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映像のフリースペース
ビデオドローム/リキッド・スカイ
写真が一般の人びとの目にふれるようになってから百年以上たった。映画は九十年、テレビはすでに三十年近くたっている。ヴィデオは、まだはじまったばかりだが、急速な勢いで浸透しはじめている。活字の文化は五百年以上の歴史をもつが、映像文化も、もう百年以上の歴史をもってしまったのだ。
活字文化に代わって、映像文化は、いまやわれわれの日常生活に入りこみ、われわれの考え方や感じ方、さらには行動のしかたを変えつつある。
〈映像〉を英語に翻訳すると、それはimageである。このimageは、ラテン語のimagoに由来しており、その意味は〈似たもの〉のことである。
そうだとすれば、〈映像文化〉とは、〈似たもの〉がいたるところにある文化のことになる。〈似たもの〉とは、同じもののことではなく、オリジナルから見れば、どこかにちがいがあり、ニセモノだと言われることもある。
しかし、映像文化の時代には、そうした〈似たもの〉が現実となるのであり、それをニセモノだとしてしりぞけることができないのである。その結果、いつのまにか、〈似たもの〉はものそのものになってしまい、映像をながめるのではなく、映像を〈食べ〉たり、映像に〈話しかけ〉たり、映像と〈セックス〉したりするところまで行ってしまう。
だが、イマーゴ(似たもの)としての映像の積極的な意味は、それを通じて何と何とが〈似ている〉のか、何と何とが映像において関係づけられているのか、映像において何と何とが出会っているのか、その映像はどんな出会いの場なのか、といったことを考えさせるところにある。
映像をこのような関係の「場」だと考えると、そこにたとえ〈現実〉には存在しないようなものが映っていても、それを単なる〈虚構〉と呼んで済ませることはできなくなる。そこでは、見なれた車と映像のなかの車との関係がもっているような単純な関係ではなくて、もっと、別の−−見えない−−関係が作られているのである。逆に、ある映像が〈本物そっくり〉に映っているとしても、それを〈本物〉の忠実な描写だとみなしたり、それを〈本物〉の代理物とみなすことは単純すぎるのであり、ここでも、もっと複雑な−−見えにくい−−関係がひき出されなければならない。
そんなことを、これから映像文化の諸現象についてやってみよう。うまくいくかどうかはわからないが、われわれがいまいる〈現在=現実〉のありかが、いささかでも鮮明になればよいと思う。
『毎日グラフ別冊 ニッポン40年前』(毎日新聞社、一九八五年八月十五日号)には、終戦直後の約十年間に米軍将兵が日本で撮ったカラー写真が三百枚ほど収められている。
これらの写真を見て気づくのは、東京のような都心を撮った写真に限定しても、そこに映っている映像からすると、当時の東京には非常に看板が少なかったということだ。むろん、戦火で焼失したものも少なくなかったろうが、戦災をまぬがれた地域の建物にも、今日とくらべて極度に看板の数が少ないことに驚かされるのである。
焼跡に進出し、戦後の解放感とどぎつい欲望をむき出しにしているはずの闇市のバラックにも、いまの新宿や渋谷の街にくらべれば実に上品な看板がならんでいる。「性が解放」されて、思いっきりハレンチに女の裸体を描いているストリップ小屋の看板も、いまから見れば地味なものだ。
この四十年間に日本の都市で最も変わったものは、電飾看板の出現だろう。電飾看板がこれほど街路におびただしくある都市は、世界中で日本だけだ。ニューヨークのタイムズ・スクウェアは、電飾看板を最も早く過激に導入した都市の一つだが、いまでは、その数と規模の点で新宿に追いこされている。
木板や金属板にペンキで文字や絵をかいた昔の看板と、今日の電飾看板とのちがいを知るには、早朝の新宿や渋谷を歩いてみるとよい。そこには、文字や図版の跡はたどれるものの、まえの晩に見た色あざやかな雄弁さなどどこかへ行ってしまった看板の〈残骸〉が街中に広がっている。電飾看板というものは、電気を切ってしまうと、ほとんど無意味な存在になってしまうのだ。
考えてみると、映画やテレビの映像には、この電飾看板と似たところがある。いずれも、電気や電子の流れがOFFになると、無になってしまうのであり、いわばON/OFFのあいだだけ持続するような存在なのだ。それが、好ましいかどうかは別にして、映像文化が支配的となる状況下では、こうしたON/OFFカルチャーが感性や思考や行動を大きく規定するようになる。
電飾看板の氾濫も、単に電気的な技術の普及のためではなく、こうしたON/OFF文化が基礎になって、それが限りなく加速していったのであり、ON/OFF文化としての映像文化の一現象とみなす方がよいだろう。そうすれば、今日の都市と映像世界とを同じ地平のうえで論じることができるようになる。
