ映画のなかに、人間と共存する異星人やロボットが登場する傾向が顕著だ。ハリウッド映画が一つの国民教育機関だとすると、ひょっとしてCIAや米軍は、噂の通り、異星人とすでに交流しており、その秘密を公開するに先立って宇宙人と人間との宥和を暗に勧める国民教育をほどこすために、E・Tものをハリウッドに作らせているのかもしれない。まあ、これは冗談だとしても、アメリカ人の一般的意識のなかには異星人がいま目の前に出現しても夢とは思わないくらいある種の異星人幻想が広がっていることはたしかである。
 ジョン・バダム監督の『ショート・サーキット』におもしろいシーンがあった。それは、もともと軍事用に作られた人間以上の頭脳を持つロボットが自由意志を獲得して実験工場から逃げ出し、一人の若い娘ステファニーの家に逃げ込むときの一シーンなのだが、彼女はいきなり自分の眼前に出現したロボットを見て、これを一瞬E・Tだと思い、ロボットに向かってよくぞ自分を選んでくれたと感謝の言葉を述べるのである。
 それはすぐ錯覚であることがわかるのだが、彼女はやがてこのロボットを愛しはじめる。結果的にこの映画は、人間以上に繊細な感情をもったロボットがいるということを印象づけ、ロボット社会が到来してもわれわれがショックを受けないための予備教育をほどこす。
 この映画には、ロボットに代理戦争をやらせようとする−−ロボットよりもはるかに−−一次元的な理性の持主たちが登場するので、こんな人間よりもロボットとつきあう方がましだという気になることもたしかである。
 しかし、そのようなロボットがまだわれわれの身のまわりに存在していない状況では、この種の発想は、いまだ自己の投影物としての性格が強い電子機械を人間的な他者とみなし、決して本当の他者の世界に入って行かない孤立的な人間観をカモフラージュする役割しか果たさない。現に、ステファニーは、ロボットに会ってから、自分の恋人がアホに見えてしかたがない。
 映画のなかではロボットがそれだけこれは、〈人間的〉だからということになるのだが、現実には、少し複雑なドラム・マシーンを生身のドラマーと思い違うことと同じなのだ。それは決して他者ではなく、あくまでも拡張された自己なのである。だから、『ショート・サーキット』のような映画は、チンパンジー映画と同じで、その基本姿勢はひどく差別的なのだ。それは、必ずどこかに欠陥をもっており、その点が笑いを誘う構造になっている。ロボットはフリークなのであり、たとえば『エレクトリック・ドリーム』で女性にはかない恋をするコンピュータは、さしづめ「ノートルダムのせむし男」なのである。
 しかし、『ショート・サーキット』には、動物、子供、フリークなどを主人公にした映画がしばしばもっている批判的な機能を見出すこともできる。それは、ステファニーの家でそこにある辞書や百科事典をものすごいスピードで読みとり、その情報をたちまちインプットしてしまったり、テレビを見ているうちにCMの口調やメロドラマの台詞を自分のメモリー装置にプログラムしてしまい、次の瞬間からしゃべり方が辞書的になったり、CM調になったりするところだ。これは、ロボットの問題ではなく、むしろわれわれ自身の問題である。
 テレビのCMは、日本だけでなく、アメリカでも日常言語に大きな影響を与えている。ニュース・キャスターの態度は、すぐ感染して広まる。テレビはまさに鏡である。人は、テレビに自分を映すのではなくて、テレビに映るものを自分だと思い込むのである。
 それにしても、映画に出てくるロボットはなぜどれもこれも人間の形をした機械なのだろうか? 人間と全く違った形をしていてもよいはずだし、人間そっくりでもよいはずだ。人間の知能に匹敵する人工知能をもつロボットが作れるのなら、人間の皮膚を作ることなど造作もないことであるはずだ。ところが人間そっくりのロボットが登場することは少ない。『ブレードランナー』ですら、外見は人間そっくりだが、破壊されると、体内からはメカの部品が見えるのである。
 異星人の場合にも、その怪物的な外観を強調する映画が多い。トビー・フーパー監督の『スペースインベーダー』(一九八六)では、そのあまりにちゃちでこけおどしのメーキャップに失笑してしまったが、一点だけこの映画がおもしろいと思う個所があった。それは、幼い主人公デイヴィッドが、残虐でグロテスクな宇宙人の手先になってしまった両親を見捨てるシーンだ。
 この映画では、今日のアメリカ映画ではめずらしく両親のそろっている家庭が登場すると思ったら、この両親はあっさりと宇宙人に洗脳され、宇宙人の地球征服を手伝うのである。なるほど、レーガン体制下では、両親よりも国家(この場合は地球)の方が大切なのであり、もし自分の国を侵略する者がいたら、たとえ親を敵に回してでも戦うべきことをこの映画は暗に説いている。
 もっとも、幼年時代に大抵一度は両親の離婚を経験しているアメリカの子どもたちにとって、親は、まず最初に信じられなくなる存在かもしれない。こうして幼年時代に傷痕となった人間不信は、どこかでロボット志向を促しているのだろう。自分を裏切るかもしれぬ人間よりも、決して自分を裏切らないロボットの方がよいというわけだ。それは、一面ではその通りかもしれない。現に、コンピュータ・ハッカーたちは、人よりもコンピュータを信ずるが、組織の手先になることからはまぬがれている。
 いずれにしても、大きな変貌を遂げつつあるアメリカの家族制度とロボット/コンピュータ/宇宙人志向のあいだには、たしかに密接な関係がある。そこでは生身の人間よりもヴィデオ映像や人工的なものの方が説得力があるから、これまでの形態での教育は当然ながら破算せざるをえないのである。
[ショート・サーキット]監督=ジョン・バダム/脚本=S・S・ウィルソン、ブレント・マドック/出演=アリー・シーディ、スティーヴ・グッテンバーグ他/86年米[スペースインベーダー]監督=トビー・フーパー/脚本=ダン・オバノン、ドン・ジャコビー/出演=カレン・ブラック、ティモシー・ボトムズ他/86年米


赤ちゃんに乾杯!
 コリーヌ・セロー監督の『赤ちゃんに乾杯!』を見ながら、女性の家事労働の問題について考えた。
 この映画は、過去二十年間にフランスで封切られたフランス映画はもとより、フランスに輸入されてヒットした『E?MT?M』や『ランボー/怒りの脱出』を大きく超える観客を短期間に動員したという。が、その内容は一見してそれほど目新しいとは思えない。日本でこの映画がフランスのような「空前の大ヒット」を生むことはありえないだろう。しかし、ある映画が当たるか当たらないかは、それが上映される社会の諸条件によって左右される。アメリカでヒットしたからといってフランスでもヒットするとはかぎらない。ロバート・アルトマンのように、アメリカの監督でありながらアメリカではいつも冷遇されがちな監督もいる。逆に、『コミック雑誌なんかいらない!』の反響は、日本よりもニューヨークでの方がはるかに大きかった。
 フランスで『赤ちゃんに乾杯!』がヒットしたのは、すでにこの十数年間にフランスでは〈女性の自立〉や女性にまかされてきた家事労働の問題が日常生活の具体的な場で問題にされ、家事労働の分担や性関係が急速に変わってきたからである。これは、アメリカではもう少し早くから起きている変化であり、おそらくアメリカではこの映画はフランスほど強烈な受けとめられ方はしないだろう。もっとも、いまアメリカでは数年まえから一種のベビー・ブームであり、そのためこの映画が子育ての映画として歓迎される可能性はある。
 しかし、日本のように、「主夫」などという言葉は一部で生まれはしたものの、男性至上主義(マチズモ)が圧倒的に強く、女性と〈適齢期の結婚〉、家事労働、子育てなどが依然セットになる傾向の強い(テレビの女性キャスターがふえたぐらいでだまされてはならない)社会と比較すると『赤ちゃんに乾杯!』で描かれている世界は確実に一歩進んでいる。
 映画はまずアパートのくだけたパーティのシーンから始まる。音楽は五〇年代のジャズ(いまパリでもはやっているのだろうか)。やがてパーティは終わり、このアパートが三人の男性(ピエール、ミッシェル、ジャック)の共同スペースになっていることがわかる。パリも最近は住宅難で、住み心地のよいアパートに住もうと思ったら何人かで共同出資するしかない。ピエールは画家であり、ミッシェルはマンガ家、ジャックはスチュワードで、みなそれぞれに忙しい生活を送っている。
 事件は、ジャックが仕事でアジアに飛んだあとで起こった。ジャックのガールフレンドのシルビアという女性が、彼と彼女とのあいだに生まれた赤ん坊をこっそりこのアパートに置いていったのだ。赤ん坊の入っていたカゴには「マリー」という名札が付いている。マリーは乳をほしがって泣き出す。赤ん坊を育てた経験のないピエールとミッシェルはただあわてふためくばかり。
 その日から、ジャックが三週間後に戻るまで二人の悪戦苦闘が続く。女性監督のコリーヌ・セローは、ここで、男性がいかに育児のことを知らないかをこれでもかと言わんばかりに強調する。これまで女性は、それを当然の義務ででもあるかのようにやらされてきたのだが、このくだりは、その不条理さをユーモラスに異化する。しかし、ジャックが帰ってきたころには、二人は育児の技術をマスターしており、はじめは仕事ができないうえに、夜も眠られないとじゃまにしていたマリーのとりこになっている。だから、ジャックが責任を感じて、ベビー・シッターを雇うと、ピエールはその中年女性に育児の議論をふっかけて怒らせ、首尾よく追い返してしまう。ジャックもやがてマリーのために地上勤務を志願して育児に専念する。
