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オーソン・ウェルズ

 一説によると、俳優や監督のなかでオーソン・ウェルズほど自分の肥満に無頓着な人はいないという。たしかに彼は年々ふとっている。あれではフォルスタッフの役も演じられないだろうと陰口をたたかれたのは十年ほどまえだった。その肥満ぶりとともに、アメリカでは、彼がテレビやB級映画で安っぽい役を演じているのを嘆く向きがあるが、ウェルズが日本のウィスキーや語学教材の広告にプロフィルを貸していることはアメリカではほとんど知られていない。
 しかし、こうしたウェルズの姿に接すれば接するほど、わたしは、彼がその肥満と〈安売り〉によって、かつて彼の名のもとに濫発された〈長期手形〉がすべて〈不渡り〉であることを正直に示そうとしているように見えてならない。ウェルズは、すでに十代のころから、詩、絵画、演劇などの分野で〈早熟な才能〉を発揮し、それによって彼に付与された〈社会的自我〉と彼自身の自己意識とのギャップを感じてきたが、それは、一九三七年にマーキュリー・シアターで上演された『ジュリアス・シーザー』の成功によって一つの極に達した。翌年、彼がH・G・ウェルズの『世界戦争』を脚色したラジオドラマ「火星人襲来」が起こしたスキャンダラスな騒ぎは、彼の〈天才〉の名を世に知らしめることになった(これによって彼は、ハリウッドと俳優および監督としての契約を獲得する)が、それと同時に、自分の意志や欲求とは別に《オーソン・ウェルズ》という〈社会的自我〉が勝手に肥大して一つの権力にまで増殖してしまうことをウェルズ自身に深く認識させたのだった。『市民ケーン』には、そうした〈自我〉に対する明らかな揶揄がある。一般的にはこの映画は、メディアの権力者を批判的に描いているように受けとられたが、むしろ、〈権力者〉という社会的自我が肥大していく一方で、〈市民〉というよりも〈凡人〉であることに限りない願望をいだく〈凡人ケーン〉を描いてもいるのだ。
 しかし、『市民ケーン』は、それが不可能であったことを示す映画であり、ウェルズ自身、この映画によって逆にその〈社会的自我〉をますます肥大させてしまった。おそらく彼がそうした〈自我〉を払い戻すことに本当に成功するのは、彼がテレビやB級映画で〈安売り〉をはじめてからだろう。それは、若き日に彼にはりつけられたレッテルを片端から剥がし取るためには必要な処置であり、そうしたレッテルをはったアメリカへの復讐なのである。
 ウェルズの作品には、『オーソン・ウェルズのフェイク』(一九七三)が端的に示したように、自分のやることがすべて〈ペテン〉と〈こけおどし〉であり、観客はそれに気づいて大笑いしてほしいという欲求と、それらを真に受けてだまされてほしいという欲求とがあい半ばしている。?嚼R判』i一九六二)は、まさにそうした二重の欲求の中間に位置しており、そうした欲求の二つの方向をアンソニー・パーキンスのジョゼフ・Kとウェルズの弁護士とがそれぞれにキャラクタライズしている。映画の中のKには、ある日突然、自分がスキャンダラスな〈社会的自我〉になっていることを発見するという点で、「火星人襲来」で全米にその名を知られることになった二十三歳のウェルズと共通するところがある。Kは、社会が彼に勝手にはりつけたレッテルを〈不当〉だと思う。それに対して、弁護士は、〈アけおどし〉と〈はったり?誤植〉アそ現実であり、それに順応することをKに説く。
 この弁護士は、古い邸宅に住み、客にはもったいぶった尊大な態度で接し、それに屈従しているブロック(アキム・タミロフ)のような人物に対しては、徹底的にはったりのおどしをかける。ブロックは、弁護士の調停に期待をかけ、何年も長引いている裁判を待って弁護士の家に住み込んでいる。しかし、弁護士は、裁判に進展があるのかどうかを尋ねることすら彼に許そうとはしない。Kが弁護士の家を訪ねたとき、「他の被告の実態を知っておいた方がいいだろう」と言って、ブロックを呼ばせる。弁護士の家政婦であり愛人でもあるレニー(ロミー・シュナイダー)がブロックを連れてくると、弁護士は、わざとベッドに深くもぐりこみ、顔も見ずに次のようなせりふで恫喝する。
「おまえの望みは何だ。呼ばれて来たんだろ、え? おまえは、タイミングの悪いときに来たもんだな!」
 しかし、これが弱者の足元を見たこけおどしであることは、ブロックにもはじめからわかっている。弁護士は、病気がちという設定になっているが、それは一種幼児的な〈仕事拒否〉であり、レニーに甘え、彼女を自分にひきつけておくための手段であることが見え見えだ。ウェルズは、レニーを呼ぶとき、鼻にかかっただらしのない甘え声を出し、この感じを巧みに表現している。それは、実にグロテスクな一瞬だが、〈権力者〉が、どんどん肥大してしまった自分の〈社会的自我〉に対して均衡をとる〈自己療法〉の一つのパターンなのである。