最近見た映画のうち、こうした映像文化のことを深く考えさせた作品は、デイヴィッド・クロネンバーグ監督のカナダ映画『ビデオドローム』(一九八二)とスラバ・ツッカーマン監督のアメリカ映画『リキッド・スカイ』(一九八三)の二本である。両者は、どちらも新作ではなく、長いあいだ一部のファンのあいだで公開が待たれていた作品だ。
『ビデオドローム』は、生身の体で知覚する〈現実〉世界よりもテレビ画面で見る映像世界の方がよりリアルに感じられるようになってしまう男を主人公にしている。それは、一種の病気であり、この映画は、そうした病人の目で映像世界を作っている−−と言うこともできるが、これを〈病気〉と言って済ませられないところが今日の状況の問題点である。ここで展開される悪夢のような世界を、〈現実〉の−−つまりあなたご自身の肉体を傾けて知覚する−−都市の風物や人びとよりも、より鮮烈に感じるとすれば、あなたは幾分かは、『ビデオドローム』の主人公と同じ〈病気〉におかされているのである。
映画を見るということは、ある意味では、映画館のなかでつかのま〈メディア病〉にかかることにほかならない。しかし、この〈病〉は、映画館を出て、外のまぶしい光にあたると、たちまち快癒してしまう。ところが、テレビやヴィデオの普及は、こうした転換−−ある世界から他の世界へ踏み越えること−−を不可能にしはじめた。
『リキッド・スカイ』の映像には、コンピュータ・グラフィックスやヴィデオ・アートの映像が効果的に使われている。この作品自体は映画であるが、ヴィデオ作品としても通用する。事実、日本では二年間も封切られずにいたので、そのあいだファンは、この作品をもっぱらヴィデオで見ていた。また、今回、この作品のヴィデオ版が映画の公開と同時に発売(東映テレビ)されるのも、この作品のそうした性格をおさえたうえでのことだろう。
『リキッド・スカイ』の監督スラバ・ツッカーマンも、カメラのユーリ・ネイマンも、ともにモスクワ出身で、近年ニューヨークに移住して、そこを舞台にしたこの映画を作った。ヴィデオ画面のように、どんなに鮮明でも、どこかにはかなさを宿しているこの映画の〈ニューヨーク〉は、決して、ニューヨークに長く住んだ者の目から見たニューヨークではない。
ON/OFFカルチャーにあふれているという点では東京以上の都市はないが、モスクワから見れば、ニューヨークは、まさにON/OFFカルチャーでできているヴィデオ映像的な都市に映るだろう。
この映画には、人のエクスタシーにひそむエネルギーを摂取して生きている宇宙人が出てくる。この奇想天外な発想が少しもこの映画を空想的にしないのは、それがニューヨークというクレイジーな都市を舞台にしているからだが、それ以上におもしろいのは、セックスやドラッグでエクスタシーを感じた人間が、そのエネルギーを宇宙人に吸いとられると、体が忽然と消えてしまうというくだりだ。というのも、ヴィデオ文化が支配的になればなるほど、われわれの体は、ますます軽くならざるをえないからである。
[ビデオドローム]前出[リキッド・スカイ]前出
1984/バック・トゥ・ザ・フューチャー/未来警察
未来を描いたと自称するイメージで、本当に未来を実感させる映像や表現は実に少ない。大抵は、未来を現在の延長線上で捉えており、結果的にそのイメージは、現在のことを描いているにすぎないのである。
九月十六日に終了した筑波科学博も、〈未来博〉をキャッチ・フレーズにしながら、その実、〈現実以下博〉だった。わたしは、二回も会場に足を運んだが、そこには〈未来〉はほとんど存在しなかった。
科学博が始まる一時期に、おびただしい数の科学博特集が新聞や雑誌に現われた。ある新聞は、各界の専門家の話をもとにして、「二一世紀の家庭生活」を描いていたが、「お父さん」「お母さん」「お年寄り」「だんらん」などのセクションに分けられたこの未来像を読み、「ちょっと待ってよ」と言いたくなった。
それによると、たとえば「お母さん」は、ホームコンピュータに外出先から電話をかけて、ふろや食事の支度を指示し、「お父さん」は、会社ではコンピュータを駆使し、在宅勤務のときには双方向テレビを使ってひんぱんに会社と連絡をとっている。明らかにここでは、食事や家事をやる人は「お母さん」で、会社で働くのは「お父さん」という−−すでに今日でも一部ではくずれつつある−−分業パターンが、無批判に受け継がれている。果たして、二一世紀になっても、こうしたパターンはくずれないのだろうか? 女は依然として家庭に、男は会社につながれ、(たとえ遊びのためという場合があるとしても)時間をあくせく使い続けるのだろうか?