 おもしろいのは、三人が育児を始めてから、以前からの友人関係にも決定的な変化が起きてしまう点だ。彼らは、もともと、ヤッピー的な優雅な生活を楽しんでいた。週末にはしばしば、友人たちを呼んでうまいワインと料理、気どった服装とスノッブ的なおしゃべりを楽しんでいた。ところが、そんなパーティと育児は両立しないし、結局は自分のことしか関心のないヤッピーたちの会話の最中にも、三人は別室で寝かされているマリーのことが気になってしまう。
 このあたり、それまであたりまえだと思われていた世界が、いかに生活−−とりわけ女性の家事労働−−の犠牲によってささえられてきたかをさりげなく示唆している。
 そのため、六カ月後に、シルビアがアパートに現われて、「何とか自分で育ててみる」と言ってマリーを連れて行った後、三人は全く仕事が手に付かなくなる。しかし、結局のところ、ファッション・モデルの仕事と育児は両立せず、しばらくしてシルビアは、すっかり疲れ切った姿でマリーを乳母車に乗せて三人のもとへやってくる。彼らが狂喜したことは言うまでもない。
 まあ、ストーリーだけを紹介すると、フランス版〈主夫のすすめ〉のように見えるかもしれないが、重要なのは、この映画の最後のシーンにこめられたコリーヌ・セローの暗示だろう。モデルの仕事が続くなかでマリーの世話をしなくてはならなかったシルビアは、三人に彼女をあずけると、いつのまにか大きな乳母車のなかで眠ってしまう。映画は、説明を一切行なわずにいきなり、シルビアが乳母車のなかでスヤスヤ眠っている寝顔を写して終わるのだが、それを見て、わたしは、イタリアのフェミニストのマリアローザ・ダラ・コスタが書いている「労働の拒否」(この概念はもともとは彼女の師のアントニオ・ネグリからきている)のことを思い出した。
 ダラ・コスタによると、七〇年代のイタリア社会を大きく変えたものは、子供を産む女性数の低下と家庭外労働に就く女性数の激増であるが、そこには女性たちによる家事労働の拒否と、家庭外の労働を含む一切の労働を潜在的に拒否して行く動きが見出せるという。女性たちは、「愛情」、「女性らしさ」、「母性本能」などの名のもとに、家事、セックス、出産、育児などの無償労働を(単に夫や家族に対してではなく、結局は支配システムに対して)提供し、システムの方は彼女らのこうしたタダ働き(イヴァン・イリイチはこれを「シャドウ・ワーク」と呼んだ)によって生き延びてきた。もうそんな勝手なことは許さないというのがダラ・コスタの主張であるが、子供を産むのをやめたり、家庭外に仕事を求めて出て行く女性たちの選択のなかにはそうした主張が潜在しており、従って彼女らが、さらに家庭外の職場で直面する搾取を拒絶して行くならば、支配システムは根底から変わらざるをえないというわけである。
『赤ちゃんに乾杯!』は、それを最初のほうから見れば、男の物語にすぎないが、これを最後のほうから遡及的に見ると、シルビアという、両親と絶縁し、自分の力だけで生きている一人の女性が、女性として強制されてきた一切の労働を拒否することに成功した物語になるのである。
 ただ残念ながら、この映画は、女性たちが仕向けられてきた家事や育児の労働が、単に男性によってではなく、政治や経済のシステムそのものによって強制されているという点の突っこみが不十分だ。そのため、この映画は結局のところ、男性にも〈女性的なもの〉が宿っており、男と女はそうした部分を発見しあいながら仲よくやって行きましょう、というような話になってしまっている。もっとも、そこまでハードに状況を突きつめていたら、この映画は空前のヒットをとばすことは決してできなかったろう。
監督・脚本=コリーヌ・セロー/出演=ローラン・ジロー、ミシェル・ブージュノー他/85年仏


ガルボトーク/天使の失踪
『ガルボトーク』とか『天使の失踪』というような映画を見ると、日本社会ではどうしていつも国家が社会の前面にのさばり出ているのだろうということを考えざるをえない。
 アメリカだけでなくて、ヨーロッパやアジアの諸社会を見わたしてみても、日本ほど国家、社会、民族、土地があたかも一体のものであるかのごとく互いに癒着しているところはめずらしい。
 これがもともとそうだったなどと言うつもりはない。日本に国家と社会とがもっと分離していた時代はあった。国家は、明治期に社会全体を統合しはじめた。しかし、その後も、高度経済成長の前期ぐらいまでは国家のわくからはずれた〈うさんくさい〉社会が残っていた。その逆に日本の外の社会(〈外国〉という言い方はすでに国家の側のものだ)でも、近年は、国家の介入が強まっている。それは、メディアや都市を通じてのソフトな国家管理が高度化したためだ。テリー・ギリアム監督の『未来世紀ブラジル』は、そんな管理がさらに高度化した社会の恐怖を描いた傑作である。ここでは、一九三〇年代にヒットしたザビア・クガートのヒット曲「ブラジル」のメロディだけに社会の自由を回顧させる。
 しかし、程度の差から言えば、日本の外の社会はまだまだ国家からの自由を保持している。社会は国家に対立するものとしてあり、容易には国家の言いなりにはならない。そして、それだからこそ、『未来世紀ブラジル』のような映画が作られ、日本では決してそういうものは作られないのである。
 シドニー・ルメット監督の『ガルボトーク』を見終わってロビーに出たら、試写を見た人が「どうしようもないね」と連れの女性に言った。わたしは、はたでそれを聞いて意外に思った。久しぶりに、一時代まえの典型的なニューヨークっ子に出会った気持でわたしはこの映画を見たからである。
 たしかに、脳腫瘍にかかった映画好きの母親が、息子の涙ぐましい努力で夢にまで見たあこがれのグレタ・ガルボに会い、満足してこの世を去って行くという話は、出来すぎているといえば言える。つねに後姿や遠方からのショットで「グレタ・ガルボ」のイミテーションが登場するというのも、ガルボ・ファンには許せないことだろう。ガルボは、もう四十年以上、映画のスクリーンには登場していないし、ニューヨークに住む彼女の姿を街角で見かけるということは実にラッキーなことだと考えられている。ガルボは、いまや都市の神話の人なのである。
 しかし、ガルボの話は、この映画では所詮エピソードにすぎないのであって、重要なのはアン・バンクロフトが演ずるくせの強い一人の女性ではないのか? 彼女は、徹底した市民主義者であり、大手のスーパーが無断でキュウリを六十四セント値上げしたというので、六十四セント分の商品をその店から盗んで警察につかまる。これは一九七〇年代のイタリアでよく行なわれた〈自主価格切り下げ運動〉を思わせる。商品も社会的サービスの役目をもたざるをえないのであって、勝手に店を閉めたり、値上げしたりすることはできなくなるわけだ。
 国家などない方がよいとしても、現に国家が存在する状況では、どうしようもない国家とましな国家が存在する。前者は、社会の隅々から個々人の無意識の中にまで国家管理の網の目を張りめぐらせるような国家であり、サミット期間中に都市とメディアを戒厳令状態に置くような国家である。後者は、国家をサービス機関とみなすような国家であるが、むろん、それを全面的に実現している国などない。そうした面を比較的多くもっている国があるだけだ。
 スタンリー・ジャフィー監督の『天使の失踪』は、やはりニューヨークを舞台にした幼児誘拐の話だが、ここに出てくる警察と市民の関係は、抑圧する国家対市民の関係にはなっていない。それは、この映画が警察の宣伝映画だからではなくて、依然としてアメリカの警察にはそうした側面が残っているからである。ちなみに日本でも、警視庁と県警とをくらべれば、後者の方が、そうした側面を伸ばせる可能性をもつ。
 結局、問題は、地域社会や個人に重きを置くか、それとも、それらを平均化し、統合した「全体」としての国家に重きを置くかのいずれかである。ニューヨーク市では、つい最近まで市警で働く警官は市の出身者から採用することという決まりがあった。だから、警官は同じいばるのでも、国の権威よりも市の権威をかさに着ていばるのである。
 国家の管理が強い社会では「国民」はどうしても「甘えっ子」になってしまう。国家は何にでも世話を焼くので、「国民」は自分で考え、自分で行動する力を失ってしまうのだ。これは、家庭における親、学校における教師の場合にも言えることだ。
『ガルボトーク』のエステル(アン・バンクロフト)は、人の世話になるのを極度に嫌う女性だが、こういうタイプの人間が日本社会で生きるのは大変だろう。もっとも、この映画では、この女性はニューヨークというアメリカでは最も脱国家的な社会においてすら、生きるのが楽ではない。しょっちゅうトラブルを起こしており、夫ともとっくに離婚してしまった。
 彼女のエピソードを中年の息子が回想するシーンがある。彼女は、彼が小学校時代に遠足でスト中の工場を見学すると聞いて大いに怒り、遠足に行くのを許さなかった。彼女は、別に左翼だったわけではないが、戦前に生まれたニューヨーカーにとっては、職場の権利を労働者がストで守るということは当然のことだった。だから、それを無視するようなことは許されないのであり、組合のない職場も考えられないのである。脳腫瘍が悪化して入院しなければならなくなったときも、彼女は、息子が「コリー・ヒル病院」をすすめると、「あそこの栄養士は非組合員だから」と言って、別の病院にする。