 Kには、このようなはったりやこけおどしの面はない。彼は、自分に付加される〈社会的自我〉には無頓着であり、それを効果的に使おうという気はない。だから、Kは、何にでも順応してゆく。出会った女性とすぐ親密になれるのもそのためだ。Kは、徹底的に他者性を欠いており、自分の社会的・肉体的自我に対して無知である。それは、『変身』の主人公が毒虫に変身してもそのことに気づかないのによく似ている。だから、Kの身にある日突然ふりかかる告発は、彼があまりに自分の社会性・肉体性・他者性を無視しすぎたために社会や肉体や他者が強制的に付加せざるをえなかった負の社会性・肉体性・他者性なのだとも言える。
 ジョセフ・Kを、あまり肉体を感じさせないアンソニー・パーキンスが演じ、自我のはったり性を意識している弁護士を、相当に肥満したオーソン・ウェルズが演じているのは実にうがっている。肥満とは、知らぬ間に肥大した〈社会的自我〉への無知を無意識に代償するものであり、肥満した肉体の持ち主は、その〈社会的自我〉が不可避的にもってしまう権力性を自分の肉体の重みと厚みによって批判的に自覚せざるをえないのである。
 ウェルズは、あるとき、こんなことを言っている。「アメリカは、わたしを神のように扱った。それは、ひとえにわたしが若かったからだ。アメリカでは、若くありさえすれば世界を要求することができ、また世界が与えられるのだ。が、わたしが四十を越したいま、アメリカはわたしへの関心を失った」(ジョエル・ハーシュホーン『映画俳優を評して?寉H。ウェルズが、フランスで『審判』を撮ったとき、彼は、自分の盛りが過ぎつつあることを知っていた。しかし、いったい〈若さ〉とは何か? それは、ある形態の社会システムが作り出す差別ではないのか?
 アメリカ映画には、つねに、〈若さ〉の礼讚と〈若さ〉への期待がある。もし、ウェルズが、こうしたコンヴェンショナルな観念を信じているならば、決してあのように肥満することはなかったろうし、結局において〈若さ〉を断罪している『審判』を撮りはしなかったろう。
 アンソニー・パーキンスをそうした〈若さ〉のキャラクターに選んだのは、すぐれた選択だった。彼は、一九六二年という時点においてはむろんのこと、アメリカ的な〈若さ〉を代表する俳優ではない。むしろ、『Tイコ』i一九六〇)以来、彼には〈神経症的なひ弱さ〉というイメージがつきまとっていた。彼は、まさに肉体を欠いた−−したがってどんな社会的〈肉体〉でも付与できるような−−〈自我〉を代表しており、次々に使い捨てられ、あるいは夭折することによって逆に〈若さ〉の信仰を永続させるような〈若さ〉ではなく、決して老いることのない呪われた〈若さ〉を代表しているようなところがある。
 アメリカは、決してそのような呪われた〈若さ〉を求めはしないだろう。アメリカが求める〈若さ〉は、〈老い〉の差別のうえに成り立つ〈若さ〉であり、加速された世代交代−−世代の使い捨て−−のなかでしか得られない〈若さ〉である。それゆえ、ジョゼフ・Kは抹殺されなければならないが、その抹殺のしかたは、そうした呪いが決して生き残ることがないようなやり方にならざるをえないだろう。ジョゼフ・Kが、映画の最終シーンで、ダイナマイトによって一瞬のうちに消滅させられるのはこのためだ。この映画が一九六三年に日本で上映されたとき、この最終シーンにおける原作との違いがよく論議された。Kは、原作のようにナイフで殺され、しかも映画はそれを残酷に見せた方がよいという意見も出た。Kは、組織の〈犠牲者〉という実存主義的なカフカ解釈が支配的であったためもある。ストップ・モーションになるダイナマイトの煙に、核爆発のキノコ雲のイメージをだぶらせる論者もいた。解釈は自由であり、作品は開かれている。しかし、〈夭折〉としてでもなく、また〈老い〉の結果としてでもなくKが抹殺されなければならないということは、この映画のなかでは極めて必然的なことだった。
 ただし、このことは、呪われた?鮪痰ウ?誤植〉ェ抹殺されることをウェルズが不可避的とみなしていることを意味しない。それは、姿を変えて生きのびるだろう。原作では、殺害されたKは「恥」として生きのびる。映画は、ストップ・モーションとともに急に音量の高まったアルビノーニの『アダージォ』がしばらくして低くなり、オーソン・ウェルズの声がオフで聞こえてくる。それは、この映画がカフカの『審判』にもとづいていることと、そのキャストを紹介するナレイションなのだが、最後に、この声が《マイ・ネイム・イズ・オーソン・ウェルズ》と語ったとき、わたしは、肥満したウェルズがその肉体−−つまり負の《アメリカ》−−から解放されて、あるがままの《オーソン・ウェルズ》として生きのびようとしているように思えてならなかった。
●監督・脚本=オーソン・ウェルズ[市民ケーン]脚本=ハーマン・J・マンキーウィッツ/出演=オーソン・ウェルズ、ジョセフ・コットン他/41年米[オーソン・ウェルズのフェイク]出演=オーソン・ウェルズ、オヤ・ゴダール他/75年仏・西独・イラン[審判]出演=アンソニー・パーキンス、ジャンヌ・モロー他/63年仏・伊・西独◎85/ 7/29『シネアスト』




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