まして、働くということが、人間にとって必ずしも必要なのかどうかといった問いが、こうした未来イメージのなかから現われることは全くない。
今月見た二十本ほどの映画とヴィデオのうち、未来のイメージを扱っているのは、マイケル・ラドフォード監督『1984』、ロバート・ゼメキス監督『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、マイケル・クライトン監督『未来警察』の三本だった。
『1984』は、言うまでもなく、ジョージ・オーウェルの原作の映画化であり、リチャード・バートンの最後の出演作品となったことでも有名になった。「党」の幹部オブライエンを演ずるバートンの演技は、いつもどこかに大根役者的なたるみを感じさせた従来の演技とはちがい、別人を思わせるスゴみがあり、主演のジョン・ハートも、この何とも救いようのない世界で打ちひしがれていくキャラクターを熱演している。
しかし、この映画は、ジョージ・オーウェルの原作が一九八四年を描くとみせて実は、それが書かれた一九四〇年代後半におけるソ連の政治・社会体制を批判しているという『一九八四年』解釈に非常に近づいている。水たまりがひどく、荒れはてた古ビルがたち並ぶ陰気な街路は、大戦直後の東欧の都市を想い起こさせる。
ちがっているのは、どこの建物、どの部屋へ行っても大きなテレビ・スクリーンがあることで、上級の幹部以外は、映像を切ることは許されない。それは、単に受像機として機能するだけではなく、同時に監視装置にもなっており、労働者が異性と逢引きしたりすると、たちまち発見され、逮捕されてしまう。
ただし、オーウェルの原作を意識したにしても、映画に登場する小道具は、あまりにも古めかしい。たとえば、主人公ウィンストン・スミスが働かされている「真理省の記録局」のテレスクリーンは、まるで一九五〇年代のテレビであり、それに連結しているコンピュータ(と思われる)のキーボードは、〈金銭登録機〉か一九二〇年代のタイプライターのように古ぼけているのである。また、彼が使っているマイクも、オーウェル自身がBBC放送のスタジオで使っていたものを捜し出してきたのではないかと思わせるほど時代ものだ。
一九八四年に、世界の−−この映画に見られるような建物や工場の存在する−−都市でこれほど古めかしい電子装置を使っている国は存在しないから、一体この映画は、なぜ『1984』というタイトルになっているのかと疑ってしまう。もしこの映画が、時代を一九八四年に限定せず、ある超管理帝国の話だということになっているのならば、考えさせられるところは多いのである。
記録局でスミスがやっていることは、決して未来的なことではなく、今日的なことである。彼は、古い新聞記事を読み、「党」の方針と合わない記事は抹殺し、写真さえも入れ換えるという歴史の書き換えの仕事に従事させられている。
歴史の書き換えは、何千年もまえから行なわれてきたことであり、歴史とは書き換えの歴史である。権力の交替期には、とりわけそれが激しくなるが、その交替がメディア・テクノロジーの交替期と重なるときには、ドラスティックな権力交代が生じる。というよりも、メディア・テクノロジーをドラスティックに変え、歴史をドラスティックに書き換えることのできた権力が、巨大な帝国を築くのである。ヨーロッパでは、羊皮紙からパピルス紙にメディア素材がかわったとき、キリスト教権力は、羊皮紙に記されていた歴史のうちからキリスト教に都合のよい部分をパピルス紙に書きうつすことによってその権力を絶対的なものにしていった。
その意味では、印刷物や手書き文字の一部がマイクロフィルムやフロッピー・ディスクや磁気テープに移される作業が急速に進められている今日、誰かが別に陰謀をめぐらさなくても、必然的に歴史の取捨選択が行なわれており、もし、書物の時代がいつの日にか終わるとしたら、そのときには、いまとは全く異なる歴史が伝わっていることだろう。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は、『2001年宇宙の旅』や『2010年』のような意味での未来イメージを描いてはいない。これは、話の筋道としては、過去イメージの映画である。