『天使の失踪』の場合にも、自立心の強い女性が事実上の主人公だ。彼女は、忽然と消えてしまった幼いわが子を独力で捜そうとする。この映画がおもしろいのは、地域社会が意外に(日本から見るとニューヨークでは人はみなバラバラに生きているように見える)強い結びつきをもっていることだ。警察が見放したあとでも、捜索の努力を続けたのは子供のクラス・メイトの親たちだった。彼や彼女らはポスターを作り、近所に配って歩き、小学校で集会を開いて対策を練る。
 ただし、この映画は、ケイト・ネリガン演ずる女性大学講師−−子供を誘拐された母親−−の方に焦点が当てられすぎていて、最後に捕まる誘拐者への突っ込みが足りない気がする。誘拐したのは老人の兄妹で、二人はコネチカットのあばら屋に子供をかくまっていた。アメリカでは、こういうケースもかなりある。身寄りのない老人が幼い子供を誘拐して自分の子どもにしてしまう。その場合、誘拐者は、地域社会から孤立した生活を送っていることが多い。子供がいても、すでに成人となって寄りつかない。淋しい生活は、彼や彼女を自分たちの子供の幼年時代の思い出に連れて行く。そしてある日、街角で目をつけた子供を自分の車に乗せて拉致してしまう。
 国家の論理からすれば、犯罪は犯罪なのだが、社会の側からすると、まず第一に地域社会のレベルに対立や孤立があり、それが犯罪につながっている。国家が市民サービスの機関であるならば、国家は社会内の矛盾を調停したり、社会から孤立する者に手を差しのべることを優先しなければならない。しかしながら、国家は、いつも地域を否定することによって成り立っている。これが国家のディレンマである。
[ガルボトーク]監督=シドニー・ルメット/脚本=ラリー・グルーシン/出演=アン・バンクロフト、ロン・シルバー他/84年米[天使の失踪]監督=スタンリー・R・ジャフィー/ケイト・ネリガン、ジャド・ハーシュ他/83年米


エイリアン2/心みだれて/女たちのテーブル/シュガーベイビー
 一九六〇年代の後半に「アメリカン・ニューシネマ」が登場したとき、それまでの映画的文法が片っぱしから壊されて行くのに大変すがすがしい印象をおぼえた。そこでは「犯罪者」は最後に殺されるとしても、その死はそれまでの映画のように必ずしも正当化されなくなった。また、それまでつねに「悪」の象徴だったもの(たとえばインディアン)は、逆に聖化されるようになった。たしかに、そのような映画が出てきても不思議ではない時代の転換期だった。
 しかし、こうした逆転が次第に一つのパターンになるにつれて、わたしは少しうんざりしてきた。これは、権威主義の裏がえしではないのかと思いはじめたのである。さいわい、「アメリカン・ニューシネマ」は、一九七〇年代の後半までに姿を消し、代わってニューヨークを舞台とした都市映画が台頭してきた。
 いまここで、そんなアメリカ映画の傾向史をたどる気はないが、最近の映画が女性をとらえるやり方を見るにつけ、「アメリカン・ニューシネマ」のことを思い出したのである。アメリカ映画にかぎらず、ヨーロッパ映画も、最近は、必ず女性を立てて、男性をこけにする。それが少しパターン化しすぎてはいないかと思うのである。
 わたしはフェミニズムを支持するし、男はもっと批判されてしかるべきだと思っている。とりわけ、日本のようにまだまだ女が男を意識してものを言わなければならないような国では、もっともっと女が強くなってよいと思う。
 しかし、女が強くなるということは、女と男の関係が逆転することではないだろう。それでは、当面は批判としての効果はあるとしても、女性差別のもとにある問題は少しも解決されはしないのだ。
 ジェイムズ・キャメロン監督の『エイリアン2』は、まさに女関係をただ逆転したにすぎないような映画である。最初この映画の広告写真で、勇ましい表情の人物が大きな火炎放射銃をかまえながら一人の幼い女の子をだきかかえているのを見たとき、わたしは一瞬、この人物は男だと思った。むろんそれは、リプリーという女性を演じるシガーニー・ウィーバーなのだが、実際にこの映画では彼女は、これまでのアクション映画で男が演じてきた役を演じている。
 ここでは、登場する男は全部いくじなしだったり、ずるかったりで、見栄えのする所はほとんどない。一人だけ、勇敢にエイリアンと闘う誠実な男が登場するが、それは何と、人間そっくりのアンドロイドなのである。これは、全く皮肉である。人間の男は、すべてアンドロイド以下なのだから。
 この映画は、かなりヒットしたようだが、それは、近年のフェミニズム的発想を形だけまねることによって、まがいの新しさを生み出しているからである。この映画のクライマックスではっきりするように、リプリーが壮絶な対決をするエイリアンの「女王」は、まさに女王蜂のように、エイリアンの卵を次々に生むことにあけくれている。つまり、この映画は、母親としての女を女が否定する話でもある。
 しかし、この一見ラディカルなフェミニズムの体裁をとっている部分が、逆に極めて反動的なのは、《母親=女性》の否定がいささかも女性差別を打ちくだくことには決してつながってはいかないからである。むしろその逆に、女性は《母親=女性》を否定することによって男性になってしまうのである。
 ラディカルなフェミニズムが結婚、出産、さらには男への性的サービスを拒否したのは、それらが、男性によって代表されている生産力社会を批判し、否定するためだった。女性は男にとっての女(とりわけ母親)となることによって不当な生産労働を強いられるのであり、それによって、労働と生産を至上のものとするシステムを支えているのである。
 問題は、単に性差ではなくて、労働や生産なのだから、『エイリアン2』がいくら母親としての女性を否定してみたところで、男以上にたくましく働いてしまうのでは、フェミニズムの最良の部分が提起した問題はいささかも解決されはしないのである。
 この点では、マイク・ニコルズがノラ・エフロンの原作を映画化した『心みだれて』も大同小異である。男(ジャック・ニコルソン)は、はじめは愛と力と尊敬の対象として現われるが、やがてそれはこなごなにくずれてしまう。そして女(メリル・ストリープ)は、「もう男なんか相手にしない」という固い決意をいだいて、男とのあいだに生まれた二人の子供の世話と自分の仕事(料理評論)に独力で専念しようとするのである。しかし、これでは、労働と生産の社会は男がいなくても女だけで守れると言っているにすぎないではないか。
 ヨーロッパ映画は、この点では、もう少しましなような気がする。 '86イタリア映画祭で上映されたマリオ・モニチェッリ監督の『女たちのテーブル』は、その題名からして、男は全部コケにされるなということを初めから暗示している。舞台は、トスカーナ地方の田舎の館。そこに、エレーナという五十代の女性(リブ・ウルマン)を中心に、二十代の娘フランカ、幼い姪、家政婦の母娘、ボケが少しきているグーゴ伯父の六人が共同生活をしている。
 最初、この館にやってくるのは、エレーナと別居して若い女と暮らしている夫だが、借金に首がまわらなくなって金を借りにきた彼は、さんざんその無力さをさらしたのち、つまらぬ事故で死んでしまう。
 フランカは、方言の学者と結婚するつもりで館を出て行くが、やがて男への失望を口走りながら館に戻ってくる。
 娘をエレーナにあずけていて、ときどき館にやってくる女優のクラウディア(カトリーヌ・ドヌーブ)がつきあっている映画監督も、妻子との関係を精算できなくてクラウディアに愛想をつかされる。
 終始エレーナとそのファミリーに好意を寄せ、一度はエレーナと結ばれそうになるナルドーニ(ジュリアーノ・ジェンマ)も、最後にはその打算が暴露される。
『女たちのテーブル』の最終シーンは、いったんは館を売り払ってローマに引っ越そうと決意したエレーナが、彼女のまわりに再結集した−−いずれも男に失望した−−女たちとともに新たな共同生活をするらしいことを暗示する。その際、『エイリアン2』や『心みだれて』との決定的な違いは、彼女らが男性たち、あるいは男によって代表される制度とは別の世界を作り出しつつある点だろう。それは、労働と生産を至上のものとする世界ではなくて、おしゃべりをしたり、いっしょに料理を作ったりするゆるやかな連帯のなかで生まれる自由な場である。そこでは男は必ずしも排除されるわけではなく、実際に、この館の唯一の男性であるグーゴ伯父は、女たちのかたわらで馬にはかせる巨大なソックスを編んでいる。
 ペルシー・アドロン監督の西独映画『シュガーベイビー』は、フェミニズム的なテーマを表に出した映画ではないが、この映画の主人公マリアンネ(マリアンネ・ゼーゲブレヒト)の姿勢はちょっとおもしろい。
 彼女は、いかにも男好きしそうな感じの女性として登場し、突然変身する。彼女は葬儀社で死体を棺桶に入れたり、死体に化粧をほどこす仕事をしており、プールで泳ぐほかは友達もない孤独な毎日を送っている。が、通勤の地下鉄で横顔を見た若い地下鉄運転手に一目ぼれしてしまい、彼に近づこうとする。いったん思いたつと彼女の執念はすさまじく、葬儀社から長期の休暇を取ると、乗務員詰所にしのびこんでダイヤグラムを盗み出し、着々と彼との〈偶然的〉出会いを演出する。そして、入念な化粧をして、アパートのベッドも替え、魅力的な女に変身して彼の心をとらえることに成功する。
 このラブ・ロマンスは、最後に運転手の女房が彼を取りもどしにやってきて、マリアンネがさんざんなぐりつけられてしまうところで終わりを告げるが、最後のシーンで目のまわりにアザを作った彼女が、少しもわるびれずに地下鉄駅で人待ち顔に立っているところを見ると、彼女が、労働が当然のものとみなされている男の世界にも、それを補完する妻たちの世界にも背を向けて生きる決意をしていることには変わりがないだろう。マリアンネのような女が増えれば世界は大いに変わるに違いない。
