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そして船は行く

 あっというまに一年がたった。映画への関心は、ヴィデオの浸透にもかかわらず高まっている。
 すぐれているが、スペースや上映日時の都合で取り上げることができなかった作品も多かった。『求Eバル』A『愛の記念に』、噬潟Lッド・スカイ』、噬rデオドローム』、囀c舎の日曜日』、噬Gル・スール』、囑Iの巣』、噬Xティコ』……その多くはフランスやスペインのヨーロッパ映画である。
 今月は、連載(雑誌『ミセス』の映画時評。一九八五年一月号〜十二月号)の最後にふさわしい作品に出会った。フェリーニの『そして船は行く』である。わたしは久しぶりに、映像によって網膜を愛撫される快楽を味わい、あらゆる批判の言葉を失った。批評家がこれでは困るのだが、わたしは、概してイタリアの映画や料理のまえではだらしがなくなる。
 映画は、古い無声映画から取ってきたようなセピア色のチラチラする街のシーンから始まる。画面には、雨が降っているような傷があり、最初それが無声映画のひとこまをフェリーニが模造したことはわからない。カメラは、街から港に移り、大きな船が停泊している埠頭の人々を映す。音は伴奏のピアノだけ。が、画面は次第に鮮明さを増し、色調もセピアから黒に変わる。そして、そこに一台の霊柩車が着き、遺骨がいならぶ人たちに見送られて船にのせられるころ、画面はカラーに変わり、音が聞こえてくる。フェリーニは、何と、この数分間の映像によって、この映画のプロットと、サイレントからトーキー、そしてカラーに到る映画の歴史を観客に体験させてしまうのである。
 この船は、「遺骨を故郷の海に流してほしい」という遺言を残して死んだ世紀のソプラノ歌手エドゥメア・テトゥアの遺志をかなえるために、彼女を敬愛した人々を乗せて地中海のエリモ島に向かう。オペラ歌手、貴族、オーストリア・ハンガリー帝国大公……そして航海の途中で救出されたセルビア人の難民たちがこれに加わる。
 ヴェルディ、チャイコフスキー、サンサーンス、ロッシーニなどのオペラ音楽がふんだんに使われるが、それらは通常のオペラ映画のようにではなく、〈俗なるもの〉との饗宴のなかで新しい響きを発する。船のボイラー室でのオペラ歌手たちの競演シーン、甲板上で披露されるセルビア人の民族舞踊に船客たちが加わってくりひろげる祝祭的なシーン。そうした見事なシーンの間に、フェリーニは、一九一四年(第一次世界大戦勃発の年)という時代への風刺を入れることを忘れない。今年度(一九八五年度)必見のフィルムである。
監督・脚本=フェデリコ・フェリーニ/出演=フレディ・ジョーンズ、バーバラ・ジェファード他/83年伊・仏◎85/10/ 8『ミセス』




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