時は、一九八五年十月二十五日。ブラウン博士(クリストファー・ロイド)はついに、時間を自由に旅することのできるタイム・マシーンを作り上げる。それは、核燃料で走る自動車なのだが、スピードが八十五マイルに達すると、現在の時間を超え、別の時間に入り込むことができる。主人公の高校生マーティ(マイケル・J・フォックス)は、博士の手伝いをするうちに、偶然、一九五五年十一月五日にタイム・スリップしてしまう。
タイム・スリップを扱った映画は、概して、そういうことを可能にする装置の理由付けがおそまつだ。要するに、そういうことは大して重要ではないということなのだろうが、この映画で、まず博士の研究室にならんでいる道具類が、ほとんどみなエレクトロニクス以前のテクノロジーを代表する品々であるのはおもしろくない。それに、いくら時間が問題だとしても、チクタクという古典的な時計を一面に並べることもないだろう。歯車時計というものは、エレクトロニク・テクノロジー以前の機械テクノロジーを代表する象徴的存在だ。
とはいえ、〈未来社会〉への不安をストレートに描く形式をとりながら、結局はちゃちなスリラー映画であるにすぎない『未来警察』とはちがい、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』には、通常、過ぎ去ってもはや戻ってはこないと思われている「過去」が、実は、現在や未来によって全くちがったものとしてとらえなおせるのだということを示唆する。
一九五五年に迷いこんだマーティは、三十年まえのブラウン博士に会い、自分がやって来た一九八五年の世界について話す。「一九八五年の大統領は誰だね?」と博士がたずねる。「ロナルド・レーガンですよ」とマーティ。しかし、ブラウン博士は、それを聞くと、冗談言うなと一笑に付し、「それが本当なら、副大統領はジェリー・ルイスだろう」と言う。
実際に、一九五五年に生きていた人たちはほとんど誰一人として、レーガンが大統領になるとは思わなかった。それは、悪い冗談だった。しかし、一九八〇年代は、それを冗談ではなくて、そういうしかたで一九五五年を書き換えてしまったのである。今日の悪い冗談を明日の歴史の真実にはしたくない。
[1984]監督・脚本=マイケル・ラドフォード/出演=ジョン・ハート、リチャード・バートン他/84年英[バック・トゥ・ザ・フューチャー]監督=ロバート・ゼメキス/脚本=ロバート・ゼメキス、ボブ・ゲイル/出演=マイケル・J・フォックス、クリストファー・ロイド他/85年米[未来警察]監督・脚本=マイケル・クライトン/出演=トム・セレック、シンシア・ローズ他/85年米
コクーン
気のせいか、このごろ〈若者〉という言葉が耳についてしかたがない。わたしの方が老いぼれたとは思えないから、実際にマス・メディアで〈若者〉という言葉がひんぱんに使われているのだろう。
いま〈都市の活性化〉をねらったイベントやプロジェクトがいろいろな都市で進められているが、そのとき必ず出てくるテーマが、「いかに若者を都市に集めるか」、「若者が来てくれるような街にするにはどうすればよいか」である。
雑誌やテレビも、〈若者路線〉をつっ走っている。『朝日ジャーナル』が、連載の「若者たちの神々」で〈若者路線〉に転じたのはすでによく知られている。テレビ番組は、〈若者〉を意識していない番組をさがすのが難しいくらいだ。
では、それだけ〈若者〉が本当に歓迎されているのかというと、決してそうではないのだから不可解だ。東京・渋谷の原宿が〈若者〉の街だといっても、実際にそこにまとまった金を落とすのは中年や老年であって、〈若者〉は飲食店や衣料品店で小銭を使うにすぎない。経験者の話では原宿で商売をするのはそう楽なことではなく、喫茶店ですらオーナーの交替が激しいという。結局は経済的な活性化をねらっている都市が求めているのは、中年や老年なのに、それにもかかわらずこれほど〈若者〉を街に集めたがるのは、〈若者〉のにぎわいが中年や老年を呼びよせる小道具になるからだろうか?