[エイリアン2]監督・脚本=ジェイムズ・キャメロン/出演=シガーニー・ウィーバー、マイケル・ビーン他/86年米[心みだれて]監督=マイク・ニコルズ/脚本=ノラ・エフロン/出演=メリル・ストリープ、ジャック・ニコルソン他/86年米[女たちのテーブル]監督=マリオ・モニチェッリ/脚本=マリオ・モニチェッリ、トゥリオ・ピネッリ他/出演=リブ・ウルマン、カトリーヌ・ドヌーブ他/85年伊[シュガーベイビー]監督・脚本=ペルシー・アドロン/出演=マリアンネ・ゼーゲブレヒト、アイシ・グルプ他/84年西独


ロンリー・ブラッド/子供たちをよろしく
 日本を離れて他の国−−とりわけアメリカ合衆国−−へ行くと、家族制度というものが明らかに大きな変化を起こしつつあることを痛感する。それは、伝統的な家族の観点からすると「家族の崩壊」であるが、それだけにとどまらず、すでに新しい家族形態の始まりでもあるように思う。片親家族の激増、同性愛の結婚を法的に認めることを求める運動(ゲイ・マリッジ・ムーブメント)といった現象は、もはや特殊な人々の気まぐれとはみなせない。
 家族や家庭は、何千年も昔からあるとしても、それらの機能はその時代時代で変わってきた。その変化には、モノと情報を動かす技術の変様が大いに関わっているが、二〇世紀後半のその変様は、その意味では一九世紀末のそれをはるかに凌駕している。その際、社会にはそうした変化をますます昂進させていこうとする動きと、それをおしとどめようとする動きとが現われ、それらが、血みどろの抗争を演じることは避けられないわけで、そうした抗争は、今日では、たとえばゲイ・マリッジをめぐって行なわれている。
 社会、経済、政治等の体制には、有機細胞に似たところがあり、一種の「自己組織化」を行なう。だから、一見「否定的」に見える現象も、そうした体制の「自己組織化」現象の一環であることが少なくない。というよりも、そのようなものとして見ることによって、その現象の本当の意味が明らかになることが多いのである。
 ジェイムズ・フォーリー監督の『ロンリー・ブラッド』(一九八五)とマーティン・ベル監督の『子供たちをよろしく』(一九八三)は、見方によってまさにそうした両極面を示す作品である。
『ロンリー・ブラッド』は、映画の冒頭でも示されるように、一九七八年にペンシルバニアで実際に起こった事件を映画化している。この映画は、自分の商売(州にまたがる大規模な窃盗ビジネス)を守るためには自分の息子でも邪魔になれば殺そうとする父親(クリストファー・ウォーケン)を登場させている。かつて実際に起こったとはいえ、映画が終わればそれは自分の生活とは関係のない〈異常事〉の話として受けとられるだけかもしれないが、犯罪や殺人にまでエスカレートしなくても、この映画に出てくるような父子関係は今日のアメリカにはいくらでも存在する。
 ショーン・ペンが演じる息子ブラッドと父親とが再会するシーンがおもしろい。父親はブラッドが幼いうちに家族を捨てて出て行き、彼は弟とともに、母(ミリー・パーキンス)と祖母の手で育てられた。街(といっても田舎の小さな街だが)は彼の〈学校〉であり、街の広場でたむろし、カー・チェイス、喧嘩、ドラッグに明け暮れる若者たちの生活はブラッドの一つの青春生活になっている。
 ある日、ブラッドが家に一人でいるとき、年齢よりも若く見える男がやってきて、彼をなつかしそうに見た。男はブラッドに小遣いを与え、母のことをたずねて車で去って行った。
 このシーンだけを見ると、離婚や別居で家を出た父親が子どもに対していだくある種の〈罪責感〉と複雑な情愛、また父を慕いながら育った息子の、自分より〈偉大な〉存在としての父親をまのあたりにしたときの微妙な情感がひしひしと伝わって来て、フォリーの演出もウォーケンとペンの演技もなかなか見事だと思うのだが、その後の展開は、そうしたセンチメンタルなレベルとは逆になる。優しくてカッコよさそうに見えた父親が、次第にその「非情さ」を暴露して行くのである。
 しかし、この映画を二度見ると、このストーリーないしは事件のなかに潜むもっと〈宿命的〉な要素がみてとれる。つまり、父親は、「非情」であったから息子を殺そうとしたのではなくて、自分の組織を守ろうとするしがらみのなかで追いつめられて行き、仕舞いには息子とその恋人にまで手を下そうとするはめに陥るのだ。
 話の前半で父親は、息子に高価なスポーツ・カーや金を気前よく与えるが、それは、息子を自分の窃盗組織に引き入れるための手練手管ではなかったと思う。実際に、この〈商売〉に関心をもち、組織に入ることを望んだのは息子の方だったし、父の警告(「トラクターどろぼうはもうあぶない」)を無視して、勝手に仲間と地域の農家にしのびこんでトラクターを盗もうとしてつかまってしまい、父の組織を危険に陥し入れたのは息子の方だった。父親の組織犯罪の証拠を見つけることができないでいた警察は、息子の口を割らせることにやっきとなり、父は、そこからすべてが明るみに出ることを恐れたからである。
 このあたりは、ロベール・ブレッソンがトルストイの小説『にせ利札』(中村白葉訳)を映画化した『ラルジャン』(一九八三)を思わせる。この映画では、父親に小遣いをせびって断られた少年が友人からもらったニセ札を使ったために、そのとばっちりで罪を着せられたタンクローリー運転手が逮捕され、不幸な運命をたどって殺人まで犯してしまうのである。つまり、金や資本が人を変え、それまで安泰だった関係を解体するのである。
 その意味では、「親子の断絶」も「家族の崩壊」も、資本の回路の変様であるとも言える。「非情」なのは人間ではなくて資本であり、金である。そしていま、とりわけアメリカではこの資本の回路−−モノ優先の回路から情報優先の回路に−−がドラスティックに変わりつつあり、その変化がこうした社会現象として露出するのである。
 しかし、こんな言い方では、この変化のただなかにいる者は満足できない。それは当然のことであり、現にかくいうわたし自身、このプロセスから自由でいるわけではなく、その被害者の一人である。だから、このプロセスを抗しがたい〈宿命〉として受けとるのでないとすれば、このプロセスのなかに何か積極的なものを見出すのでなければならないだろう。『ロンリー・ブラッド』の救いようのない世界にも一つの積極性はある。それは、父、母、子が同じ家に住むような家族形態はもう終わりだし、子どもにとって親が何か道徳的な規範を提示できた時代は終わったということを暴露している点である。たとえ、現実がそれほどひどくはないとしても、そう考えるならば従来とは全く異なる生き方や家族関係が生まれざるをえないだろう。
 いま、そういう角度から『子供たちをよろしく』を見ると、この映画の原題が『ストリートワイズ』となっていることの積極性が明らかになるように思う。この映画は、監督のマーティン・ベルの夫人である写真家のメリー・エレン・マークが『ライフ』のためにシアトルのストリート・キッズたちの写真を撮ったことがきっかけとなって作られた。その写真は、家出をして安ホテルや空家に寝泊りし、金がなくなると売春や窃盗にも手を出すような少年少女たち(全米にはそうした「ホームレス・ユース」たちが百万人以上もいる)のストリート・ライフを撮影し、大きな反響を呼んだ。
 いわばその映画版とも言うべきこの映画は、実際にそうした生活をしている九人の少年少女たちのショッキングな生活(主として街路での)をドキュメントしているので、その印象は、こうした少年少女たちを生み出している家族制度や、彼や彼女を救えない体制への疑問と批判を提示することが映画の主題であるかのように見える。
 しかし、この映画はそれ以上の積極性をもっている。彼や彼女らが、親や社会のロクな庇護も受けずに、あの最悪の条件のなかでいかにしたたかに、生き生きと生活しているかを見るならば、この映画は、家族やおざなりの社会福祉などなくても可能な生き方の方向を示唆していることがわかるからである。また、実際にそうみた方が、彼や彼女をとりまく社会的現実への批判としても具体性をもつ。
 邦題は、映画のなかで歌われる詩の一節から『子供たちをよろしく』となっているが、原題の『ストリートワイズ』とは、街路で生きるしたたかな知恵、そういう知恵を身に着けた人といった意味で、邦題よりもはるかに積極性をもっている。
 現在の社会傾向がこのまま進むならば、「家族愛」ではなく「ストリートワイズ」こそが社会的エートスとならざるをえないのはたしかなのだ。
[ロンリー・ブラッド]監督=ジェイムズ・フォーリー/脚本=ニコラス・カザン/出演=ショーン・ペン、クリストファー・ウォーケン他/85年米[子供たちをよろしく]監督=マーティン・ベル/83年米


ザ・フライ/燃えつきるまで
 アメリカ映画の楽天主義についてはくりかえし言及した。周知のように、アメリカ映画にはハッピー・エンディングのシーンが実に多い。こんなに楽天的でよいものだろうか、と思わせる結末が極度に多いのだ。
 しかし、だからといってアメリカの観客を単純視するのはあたるまい。一九八〇年にレーガンが大統領になった時、アメリカ人の知人は、「あんな人物が大統領に就任するなんて信じられない」と言った後で、「でも大統領の口から暗い話は聞きたくないものね」と言った。現実が悲観的であるからこそ、夢やハッピー・エンドがほしいというわけである。
 こう考えると、毎回判で押したようにハッピーな終わり方をするアメリカ映画は、むしろ恐ろしいほどのペシミズムを隠していることになる。そこでは、観客の笑いは−−それが一見どんなに解放的にみえるとしても−−結局のところ自嘲であり、ドラマの円満な終結への安堵感は、現実がそれとは全く異なっているということへの極限的な絶望感なのだ。これは、(日本人がよくやるような)悲劇的な事態に直面して笑うのに似ている。
