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マイケル・チミノ

 マイケル・チミノの映画を見ると、わたしは、彼がアメリカで映画を作らなければならないことの不幸を感じないではいられない。彼は基本的に大河的な長篇の作家であって、二時間ぐらいのフィルムではなかなか本領を発揮できないのだ。
 彼は決して職人になることができない。関心はつねにアメリカの政治的現実にある。これはアメリカの映画界ではおよそ歓迎されないことだ。アメリカ映画はヤラセを好む。ヤラセと言って悪ければ起承転結のある物語と言おう。チミノは、ナマの現実を映画のなかに投げ込もうとするので、物語は破綻を起こしてくる。それを救う一つの道は、シルバーバークの『アワー・ヒットラー』のようなばか長い映画を作ることだが、レオーネの十分に物語性のある『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のようなフィルムでさえ短縮させてしまうアメリカの映画状況では、その道はほとんどおぼつかない。
 たぶん職人的な監督ならば、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』をミッキー・ロークとジョン・ローンとの様式的な対決ドラマに仕立て上げるだろう。チミノ自身、ロークがローンを追いつめ、夜の橋の上で撃ちあう最後のシーンでは、非常に様式的な画面を作り出している。
 が、それにもかかわらず、チミノが、随所に示されているすぐれたシークエンスをドラマ作りには生かさず、惜し気もなく放置してしまうのは、チミノの関心が撮ろうとする社会的現実の方へ強く傾くからだろう。彼は決してドラマ作りのヘタな監督ではない。とくに殺害シーンにおいては抜群のうまさを発揮する。『天国の門』の集団殺戮のシーンでも、クリストファー・ウォーケンが殺されるシーンでも、チミノほど死の虚しさを殺人シーンでうまく表現する監督は少ない。『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』では、ロークの別居中の妻(キャサリン・カバ)が中国人マフィアに襲われてあっけなく死ぬシーン、それから、ロークの捜査を手つだう中国人青年の見習い刑事がチャイナタウンに潜入して殺されてしまうシーン、ローンにやとわれてテロを行なった若者が負傷してアジトで息もたえだえに横たわっている(そのあと彼は、他の仲間とともに殺され、モヤシ工場の水槽に投げこまれる)シーンなどがよい例だ。
『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』は、一見フィクショナルなドラマを描いているかに見えながら、かなり忠実にニューヨークのチャイナタウンで起こったことを映像化している。チャイナタウンでは、一九七七年ごろから中国人マフィアの活動が激しくなり、映画でとりあげられているのと似たような事件が起こっている。一九八二年ごろには、それがピークに達し、チャイナタウンへの一般人の足が遠のいたといわれるほどだった。
 ニューヨークのチャイナタウンには、わたしの聞いた範囲では、ホワイト・イーグルズ(白鷲)、フライング・ドラゴン(飛龍)、ゴースト・シャドウズ(幻影)の三つの中国人マフィア組織があり、たがいに抗争を続けている。映画にも出てくるように、チャイナタウンには、英語で〈トング〉と言うコミュニティの上部組織ないしは秘密結社があり、そのネットワークは、アメリカ国内はおろかホンコン、ロンドン、トロントをはじめとする世界の各都市にあるチャイナタウンにまで及んでいる。映画のなかで、マフィアに店を襲われたトングの一員に対してロークが、警察への協力を求めるとその中国人は、「中国人は数百年にわたって警察に頼らないでやってきた」と言って断わるシーンがあるが、中国人マフィアは、そうしたトングにとっての自営組織として成長した。