しかし、街やメディアを〈若者〉の好みに近づけることが、なぜ他の世代にとっても好ましいということになるのだろうか。「東京の街は、どこへ行ってもガキばかりでいやだ」と嘆く中年や老年は少なくない。が、他面で、今日ほど、中年や老年が〈若さ〉への渇望をいだいている時代はない。健康産業とは、つまりは若さ産業である。老いることへの恐怖は、いやましに強まっている。
〈若者〉を強調するということは、老人差別と裏腹の関係にある。〈若者〉とは、十代の後半から二十代の初めぐらいまでの年齢の者を指すとすれば、この世代は、総人口の一〇パーセントに満たない。そのうちでも、大学生の数は、総人口のわずか二パーセントであり、それに対して、五十歳以上の人は、総人口の二五パーセントもいるのである。この点から考えれば、〈若者〉を重視するということは、極度の差別であることがわかる。
〈若者〉というものは、実はどこにもいないのであり、年齢的に若い人達だけでなく、中年も老年もともにそこへ向かうことを−−それに近づくことを−−求められているような一種の強迫観念としてあるのではないか。
こんなことを考えているときに出会い、非常におもしろかった最近の映画が、ロン・ハワード監督の『コクーン』だった。この映画の主要な舞台は、フロリダ州セント・ピータースバーグの老人ホームである。日本映画ほどではないにしても、依然としてかっこいい人物が出てくることの多いのがアメリカ映画だが、『コクーン』には最初の方から、決して美しいとはいえない老人たちが続々と姿を現わす。老人ホームのレクリエーション・ルームでは、元ブロードウェイの女優だった老女の指導のもとに、老婆たちがジャズダンスを練習している。それは、ひどくグロテスクなシーンであり、〈若さ〉への老人たちのいたましい願望が残酷に映し出されている。
この老人ホームにいる三人の老人、アート、ベン、ジョーの楽しみは、ホームの隣りの敷地にある空き家のプールで泳ぐことだが、わんぱく少年のようにしのびこんでは使っていたこのプールで、彼らはある日、直径一メートルほどの苔むした〈岩〉を発見する。いつもは何もないプールのなかに、その〈岩〉が五つも六つもころがっているのだ。はじめ不気味な感じがした彼らだが、ままよとばかり水に飛びこんでしまった。その瞬間、彼らは、いままでもう長いこと経験したことのないような体の満足感を味わい、それがますます昂進してくるのを感じるのだった。
このときから、三人の老人たちは、急に若いときの体力をとりもどし、夢のような毎日を送るようになる。ダンスもスポーツもセックスも、もう若者にひけをとることがなくなったのだ。これは、まさに現代人の夢を実現したことになる。いま、中年や老年の世代は、どこかでこういう回春を夢見ているので、映画のこのくだりは、実におもしろい。
プールの秘密は、プールに沈められていた〈岩〉で、これは、実は、百世紀まえに地球を訪れ、アトランティス大陸に基地を作ったが、沈没のため生き埋めとなった地球外生物アンタレス星人のサバイバル・カプセルであり、彼を救いにやってきた四人のE・Tたちが、空き家を借り、そのプールを仮りの〈生命蘇生所〉にしたのだった。E・Tたちは、人間になりすまし、船をチャーターして、海底から次々にカプセルを引き上げ、プールに移している。
この秘密は、やがて、三人の老人たちの知るところとなるが、彼らは、その秘密を守ることをアンタレス星人に誓う。しかし、彼らが、妻や友達をプールに誘い入れているうちに、この回春プールの噂が老人ホーム中に広まり、ある日、ホームの老人たちが大挙してやってきて、プールのなかで大あばれをしてしまう。このため、プールに充満していた〈フォース〉(理力)が飛んでしまい、生きかえりつつあったカプセルの中のETたちが死んでしまう。映画のこのくだりも、若くなるためには何でもしかねない現代人の愚かしさがよく描かれている。
ただし、この映画には、一人だけ、人間には自然の摂理があり、〈永生〉を獲得しようとするのはまちがっていると言い、三人の老人がいくら誘っても、プールに入ることを拒否するユダヤ系の老人がいる。彼は三人を批判し、ついには仲たがいをしてしまうが、ある日彼の妻が病死すると、悲しみのあまり、それまで拒否していたプールに彼女の遺体を運び、妻も生きかえらせてくれとアンタレス星人にたのむ。しかし、アンタレス星人は言う。われわれは、これまで死を知らなかった。死ぬことがなかった。しかし、地球に来てはじめて、同胞たちの死をこの目で見た。それは悲しいことだった。だから、あなたの気持はよくわかる。でも、それが地球での生の運命なのだ、と。
仲間を死に導いたのは自分勝手な地球人だったのだが、アンタレス星人のボスは、救出した仲間を乗せて帰るはずだった宇宙船に三十人分の空きが出来てしまったので、もし老人ホームの人でアンタレス惑星に行きたい者がいれば乗せようということになった。映画は、老人たちを乗せたUFOが地球をあとにするところで終わるが、あのユダヤ系の老人は、地球人の道を選ぶことを仲間に告げ、彼らを静かに見送る。