 こうした点は、他の文化圏に属する監督がアメリカ資本で映画を作るときにしばしば問題を起こす。アメリカの映画資本家−−とりわけハリウッドのそれ−−は、依然としてハッピー・エンドの大衆神話を信じている。そのため、悲劇的な結末の映画の最終場面が、ときには資本家の圧力でハッピーなものに差し変えられるということも起こる。
 カナダの監督デイヴィッド・クロネンバークがアメリカで作った『ザ・フライ』の結末には、明らかにこうした手かげんが加えられているように見える。話のなり行きからすると最終シーンで、怪物と化した主人公(ジェフ・ゴールドブルーム)が恋人(ジーナ・デイビス)と一緒に物質転送装置のカプセルに入り、両者が新しい合体生物になってしまう方が自然だった。遺伝子を自由に操作してしまう装置を発明した主人公からその恋人を奪いかえすことが人間としての義務であるかのような決意で乗り込んでくる男(実は、この女性の元の恋人)が最終シーンで出てこなくてもよかったのであり、クロネンバークの旧作『ビデオドローム』や『スキャナーズ』の流儀からすると、変質した人間は決して否定されないはずなのである。
 もっとも、この映画の結末を通常の意味でのハッピー・エンドとみなすのは無理であり、どんなにハリウッド化されてもクロネンバークの毒はしたたかに生き残っている。つまり、恋人を物質転送装置のカプセルに引きずり込もうとする主人公を阻止する男の手と足を溶かしてしまったあと、主人公は何とか物質転送装置を作動させるところにこぎつける。しかし、装置が作動して二人の体が融合されそうになる寸前に、男は重傷の体でライフルを撃ち、コンピューター回線を破壊する。そのため、女性は身体融合をまぬがれ、逆に主人公は一層グロテスクな怪物に変容してしまう。このとき、床の上のライフルをいったんは握りしめた女性が、主人公の姿のあまりのグロテスクさと、姿が変わったとはいえ自分が愛した人物であるという思いとから、引金を引けぬまま立ちつくしていると、主人公は、そのグロテスクな体で、自分を撃ってくれという合図をするのである。こうした結末は、純アメリカ映画にはなかなか現われないと言ってよい。
 #ギリアン・アームストロングの『燃えつきるまで』の場合、そのシリアスな結末は、アメリカでは客の入りの悪さという結果を招いた。この映画は、刑務所長夫人(ダイアン・キートン)が無実の殺人罪でとらわれている死刑囚(メル・ギブソン)を脱獄させ、逃避行を演じた末、追跡隊に追われて男とその弟を殺されるという今世紀はじめに実際にピッツバーグで起こった事件にもとづいているが、監督のアームストロングは、『わが青春の輝き』で名声を博したオーストラリアの女流監督である。
 アメリカでは、この映画の評判は非常に高かった。ポーリン・ケール、レックス・リードといった影響力のある(従って多くの場合有害な)メイジャーな評論家も絶賛し、『買Bレッジ・ヴォイス』も、「今年(一九八四年)最も豊かで、最も詩情あふれるラブ・ストーリー」とほめた。しかし、こうした評価とは裏はらに客の入りはよくなかったのである。
 大きな興行の場合、映画でも演劇でも、また講演や他のショウでも、客の入りは必ずしも観客一人ひとりの判断にもとづかないことが多い。本のベストセラーの場合もそうだが客の大半は、かなり衝動的に行動する。また、観客の一人ひとりが見たいと思っても、問題の映画がその土地で上映されないということも起こりうる。だから、全国各地の映画館で上映されても当たらない映画というものがあると同時に、もっと多くの映画館で上映されたならばもっと多くの観客を動員できたかもしれないような映画もあるわけだ。?囈Rえつきるまで?宸ヘ、まさにそのたぐいの映画であろう。
 ある意味では、アメリカ映画の〈ハッピー・エンド度〉というものは、監督の異邦人性に反比例している。クロネンバークやアームストロングはアメリカ人ではないということによって非ハッピーエンディングの映画に傾く。『未来世紀ブラジル』のテリー・ギリアムも同様である。これに対して、アメリカ生まれのアメリカ育ちであるスティーブン・スピルバーグは、ヨーロッパや日本の映画から多くの影響を受けながらも、つねにハッピーエンドで終わる映画を作る。
 この構図は、実のところ、一九三〇年代以来少しも変わっていない。一九四〇〜五〇年代のハリウッド映画のエンディングをにがみのあるタッチで終わらせるのを好んだ監督は、ヒッチコックにしてもフォン・スタンバーグにしてもみな外国から来た映画人だった。
 ところでスター・システムをとっているアメリカ映画では、製作費の三分の一以上が主演俳優の出演料にまわる。このため、主演俳優の力は大きく、彼や彼女らの意見で脚本の内容が変わることもまれではない。主演俳優が脚本に注目したために出来上がった作品も数多くあり、『ディア・ハンター』はロバート・デ・ニーロが、『刑事ジョン・ブック/目撃者』はハリソン・フォードが、望んだために作られた。『燃えつきるまで』の場合も、一九〇一年に実際に起きた事件の映画化に最も積極的だったのはダイアン・キートンであり、ジュリアン・アームストロングを起用したのも彼女であった。
 ダイアン・キートンやメリル・ストリープの場合、明らかに彼女らはフェミニズム的内容の映画製作に強い関心を示している。『燃えつきるまで』においても主役は刑務所長夫人であり、この映画の最もアクチュアルな部分をささえているのは、無実の罪を着せられた青年が脱獄・逃亡することでなくて、家父長的な夫と家事労働に従っていた一人の女が、その青年との出会いのなかで古い制度を越え抜けて行くところである。
 これまで、もっぱら外からの空気によってしかハッピー・エンドの神話を壊すことのできなかったアメリカ映画は、フェミニズムの意識を吸収した女優たちの出現によって、ヨーロッパ映画ではあたりまえの批判的リアリズムを取り戻しつつある。これは、ハリウッド映画によるフェミニズムのとり込みではなくて、フェミニズムによるハリウッド映画の修正だと考えるべきだろう。
[ザ・フライ]監督=デイヴィッド・クロネンバーグ/脚本=デイヴィッド・クロネンバーグ、チャールズ・エドワード・ポーグ/出演=ジェフ・ゴールドブラム、ジー・デイビス他/86年米[燃えつきるまで]監督=ギリアン・アームストロング/脚本=ロン・ナイスワーナー/出演=ダイアン・キートン、メル・ギブソン他/84年米


男と女Ⅱ
 映像とは「現実」を「模写」するものだといった幸福な映像論は、理論的なレベルではとうの昔に瓦解した。しかし、ビート・たけしと『フライデー』とのあいだで起こされたトラブルに対するマス・メディアの反応を見ていると、まだこの世界では「模写説」にもとづく幸福な映像論が依然として支配的なのだと思わざるをえない。が、この事件や写真週刊誌が最近引き起こしつつある事件の意味を理解しようと思ったら、この単純極まりない映像論を脱皮しなければならない。
 どんなに空想的なことを扱った映像でも、それが世界中の話題になり、身近な日常環境のなかでつねに目にふれるようになると、それは一つの「現実」になって行く。とりわけテレビ映像は、いまや環境化し、街路の樹木以上に「自然に」「そこにある」存在となった。こうなると、テレビに映ることが「模写」であるとか単なる「映像」にすぎないというようなことは言っていられなくなる。
 写真週刊誌は、まさに印刷メディアをテレビ化したものだが、五誌を合わせると合計五百万部といわれる発行部数は、まさにこの雑誌を環境化させるに十分であり、実際にこの種の雑誌はどこにもころがっている。このようなメディアで扱われることを単なる写真のうえのこととして済ませることはもはや不可能であるわけだが、この認識が一般に薄いように思われる。
 映像を作り、流通させるということは、いまや「現実」を作り、「歴史」を作ることになったわけで、このことには映像を見る側も半分以上加担している。誰も見ない映像は決して「現実」とはなりえないからだ。ところが、とくに写真週刊誌の作り手も読者も、その映像が「歴史」を作っているという意識は非常に弱い。そのため、そこで扱われる映像は一度ごとに忘れ去るべきものとして作られ、見られるのである。そこでトラブルは、人の一生のような真に歴史的な問題がからむとき深刻なものとなる。写真週刊誌の映像はそれを一度かぎりのものとして扱うが、扱われたもの自体はそうはいかないからである。
 写真週刊誌の問題は、単にその「えげつなさ」にあるのではなくて、その映像のアフター・ケアの欠如にある。どんなに「えげつない」取材をしても、そしてそこにどんな悪意がこめられているとしても、長い期間にわたって報道を続ければ、そこには捏造や歪曲をこえた「真実」が表現されてしまうのである。田中角栄の取材と報道は、相当「えげつない」ものであったが、その長期性のために、ただののぞき趣味とはならなかった。
 順序が逆になったが、実は、こんなことを考えたのは、クロード・ルルーシュ監督の最新作『男と女Ⅱ』を見たためだった。この映画は、一応、あの『男と女』(一九六六)の続篇という形態をとっているが、この映画は同時に、『男と女』が作り出した「現実」と「歴史」をルルーシュが自らとらえなおしたものになっている。