 チャイナタウンは、決して一枚岩の社会ではない。それは、他のエスニック・グループと矛盾を起こす可能性をもっていると同時に、内部でもたえず矛盾を起こしている(これはチャイナタウンに限ったことではなく、すべての少数民族社会に言えることだ)。とくに、アメリカ生まれの中国人(ジュクシング)とホンコン生まれの中国人(ジュクトゥク)との対立は激しく、それが若い世代のあいだではストレートに現われる。
 ジョン・ローンが演じるクールな風貌のジョーイは、おそらく、幼年時代をホンコンで過したジュクトゥクではないか? WKXT局のテレビ・レポーターのトレーシー(マリアーヌ)の方は、明らかにアメリカ生まれだ。ジョーイがトングの長老を殺させるために集めた若者たちは、アメリカ生まれの中国人にコンプレックスと反感をいだき、ぐれているジュクトゥクにちがいない。ジョーイは、そうしたコネをもっているのである。
 チャイナタウンのように比較的伝統を長く維持してきたようなエスニック社会でも、その実質は大きく変わりつつある。若い世代が伝統に無関心になるのはどこでも同じである。それがアメリカでは英語の侵入という形でやってくる。両親が全然英語をしゃべらなくても、子供はネイティブと同じ英語をしゃべる。が伝統の崩壊は、エスニック社会では、とりもなおさずコミュニティの崩壊であり、それまで維持してきた政治と経済が崩壊することを意味する。ギャング組織は、エスニック社会のそうした危機を抑止するために要請される。と同時に、ギャング組織自体が、いまでは失われている伝統を非常に硬直した形で再生する場になっている。
 マイケル・チミノは、アメリカにおけるエスニック社会のこうしたジレンマを描き続けてきた。その際彼は、エスニシティへの執着よりも、個人主義的モラルの方を肯定しているように見える。ロークが演ずるスタンレイ刑事は、ポーランド人であるが、そのエスニシティや信仰よりもピストルと自分自身を信じている。これは長らくアメリカの夢だった。その夢がいかに虚しいものであるかを『ディア・ハンター』は残酷なまでに描いた。スタンレイは、彼の強硬な捜査に反対する上司に対して、ジョーイとの闘いはヴェトナム戦争と同じなのだと叫ぶ。ロークは『ディア・ハンター』のデ・ニーロを引き継いでいるわけだ。が、デ・ニーロが自分の力だけを信ずることの虚しさをどんなに痛感したとしても、ロークはそれをふたたびくりかえすしかない。エスニシティを捨てるならば頼るものは自分しかないからだ。そしてこのジレンマがアメリカの現実である。
 その意味では、ジョーイを倒したスタンレイが、一番最後のシーンでトレーシーと睦まじいかっこうで姿を現わすのはいただけない。彼は、そうした一匹狼的モラルが〈正義〉を旗印にする国家権力を補完するものでしかないという痛みを知っているはずだからである。彼も所詮はニューヨーク市警のイヌではないか。その点では、ジョーイのキャラクターの方が首尾一貫しており、それがときにはミッキー・ロークよりもジョン・ローンの方をきわだたせることになる。ジョーイは、中国人社会を食いものにする中国人マフィアであり、その利益のために中国人社会の古い綻を温存しているにすぎないが、彼は終始そのことを承知しているのである。彼の死にざまは、あたかも自分を罰しているかのようだ。
 ニューヨークの知識人のあいだでは、一体にチミノの評判は悪い。彼は人種差別主義者であり、女性差別主義者であり、反動主義者だというのである。しかし、それは正しくないだろう。彼は、少数民族が、弱者が、個人が自由に生きられるということをタテマエにしているアメリカが、全くそうでないことを批判しているのだ。そのためには夢を描くことはできない。ハリウッド映画はそういうやり方で自由の幻想を補強してきた。そうでない映画を作るには、映画を解決の場にしないことだ。チミノの映画のもつある種の〈不統一〉やふっ切れのなさは、むしろ彼がそうした方向を選んでいるからだとみなした方がよいのではないか?
[イヤー・オブ・ザ・ドラゴン]前出[天国の門]監督=マイケル・チミノ/出演=クリストファー・ウォーケン、ジョン・ハート他/81年米[ディア・ハンター]前出◎85/12/27『キネマ旬報』




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