アメリカ映画は、基本的に単純であり、人びとが直視したがらない問題をリアルに描くということは少ない。その代わり、人びとが一般的にいだいている夢の方は、過剰なまでに表わされることが多い。それは、非常にオプティミスティックな傾向が強いのだが、そのあっけらかんとした表情の背後には、現状に対する強い不安が隠されている。
最近のアメリカ映画は、あらゆる夢(逆に言うと不安)をE・Tや宇宙の出来事に託して表現することが多いが、『コクーン』もその例外ではなく、日本以上に日に日に深刻さを増している老人問題への不安とそこからの脱出の夢が、SFに託して表現されている。むろん、現状ではまだ誰もUFOに乗せてもらって不老不死の超能力を獲得するわけにはいかないのだから、この種の映画はただの夢を語っているに過ぎないが、観客もそんなことは百も承知であろう。だから、老人問題から人の目をそらせてしまう機能を果たす一面があるが、他方では、娯楽性のなかで老人問題にわずかなりとも目を開かせる機能を果たしもするのである。
いずれにしても、アメリカでこの種の映画が出てきたということは、この社会が老いの問題を大衆文化のレベルでも問題にせざるをえなくなったということだ。おそらく、日本で〈若者〉、〈若者〉という言葉がかまびすしく叫ばれているのも、その裏返しとしての老人に世の関心の方向が向かいはじめているためであろう。八六年は、それでは、〈老人〉がブームになるのだろうか。
監督=ロン・ハワード/出演=ドン・アメチー、ウィルフォード・ブリムリー他/85年米
コーラスライン/イヤー・オブ・ザ・ドラゴン/オールド・イナフ/タリー・ブラウン、ニューヨーク
映画にとってニューヨークは、実にひんぱんに利用される舞台だが、その大半はニューヨークという具体的な都市はどうでもよく、常にこの都市にはりついた既存のイメージを利用してドラマ的な効果を出そうとしているたぐいのものが多い。それでも、一九七〇年代には、ニューヨークを単に〈小道具〉として使ったのではないニューヨーク都市映画がかなり多く作られた。
そのはしりは、『真夜中のカーボーイ』(一九六九)と『フレンチ・コネクション』(一九七一)であり、この二つの映画で採用されている−−流れ者、犯罪者、下層階級などの側から世界を見る−−観点は、その後のすぐれた〈ニューヨーク映画〉の共通性格になった。マーチン・スコセッシの『ミーン・ストリート』(一九七三)や『タクシー・ドライバー』(一九七六)、ジョン・カサヴェテスの『グロリア』(一九八〇)などは、まさにそうした方向での傑作だが、〈ニューヨーク映画〉の主役が下層階級の人々から中流階級の人々に移りはじめたとき、〈ニューヨーク映画〉は終焉のきざしをみせた。ちょうどその転機を示す代表作が、?嚮牛・しない女』(一九七八)と『クレイマー、クレイマー』(一九七九)である。
都市が少なくとも現在の形態を保っているかぎり、都市の主役は中流階級や上流階級ではなく、あくまでも下層階級だ−−と主張できる都市がいくつかある。
ニューヨークは、そうした都市の一つであり、東京もまだそうした歴史的記憶をとどめている。ここでは、(少なくとも街路では)中・上流階級の人々にも〈庶民〉的になるのでなければつまらないし、さもなければ裸の王様になってしまうのである。
世界の都市には、中・上流階級にとってこそふさわしい都市というものもないではないが、彼らにとって最も似つかわしい場所は、街路であるよりも、むしろ室内なのだ。
今月は、たまたま、ニューヨークを舞台にした映画に四度出会った。リチャード・アッテンボロー監督『コーラスライン』、マイケル・チミノ監督『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』Aマリサ・シルバー監督『オールド・イナフ』Aローザ・フォン・プラウンハイム監督『タリー・ブラウン、ニューヨーク』の四本の映画は、いずれもニューヨークのマンハッタンを舞台にしているのだった。
このうち、わたしは、タリー・ブラウンというニューヨークでは名物的な存在である女性歌手をドキュメントした『タリー・ブラウン、ニューヨーク』に一番〈ニューヨーク〉を感じた。
この作品は、これまで実験的なアンダーグラウンド映画を作ってきた西ドイツの映画作家ローザ・フォン・プラウンハイムがタリーに捧げたオマージュであり、16ミリで撮られている。
従って、画面の鮮明さ、音の立体感といった映画の通常の意味での迫力の点では相当〈貧しい〉映画なのだが、逆にそれがニューヨークという都市のうさんくささやくったくのなさをこちらにじかに伝える作用をしているかのようだった。