『男と女Ⅱ』は、二十年まえに封切られた『男と女』を一つの「現実」とみなすことによってすべてを開始する。主役のジャン=ルイ・トランティニャン、アヌーク・エーメもそのまま登場する。『男と女』のなかで結ばれたジャン=ルイ(トランティニャン)とアン(エーメ)は、いまでは別れ、男は事業家に、女は映画プロデューサーになっている。ジャン=ルイの子どももアンの子どももすでに成人し、アンの娘フランソワーズ(エブリーヌ・ブイックス)は女優をしている。
 アンが二十年ぶりにジャン=ルイと思い出の(『男と女』のなかの)カフェで再会したとき、彼女は自分たちのかつての恋愛を映画化するプランを切り出すが、彼女が単にビジネスのために彼を呼びだしたとは思われない。とにかく二人は再会し、映画のなかで『男と女』の撮影が始まる。ここでおもしろいのは、アンの娘がアンの役をやり、ルルーシュ自身が監督と撮影を担当して作られる映画のなかの『男と女』の各シーンは、構図や書き割りが一九六六年の『男と女』とほぼ同じなのに、これらのシーンに「本物」の『男と女』のシーンが入れちがいに映し出されると、ひどく「現実」味のないものに見えることだった。
 これは、ある点ではルルーシュの作意であり、映画のなかの『男と女』は相当な手抜きで作られているためだが、他面ではこれは、一九六六年の「本物」の『男と女』がすでに確固とした「現実」としてわれわれの意識のなかに定着されてしまっているからでもある。ルルーシュは、このことを強調するために、映画のなかの『男と女』を失敗作にする。
つまり、ラッシュを見たプロデューサーのアンは、その映像が自分たちの思い出とはほど遠いものであることに気づき、その製作を中止するのである。
 現実は「模写」すべきものではなくて、変形すべきものなのだ。そして、そのようにして作り出された「現実」もまた変形されることによって新たな「現実」となる。映像とは、その意味では一種のプリズムであり、現実を新たな「現実」のために屈折させるのである。
 このことは、アンが次に取り組む映画で示唆されている。彼女は、前作の失敗のあと、最近に起こった殺人事件の映画化に取り組む。それは、精神病院を逃げ出した男が妻子と院長夫人をピストルで殺し、自殺をはかったという事件なのだが、アンはこの事件を院長の偽装殺人の話にすりかえる。
 そのフィルムは、院長を激怒させたにもかかわらず−−あるいはそれゆえにこそ−−映画としては大あたりをとる。スキャンダラスな部分が反響を呼んだわけだが、これは同時に映像世界の今日的な「現実性」をよく表わしている。映像は現実を「模写」するのではなくて作るのであり、そのためには現実とのつなぎ目があいまいな事件や話題が一番手っとり早いのである。有名人のプライバシーといった話題が写真週刊誌のネタとして最も好まれるのもこの理由による。
『男と女Ⅱ』には、こうした映像についての映像や映画と現実との関係への批判的な洞察が散りばめられているが、この映画がストレートな「現実」として提出しているのは、サハラ砂漠を縦断する途中でジャン=ルイが遭遇する事件のシークエンスである。
 これは、パリ−ダカール・ラリーの途中、同行したジャン=ルイの若い恋人が、ジャン=ルイとアンとの仲を考え、思いつめたあげく、彼と心中をはかろうとするシーンであるが、女が夜営のあいだに車を壊し、水を捨て、二人が砂漠のなかで死ぬしかないかに見えた絶望的な状況から、大詰めの救出、アンとの再会へと進むシークエンスは、完全にハリウッド映画的なスタイルで撮られている。
 それは、一面で、砂漠という映像をこえた現実の存在を示唆しているようにも見えるが、その砂漠は、すでに一定の映像パターンのなかでとらえられたかぎりでの「砂漠」であって、映像をこえた砂漠そのものではないのである。
 ルルーシュは、このことを十分承知の上だと思う。むしろ、ルルーシュは、『男と女Ⅱ』では、その自然風景を『男と女』のときよりもいかにも映画的に撮ることによって、二十年間に起こった状況変化−−つまり映像の遍在性−−を暗示しているようにも考えられる。
 いずれにしても、『男と女』の時代には男と女は何か映像をこえた、あるいは映像の外の現実を媒介にして出会い、愛しあったが、『男と女Ⅱ』の時代には、映像の「現実」を介してしか、結びつくことも、別れることもできないことを示している。
監督・脚本=クロード・ルルーシュ/出演=アヌーク・エーメ、ジャン=ルイ・トランティニャン他/86年仏


クロコダイル・ダンディー/オーバー・ザ・トップ
 オーストラリアのピーター・フェイマンが監督した『クロコダイル・ダンディー』がたったの二カ月間で『E?MT?M』や『スター・ウォーズ』のロードショー観客動員記録を百万人以上も越し、さらに記録を更新しているというニュースを聞き、大いなる興味をいだいて試写にのぞんだ。
 週刊誌などの情報では、判を押したようにオーストラリアの「素朴さ」とニューヨークの「非人間性」とが対比され、「殺伐としたコンクリート・ジャングルに、オーストラリアの未開地を生きてきた一人の男が投げこまれたカルチャー・ショックを通して、現代人の病める心に爽快なカンフル注射を打った」といった説明がなされていた。しかし、映画を見たわたしの印象は大分ちがっている。これは実におもしろい映画であり、ヒットしても決して不思議ではない映画だが、これが当たった理由は前述のような単純な構図では説明できないと思う。
 映画のディテールを注意してみればすぐわかるように、『クロコダイル・ダンディー』の主人公ミック・クロコダイル・ダンディ(ポール・ホーガン)は、単にノホホンとした「田舎者」ではない。彼は、原住民(アボリジニ)に育てられ、大都会に行ったことはないが、彼にとっては「ブッシュ」(奥地)の森や河は都市以上に複雑であり、そこで生きるには都会ズレしたストリートワイズに劣らぬ機敏さや知恵を必要とする場所だ。
 映画は、ニューヨークからオーストラリアに取材に来ていた女性記者スー・チャールトン(リンダ・コズラウスキー)が、たまたま、ブッシュで数十匹のワニと闘って生還した男がいるというニュースを知り、ヘリを駆って取材に行くところから始まる。男−−ミック−−は相棒と二人で観光客をブッシュに案内する仕事をしており、単に「自然」ベッタリの人間ではない。スーをブッシュに案内するシーンで、彼はあらかじめ時計で時間を知っておいたのち、スーのまえでは空をさっとながめて時間を当てたかのような仕草をする。
 スーは、ミックが次々に見せる〈超能力〉にすっかり驚いてしまうのだが、都会人でも本当に都市に密着して生きている者は、温室生活をしている者の目からみればそれなりの〈超能力〉をもっているわけで、別に驚くべきことではない。貴重品をこれみよがしに無防備で持ち歩けばストリート・ギャングに襲われることもあるように、ブッシュの河でのんびりと水浴びなんかをしていれば、ワニに襲われることもある。そんなことはあたりまえだろう。
 しかし、『クロコダイル・ダンディー』のおもしろいところは、非都会人の非凡さを描くだけに終わってはいないところだ。スーは、ミックの人柄と〈超能力〉に魅惑され、彼をニューヨークに招待するのだが、ミックがマンハッタンでまきおこす〈奇行〉は、一見、オーストラリアのブッシュと大都会とのギャップのようでいて、わたしにはむしろマンハッタン的であるように見えた。マンハッタンにはとんでもないことをする連中がいくらでもいるし、そのクレイジーな基準からすればミックはむしろノーマルだ。
 ニューヨークに着いたミックは、タクシーの運転手、ドアーマン、街角に立つ売春婦、安酒場の常連といった人たちとすぐ親しくなる。それに対して、気どったヤッピーやインテリとはソリが合わず、結果的に彼や彼女らは、ミックの飾らぬ個性のまえで笑殺されてしまう。たとえばニューヨークのヤッピーたちのあいだでは高価なコカインを吸うのがはやっているが、それをみかけたミックは、その男が鼻カゼの薬でも吸引しているのかと思い、湯を使った蒸気療法を教える。が、相手は、それがコカインを効果的に吸収する新しい方法だと思いこみ、言われたままに湯気の立つボールに顔をふせる。
 弱い者を襲うギャングもあっさりと相対化される。食料品の入った紙袋をかかえた老人を突きとばし、ハンドバッグを奪って逃げるかっぱらいに、ミックは、路上にころがったカンヅメをつかみ、投げつける。そんなことは、ミックにしてみれば、石を使って獲物を捕るのよりやさしいことだ。
『クロコダイル・ダンディー』は、ブッシュと都市とのあいだにある横断的な共通性をひき出した点がユニークであり、これが都会人にかぎらず多くの人々をひきつけることになったのだと思う。ニューヨークはしばしば「アスファルト・ジャングル」と呼ばれ、「猛獣」たちが餌食をねらっている弱肉強食の世界というように受け取られているが、ジャングル自体がそれだけではなく、むしろ「自然」や仲間との連帯や共生を可能にする場でもあるように、ニューヨークも決して弱肉強食だけの世界ではない。そんな世界にしているのは金持ちやヤッピーたちなのだ。
 シルベスタ・スタローン主演の最新作『オーバー・ザ・トップ』(メナハム・ゴーラン監督)は、例によって、底辺の人間が成功者にはい上がろうとする苦闘を描いているが、『クロコダイル・ダンディー』に比べると、弱者と権力者との関係のとらえ方が単純であり、結局この図式で行くと、弱肉強食と下剋上のくりかえしであり、それらを越える道は見出せない。
 スタローンの映画では、つねに闘争がテーマになるが、この闘争には必ずそれをあやつっている者がいる。それが『ランボー』や『ランボー/怒りの脱出』のようにはっきりと見える場合もあれば、それが闘いのスリルと勝利の安堵感のなかでみえなくなっていることも多い。『オーバー・ザ・トップ』は、まさに後者の傾向の強い作品だ。だから、ここでは勝者も本当の勝者ではなく、その勝利はひどく虚しい思いがする。
