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カイロの紫のバラ
いまわたしは、ニューヨークにいて、日本で見たウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』について映画評を書こうとしている。何か奇妙な感じだ。アレンの映画ほど、ドラマの場所がどこになろうとも、ニューヨークを感じさせてしまう映画は少ない。そのため、彼の映画をニューヨークで見ると、ニューヨークの街を歩いたり、ニューヨークの友人とおしゃべりしたりしているのと同じような身体感覚をもつ。
『カイロの紫のバラ』を京橋のワーナーの試写室で見たときにもそんな感じがした。が、外に出て、銀座の街路を歩きはじめたとき、バック・トゥ・ザ・フューチャーをしたような気がした。ニューヨークだと、アレンの映画を見て外に出ても、脳髄にインプットされたリズムが街路と呼応しあって、それが次第に全身に広がっていくのだが、ニューヨーク以外の都市だと、歩き出したとたんに身体の方は記憶のなかの時間性とは別の時間性を要求されるため、映像は記憶のなかだけに閉鎖され、ただの〈知識〉にすぎなくなってしまうのである。
いま、この映画のニューヨーク的な部分が色あせ、ドラマの舞台になっているニュージャージーがやけにわたしの意識のなかで肥大しているのも、おそらくそのためだろう。時間性やリズムというのは、意識のなかには残りにくい。それらは身体で体得すべきものなのだ。
とはいえ、『カイロの紫のバラ』は、わたしの鈍感な身体性にもいまだ余韻を残すほどクレイジーなアイディアとギャグにあふれていた。アレンの映画にはつねに、天才的なクレイジーさの産物とでも言うべき着想があるが、この映画の銀幕から役者が飛び出してきてしまうアイディアは、まさにその最たるものだろう。
それは、一見、ルビッチュの『トゥー・ビー・オア・ノット・トゥー・ビー』(一九四二、メル・ブルックスは一九八三年にこれをリメイクしている)を思わせるところもあるが、こちらは、舞台の役者と観客との関係なので、それほど驚かされない。舞台の役者は、劇の論理に拘束されるとしても、観客と同じ〈生身〉の身体をもっている。
『カイロの紫のバラ』は、この映画の題名であると同時に、この映画のなかでミア・ファーローがくりかえし見る映画のタイトルでもある。失業中の夫をささえるためニュージャージーのちっぽけなレストランでウェイトレスをしているミア・ファーロー。レストランでは失敗ばかりし、夫は飲んだくれて遊んでばかりいる。映画館だけが彼女の救いの場になっている。
事件は、彼女がこれで五回目になる『カイロの紫のバラ』を街の映画館で見ているときに起こった。映画の主人公(ジェフ・ダニエルズ)が、「また見に来てくれたの」とか言いながら、スクリーンから客席に出てきてしまったのである。
これがただのギャグにとどまっていないのは、銀幕から飛び出した人物が文字通り映画の産物であって、セックスを知らないし、映画用のニセ札と本物の札との区別感覚がない点だ。映像の申し子なのだから当然なわけだが、ここでわたしは、身体全体が次第に電子情報や映像の束になっていくかもしれない人間の未来における身体感覚のことを考えた。
この映像=人物は、見てのお楽しみのひと騒動を起こしたのち、ふたたびスクリーンのなかに帰るのだが、ニューヨーク以外の都市でこの映画を見る者は、映画を見終わって映画館の外に出たとき、スクリーンのなかから永久に放逐されてしまった映像=人物になったような無重力感をいだくだろう。それは、あなたがニューヨークに来るまでは決していやされることはない。
前出◎86/ 1/30『HOLIC』
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