『ピンク・フラミンゴ』の怪優ディヴァイン(この映画のパーティ・シーンでその素顔を見られる)とよくまちがえられるというタリーのどぎつい化粧と大げさな顔の造作、かなり肥満した肉体、ツエに頼りながら歩く……クレイジーさと悲惨さのなかにただよう明るさ−−これこそ、まさにニューヨークの街路のイメージである。こういう感じは、どんなに金をかけたセットを用意しても生み出すことができないものだ。
『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』は、『天国の門』の不当な評価のために再帰が危ぶまれていたマイケル・チミノの新しい作品であり、一九七〇年代末から八〇年代にかけてニューヨークのチャイナ・タウンで実際に起こった中国人マフィアの事件を題材にしているが、主役のミッキー・ロークの新しいキャラクターに接するよろこびを満たすことはできるものの、舞台となるチャイナ・タウンが、要するに〈犯罪都市ニューヨーク〉というステレオタイプ化された都市の一つの悪所としてしか表現されていないのだ。
チミノは、『ディア・ハンター』以来、エスニックの問題にこだわってきた。今回の『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』でも、最初の方で、ミッキー・ロークふんする刑事スタンレイが中国人女性のテレビ・ニュース・キャスターに、昔、鉄道開拓の際に多くの中国人の命が安くあつかわれた話をするシーンがある。
しかし、チミノは、エスニック問題に対して〈人道主義的〉な−−いわゆる上空飛翔的な−−観点から対応するのではなくて、アメリカというコンテキストのなかではエスニック・ピープル(少数民族)同士が殺し合いをせざるをえないという現実を突きつけるという形で対応する。
最初スタンレイは、激化するチャイナ・タウンの内部抗争を法的な手段で解決しようとする。一つの独立国を形成し、国や市の力の介入を認めようとしない中国人に対して、スタンレイは、「(君ら中国人は数千年にわたって警察に頼らないでやってきたと言うが)ここはアメリカであり、アメリカの歴史はたかだか二百年だ。時計をアメリカ時間に合わせるべきだ」と言う。しかし、皮肉なことに、彼がまきこまれていったのは、アメリカの〈人道主義〉の世界ではなく、一種の私闘とでもいうべき世界だった。
こうした側面は、アメリカ全体に通じるものであり、日本とは大いに異なるところだが、ニューヨークの場合、それが非常に見えやすい形で存在する。そもそも、ニューヨークには、地域によってそこに住む民族の違いがあり、そうしたエスニックの地域区画がはっきりしている。そして、それがまさにニューヨークのおもしろさであり、活力であり、うさんくささであるが、こうした要素を撮影所のセットで表現することは難しいのである。
『コーラスライン』は、それがニューヨークのブロードウェイのオーディションとリハーサルをそのままストーリーにした一種楽屋落ち的なミュージカルであるという点でも、極めてニューヨーク的なフレイバーに溢れている。しかし、ブロードウェイでロングランしたミュージカル『コーラスライン』は、そのオリジナル(ダウンタウンのパブリック・シアターで一九七五年に初演された)に比べると大味になっていた。このミュージカルは、アメリカの色々な地域から集まった−−人種的にも生き方の点でも−−多様な若者たちがオーディションのしのぎを削るシーンで占められている。ニューヨークは、依然として、ブロードウェイで役を得るオーディションに象徴される自由競争と、一夜にして成功者になるというハプニング性をその特徴としているが、アッテンボロー監督による『コーラスライン』の映画化を見ると、この極めてニューヨーク的な題材がアメリカというもっと大きなわくのなかに移されてしまうのだ。
たぶん、難点は、オーディションを行なう演出家ザック役のマイケル・ダグラスのイメージだろう。アッテンボローは、この人物を非常に陰気でわがままな暴君のイメージで固めている。ブロードウェイの演出家は、一体に暴君であり、また彼らはそれだけの力をもっているが、オーディションの−−大人が泣きそうになるくらい緊張する肉体のなかでもユーモアとずっこけたところが出てくるのがニューヨークなのである。第一、そういうところがなければニューヨークでは気が狂ってしまいかねない。
この映画では、全くそういう部分が欠けているため、何かこの映画は、それぞれに自由な個性をもっている人々が、オーディションとリハーサルでもまれ、最後には演出家の精巧なあやつり人形のようになってゆくプロセスを描いているようにわたしには感じられ、本番の舞台で金色に輝く衣装を着て全員が踊るシーンでは、わたしは何とナチス親衛隊の行進シーンを思いうかべてしまったのだった。それともアッテンボローは、この映画でアメリカの〈フレンドリーなファシズム〉をブロードウェイ・ミュージカルのなかに見出そうとしているのだろうか?