 アメリカの権力思想には、伝統的に、持たざる者は持てる者を倒して自力ではい上がれという思想がある。
 問題は、持たざる者のなかからはい上がるのはごく限られた者だけであり、この思想がすすめる「階級闘争」は、結局のところ、持たざる者をますます貧しく−−金銭的にだけでなく、文化的にも−−してしまうということだ。持たざる者はその貧しさをより下位の持たざる者に繰り下げて行くのであり、たとえ、アメリカの持たざる者が多少豊かになるとしても、その分が中央アメリカやラテン・アメリカに繰り越される。持たざる者が貧しくなるのは、ムダな闘争をあおられるからである。実は、アメリカ社会はそうしたムダな闘争を基礎にして自分を活性化しているのであり、スポーツへの熱狂と果てることのない戦争志向は、そこから必然的に生ずるものなのだ。
『オーバー・ザ・トップ』には、ヤッピーの卵みたいな少年が登場する。これは、リンカーン・ホーク(シルベスタ・スタローン)の息子であるが、リンカーンが家を出てしまったので、母親と祖父に育てられた。祖父は富豪であり、甘やかされた生活のなかで子供は何とも可愛げのない少年に育っている。映画は、病をわずらい、余命のないことを悟った母親が息子をふたたび父親に託し、彼の方もこんどこそ自分の手で息子のめんどうをみようと決心し、学校の寄宿舎に息子を迎えに行くところから始まる。
 母親の死、孫を取りもどそうとする祖父の陰謀。アームレスリング(腕相撲)の強者でもあるリンカーンの挑戦……が続くなかで、最初は父を嫌悪していた息子が次第に父を見直して行く。そのプロセスと構図は、いまのアメリカ社会で、どうしようもなく失墜してしまった父親の価値を復権させようとする意図が見え見えである。父親がアームレスリングのコンテストで勝ち抜いて行くうちに、息子がそれまで口にしなかった「おとうさん(がんばって)」という言葉を口にしてしまうのも安易でがっかりする。そんな単純な子供はアメリカにだっていないだろう。
 だから、九十万ドルの賞金をもらった父と子が幸福そうな姿で登場する最終シーンは、わたしにはひどく虚しかった。何の解決にもなっていないからである。その幸福は、他者との連帯や共生をうながすものであるよりも、持たざる者が持てる者になりたいという欲望を刺激する指標の役割しか果たさないのである。
[クロコダイル・ダンディー]監督=ジョン・コーネル/出演=ポール・ホーガン、リンダ・コズラウスキー他/85年豪[オーバー・ザ・トップ]監督=メナハム・ゴーラン/脚本=シルベスタ・スタローン、スターリング・シリファント/出演=シルベスタ・スタローン、ロバート・ロッジア他/87年米


プラトーン/ミッショッン
 一九八〇年にレーガン政権が生まれ、以後アメリカは歴史の時間を三十年ぐらい逆行させたかのような現象をいたるところで披露した。それによってアメリカ経済の表層部分は活気づいたが、社会の底辺や文化のレベルはすっかりすさんでしまった。ニューヨークのような大都市だけでなく、全米の都市にホームレスがさまよい、かつては問題作を生み出していたブロードウェイは観光客向けの芝居をたれ流している。
 ヴェトナム戦争が終わったとき、侵略戦争の愚劣さがくりかえし反省されたにもかかわらず、十年もたたぬうちに公然とリビアへの爆撃がしかけられた。だから、心ある人たちは、レーガン政権の終焉を切望していた。彼がガンの疑いで入院したとき、これでレーガン政権が終わると思った人もいた。しかし、彼は短期間で退院し、レーガン政権の終わりを望んだ人々をがっかりさせた。「やつはモンスターだ」、こんなせりふを吐く人もいた。
 その意味で、イラン政府とニカラグア反政府軍とに武器をひそかに輸出していたことが暴露されたことはレーガン政権の狂気に気づかぬ人々にその実態を認識させる意味で非常に時宜にかなった事件であった。この武器輸出事件の最終帰結がどうなるかはいまのところ明確ではないが、この事件を機にアメリカ社会が以前よりは多少なりとも冷静さをとりもどしはじめた気配がある。
 ヴェトナム戦争の愚かさを正面から描いた『プラトーン』(オリバー・ストーン監督)がヒットしているのもこのことと関係があるだろう。七〇年代のニューシネマではほとんど常識であったことが、八〇年代には逆転し、『若き勇者たち』や『ランボー/怒りの脱出』、『トップガン』のような戦争讚美映画が次々と作られた。『プラトーン』についてはよそで書いたのでくりかえさないが、史的事実としての戦争や殺人を描くのならば、かっこいい戦争や殺人というものはこれまで一度もあったためしがないということをこの映画は思い知らせてくれる。
 レーガン政権以後のアメリカを考えるとき、いまアメリカでヒットしているもう一本の映画『ミッション』(ローランド・ジョフィ監督)は一層重要であろう。これはイギリス映画であるが、リビア爆撃のときアメリカの戦闘機がイギリスの米軍基地から飛び立ったように、アメリカとつねに連携して「世界秩序」を作ってきたサッチャー政権の国でこの映画が作られたことは、ある意味でイギリスがレーガンをすでに見放していることを意味するかもしれない。
 むろん、この映画は国営フィルムではないし、政治的プロパガンダでもない。しかし、社会の無意識はどこかでからみあっているものである。少なくとも、この映画がアメリカで当たっている以上、この映画は、レーガンのこれまでの政治に対する大衆の批判装置として機能していることだけはたしかである。
『ミッション』が描いている時代は現代ではなく、その舞台も南米である。しかし、一八世紀に実際にパラグアイで起こった出来事を描いているこの映画は、レーガン政権がニカラグアに対してとってきた政策の可能的帰結として見ることもできるのである。機会さえあればニカラグアへ侵略しようとしてきたレーガンを目のあたりにしている人々には、おそらくこの映画は、彼らの脳裏にたえずうかんだ悪夢を再現しているように見えたことだろう。
 映画は、一人の神父が原住民たちによって十字架にしばられ、川に投げ込まれ、そのまま巨大な滝を落下していくシーンから始まる。これは、原住民の村に入りこんだイエズス会士が布教に失敗し、原住民によって処刑されたのだった。
 イエズス会は、一五三七年に創設された修道会であり、その会士は世界の果てまで布教活動におもむいた。彼らは、教会を中心とした村を作り、原住民にキリスト教の教義だけでなく、農業、建築、道具の製作などの技術を教えた。
 当時南米にはすでにスペインとポルトガルの侵略の手が伸びており、原住民を奴隷として酷使する大農場もあった。伝道村(ミッション)は、そうした大農場とはちがって、一種のコミューンであり、原住民が作った農作物や製品を売って得た富は村全体の共有財産とみなされた。
 一七世紀の南米には数十の伝道村ができていたが、そのうちの一つとみなしてよい村の生産風景が映画に現われる。おもしろいと思ったのは、そこで原住民が笛やバイオリンを作っているシーンだった。これが史実通りだとすれば、ヨーロッパ音楽の発展は、彼や彼女らの安いマニュアル労働に負っていたわけである。今日、安いエレクトロニクスの機器は、第三世界の安いマニュアル労働に負っているが、三百年たってもこの搾取関係はほとんど変わっていない。しかし、伝道村の生産は、侵略国の利益のために行なわれたのではなく、あくまでも村人たちの自律のために行なわれたのであり、スペイン人の大農場で働かされている奴隷とは全く異質の生活をしていた。
 映画は、そうした伝道村の誕生とその破壊を描く。前任者が布教に失敗したあと、若い神父ガブリエル(ジェレミー・アイアンズ)が、その任務をひき継いで山に入って行く。山といっても、それはロック・クライミングをするようなけわしい崖だらけの山である。ガブリエルはわずかの荷物を身につけ、その崖を登る。彼はたちまちグァラニー族の兵士たちに捕まるが、彼がもっていたブロックフレーテが彼らの敵意をやわらげた。彼は原住民たちに受けいれられ、伝道村の建設をはじめる。
 この映画には、もう一人の主要人物がいる。それは、奴隷商人のロドリゴ・メンドーサ(ロバート・デ・ニーロ)である。ガブリエルと対極をなす彼の生き方がこの映画のもう一つの軸になっている。彼は、原住民の住む村であれ伝道村であれ、侵入して村人を捕獲し、スペイン人に売りとばす。しかし、彼はやがて恋人をうばった弟を殺すはめになる。彼はその罪にさいなまれて死を思い、自らを独房に閉じこめて死を待とうとするが、そんな彼をたまたま町にもどったガブリエルが訪れ、もう一つの償いの道を説く。
 数年後、メンドーサも見習い神父となる。ガブリエルと力を合わせて作った伝道村が軌道に乗りはじめたが、ヨーロッパではイエズス会に対する圧力が生まれはじめていた。当時の二超大国であるポルトガルとスペインは、南米でも紛争をくりかえしていたが、伝道村は両国に対して超越的な立場をとろうとした。
 一七五〇年のマドリード条約で、ポルトガルはラプラタ地方をスペインに渡すかわりに、グァラニー族の住む地帯を所有することになり、三万人のグァラニー族と十万頭以上の家畜が住む七つの伝道村に立退き命令を発した。これに対してイエズス会士たちは、「われわれは国家に従うのではなく、神に従うのだ」と反対したが、スペイン国王の圧力でローマのイエズス会本部は条約に従うことを正式に決めてしまった。
 スペイン総督、ポルトガル大使、イエズス会神父たちがこの決定の是非を議論するシーンがある。そのなかで総督は、ガブリエルから伝道村の理念を聞くと、「フランスの造反分子も同じことを言っていた」と言う。「フランスの造反分子」とは、のちの「共産主義者」のことだ。
 伝道村について重要なことは、それが住民たち自身による住民たちのための生活の場として、当時の抑圧的な階級経済から自律した経済を保っていた点である。カソリック教会の活性化のために生まれたイエズス会が結局弾圧されることになるのも、それが自律した経済システムを作り上げたからである。
 わたしは、グァラニー族の伝道村がスペインとポルトガルの連合軍によって全滅させられる最終シーンを見ながら、中央アメリカに独自の経済システムをつくり上げたニカラグアに対してレーガンが実行しようとした侵略の帰結を見る思いがした。そこでは、一度は捨てた武器を村人のためにあえてとるメンドーサの〈暴力〉も、村人とともに祈りながら非暴力を貫くガブリエルの抵抗も、何の力ももちえないのだった。
[プラトーン]監督・脚本=オリバー・ストーン/出演=チャーリー・シーン、トム・ベレンジャー他/86年米[ミッショッン]監督=ローランド・ジョフィ/脚本=ロバート・ボルト/出演=ロバート・デ・ニーロ、ジェレミー・アイアンズ他/86年英


未来世紀ブラジル/ブルー・ベルベット/モナリザ
「映像のフリー・スペース」、「シネマ・ペダゴジー」と続いた長期の連載映画評を書くなかで、映画が確実に変わりはじめたと感じたのは半年ほどまえだった。
 映画産業のレベルではすでに八〇年代に入って、オーストラリア、香港、韓国、イギリスなどの映画産業が活気づき、映画のシーンは多様化しつつあった。しかし、スタイルのうえではっきりと新しい傾向が現われてくるのはもう少しあとになってからである。
 六〇年代以降のスタイルを決定したのはゴダールでありフランスのヌーヴェルヴァーグであったが、アメリカン・ニューシネマは、それを大衆的な社会批判のメロドラマとして形式化し、七〇年代はじめまでの商業映画シーンを支配した。七〇年代末から八〇年代にかけてのニューヨーク都市映画も、ヌーヴェルヴァーグの遺産を引き継いでいる。しかし、八〇年代の中期になってアメリカ映画は中だるみに陥る。商業成績は上げたとしても、『ランボー』や『トップガン』はスタイルの点で何の新しさも示さなかった。
 ゴダールやトリュフォーの映画活動は、四〇〜五〇年代のアメリカ映画への偏愛とそのとらえなおしから出発したが、アメリカ映画のなかには〈古典的〉なハリウッド路線というものが一方にあり、ヨーロッパなどの外部の映画活動が付け加えたものが弱まると、その路線が復活する傾向がある。それはコッポラやスピルバーグのようにハリウッドの蕩尽的伝統をたくみに利用して新しいハリウッド・スタイルを生み出すことに成功する場合もあるが、大抵は物量主義の−−映画というよりもジェットコースター的な興奮をよびおこすだけの−−娯楽に堕してしまう。
 しかし、ハリウッドの強みは、その多国籍性にある。マーケットの面においてだけでなく、人もスタイルも多国籍的なのがハリウッドで、それは危機に陥れば他から新風をとり込んでふたたび活気づく。ハリウッドとは、それ自体が〈合衆国〉の形態をもっているのだ。
 八〇年代の後半にハリウッドが新たな活気をとりもどしたとすれば、それはイギリスのテリー・ギリアムを監督に起用した『未来世紀ブラジル』(一九八五)にすぐれた例を見出せる。最近オスカー賞を獲得した『プラトーン』が、「ハリウッド映画の転換」を示す例としてとりあげられることが多いが、こうした変化は、すでに『未来世紀ブラジル』において起こっていた。そこにみなぎるスタイルへの執着と社会批判的な意識との鋭い拮抗は『プラトーン』よりはるかにすぐれている。
『プラトーン』は、ハリウッドの予想を裏切り、爆発的な興行成績を上げた。それは、レーガン政権の終末状況と重なったため、もっぱらヴェトナム戦争という内容の側面から説明されることが多く、この映画のもっている非常にスタイリッシュな面が論じられることが少ないが、この映画の成功は、『未来世紀ブラジル』が引いた−−美学的意識と政治的意識との拮抗という−−映像路線を効果的に引き継ぐことによって達成されたのである。
 一見してわかるように、色と音の使い方、ディテールの撮り方、クローズ・アップの多い画面からもわかるように、『プラトーン』を単なるヴェトナム映画と見るのは誤りである。画面は、全体として黄色っぽく、ときにはセピアとカラーの中間色に近くなる。これは、ハリウッドの〈純アメリカ映画〉が採用するイーストマンカラーなどの色調とは決定的に異なり、明らかにジム・ジャームッシュ(『_ウン・バイ・ロー』jやウディ・アレン(『}ンハッタン』jやマーティン・スコセッシ(『激Cジング・ブル』jなどが脱ハリウッドの意識で撮ったモノクロ映画の色彩戦略を意識している。
 ヴェトナムをそこに現出させるかのような幻想をおびきよせる映像はまやかしである。それは現実を見えなくさせる麻酔装置であり、ハリウッド映画はかっていみじくも「夢工場」(ドリーム・ファクトリー)と呼ばれた。オリバー・ストーンは映画が麻酔装置になるのを拒否するために、色を人工的にし、音を〈不自然〉にした。映像にはナレーションがかぶり不安な響きをもったサミュエル・バーバーの『弦楽のためのアダージョ』がくりかえし流される。
 映像の対象はリアルにとらえられるが、それは、その対象を観客が自分の目で見ないで済ませられると思わせるような幻想の〈リアリズム〉には向かわない。肉体を見ずにセックスや恐怖の意識をもたせることがハリウッド流のリアリズムだとすれば、ストーンの方法はむしろシュールリアリスムである。映画のなかで「ヴェトコン」のとおぼしき地下壕が映され、うす暗い光のなかにベッドが浮かびあがり、そこに血を流した死体が見えるというショットが出てくる。しかし、このショットは、何の説明もなく現われ、ひどく意味ありげに消えてしまうので、そこで一体何があったのかを観客は考え、そのことがあとまで気になる。
 映像と音に対する関係をより大胆に変え、新しい方向を開いている最近のハリウッド映画としては、デイヴィッド・リンチの『ブルー・ベルベット』を挙げなければならない。『未来世紀ブラジル』ではザビア・クガートの三〇年代におけるヒットソング『ブラジル』が重要な要素をなしていたが、『ブルー・ベルベット』でも、ボビー・ビントンの歌う同名のヒットソングが単なるテーマ・ソング以上の役割を果たしている。どうやら『未来世紀ブラジル』以降、この方法が一つの新しいスタイルになったようで、ニール・ジョーダンが監督したイギリス映画『モナリザ』でも、ナット・キングコールの『モナリザ』が似たようなやり方で使われている。
『モナリザ』がスリラーとフィルム・ノワールのスタイルを下敷にしていたように、『ブルー・ベルベット』もショッキングな殺人と暴力を下図にしている。若い主人公ジェフリー(カイル・マクラクラン)が空地で人間の耳を発見し、その謎を追うところから、そのおどろおどろしい世界が展開されていくのだが、一見非常にリアルなシーンが、実は、複雑なやり方で相対化されており、見方次第で、つまりどこに見る方のリアリティの力点を置くかによって、一つひとつの映像の意味が全くちがってくるのである。
 こうしたモジュール状の映像を観客が自由に意味づけする手がかりとなるのが音であり、その意味ではこの映画の主人公は耳なのである。実際にこの映画の物語的部分は、冒頭のちょっとしたエピソードのあと、ジェフリーが切り取られた耳を発見するところから本格化し、彼が耳の穴に吸い込まれるような幻想的なシーンで終わる。そのあとには、地方都市のありふれた住宅の庭で二組の家族がくつろいでいるシーンが現われ、映画は終わる。
 映画の時間の大部分を占める中間のスリラーに重心を置けば、この映画のエピソードとエピローグは単なる付け足しにすぎなくなる。しかし、見終わってから、では一体あの映像は何なのかという思いを喚起するのは導入部と最終部であり、とりわけ最初に出てくる垣根のバラ(その色調は五〇年代のハリウッド映画を思わせる)は何を意味するのか、家のなかでジェフリーの母が見ているテレビに映る映像はなぜ意味あり気なのか、父親はなぜ水道のホースに巻かれたような格好で倒れるのか、そのあと草むらにパンしたカメラに映った穴には何がいるのか……。むしろ、事件の解決として一つの結着を見る〈本篇〉、よりも、こうした部分の方がおもしろいのである(ただし、〈本篇〉においてもつねに音は〈主役〉で、たとえばデニス・ホッパー演ずる狂暴な偏執者は、ロイ・オービソンの歌を耳にするときだけ〈人間味〉をとりもどすのである)。
 おそらく、映画によって考えるとはこういう部分に執着することであり、映像メディアの創造的な機能は、〈リアルな再現〉という名の幻想のなかにわれわれを誘い入れるよりも、むしろふだんは気づかないことに気づく感覚をよみがえらせ、その知覚にもとづいて自分の位置をとらえなおす思考を触発することだろう。
「映像のフリー・スペース」でこうした知覚と思考のスタイルに、「シネマ・ペダゴジー」ではその〈内容〉に重点を置いて進めてきたこの長期連載でわたしがめざしたことも、まさにそうした知覚と思考をわたし自身が実験してみることだった。アリヴェデルチ!
[未来世紀ブラジル]前出[ブルー・ベルベット]監督・脚本=デイヴィッド・リンチ/出演=カイル・マクラクラン、デニス・ホッパー他/86年米[モナリザ]監督=ニール・ジョーダン/出演=ボブ・ホプキンス、キャシー・タイソン他/86年英◎86/ 7/ 4−87/ 4/ 5『教員養成セミナー』




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