それは、たぶんわたしの考えすぎだろう。
[コーラスライン]監督=リチャード・アッテンボロー/脚本=アーノルド・シェルマン/出演=マイケル・ダグラス、アリソン・リード他/85年米[イヤー・オブ・ザ・ドラゴン]監督=マイケル・チミノ/脚本=マイケル・チミノ、オリバー・ストーン/出演=ジョン・ローン、ミッキー・ローク他/85年米[オールド・イナフ]前出[タリー・ブラウン、ニューヨーク]監督=ローザ・フォン・プラウンハイム/出演=タリー・ブラウン、ディヴァイン他/78年西独
カイロの紫のバラ
テレビで少し顔を知られるようになると、街で見知らぬ人にいきなり挨拶されることが多くなるという。その人の顔をどうしても思い出せないのだが、相手がさも旧知の間柄ででもあるかのように挨拶するので、ついつい「ああ、どうも」などという受けこたえをしてお茶をにごすのだ、とある知人は言っていた。
マス・メディア−−とりわけテレビ−−とは、決して、単なる表現媒体ではないのであって、それはむしろ、もう一つの人格−−いや、マス・メディアにあるとき身をさらした、人格とは無関係に行動するアンドロイド−−をつくり出す。あなたがテレビにたびたび登場し、そのイメージが社会に定着すると、ある日突然あなたとそっくりの風貌−−ただし、その行動や発言は必ずしもあなたそっくりであるとはかぎらない−−の人物が亡霊のように姿を現わし、勝手なことをしはじめる。その間あなたがずっと家にひきこもっているとしても、あなたの分身は有名タレントとスキャンダルを起こしたり、ときにはロサンゼルスで殺人を犯したらしいと噂を立てられたりもする。
たぶん、マス・メディアというものは、そこにたびたび身をさらすと、あなたの情報エネルギーの一部を吸収し、それをもとにしてあなたそっくりの外観をしたアンドロイドをブラウン管や紙面のこちら側に送り出すのだろう。その際、テレビは、その端末がいたるところにあるために、そのようなメディア・アンドロイドを無数にまきちらすことができる。
人口は、もはや生身の人間の数ではかるのでは実態をつかむことができない。生身の人間よりも、メディア・アンドロイドの方により親しさを感じる者も少なくない。メディア・アンドロイドといっしょに食事をし、セックスをし、眠る人々は増えている。国が、もし本当の国勢を調査したいのならば、そうしたメディア・アンドロイドの実態も調べなければなるまい。
こんなことをあらためて考えたのは、ウディ・アレンの最新作『カイロの紫のバラ』(一九八五)を見たためだ。この作品は、一九三〇年代のニュージャージーの小さな町を舞台にし、失業中の横暴な亭主(ダニー・アイエロ)をかかえ、慣れぬウェイトレスの仕事をしている内気な一人の女セシリア(ミア・ファーロー)を主人公にしたコメディだ。セシリアの唯一の楽しみは、町の映画館〈ジュエル〉で映画を見ることで、彼女は同じ映画をくりかえし見ている。この作品にはアレンは役者としては登場しないが、映画館の暗い座席に身をうずめて、スクリーンを見つめていられるならば一日中でもかまわないといったキャラクターは、アレンの旧作『ボギー! 俺も男だ』(一九七一)でアレンが演じた人物を思わせ、また、何よりも若き日のアレン自身を想像させる。
『カイロの紫のバラ』というのは、この映画の題名であると同時に、セシリアがジュエル劇場でくりかえし見ている映画の題名でもある。その映画のなかの映画の方は、ニューヨークに住む金持ちの遊び仲間が、気ばらしにエジプトのピラミッド探検に行き、そこで若い探検家と知りあいになり、彼を連れてニューヨークへもどるという設定。ニューヨークで、この仲間といっしょに遊び歩くうちに、この探検家はあるクラブのステージで歌う魅力的なジャズ・シンガーに恋をする。それは、一九三〇年代の大不況のアメリカではおよそ現実ばなれした話だが、逆にそれだからこそ、セシリアのような不遇な女性にとってはつかのまのロマンティックな世界に遊ばせてくれるかけがえのない機能を果たしたわけだ。
ところが、つらいことばかりの家と仕事場をのがれてセシリアがある日、もう何度目かの『カイロの紫のバラ』を見ていると、映画のなかのヒーロー(この探検家トム・バクスターをギル・シェパードという俳優が演じているという設定になっており、その二役をジェフ・ダニエルズが好演している−−おわかりでしょうか)が、銀幕のなかからいきなりセシリアに「また来てくれたんだね」と話しかけ、芝居をやめて銀幕から客席へ飛び出してきてしまうのだ。そして彼は、セシリアへの愛を告白し、彼女を連れて映画館の外へ出て行ってしまう。
こんなことは、むろん現実には起こりえない。ただし、〈現実〉をもう少しその潜在レベルあるいはミクロ・レベルまで含めて考えるならば、このような〈現実〉は日常茶飯である。
一九三〇年代にはテレビはなかったが、映画はまさに今日のテレビが噂のメディアとして機能しているのと同じ機能を果たしていた。ハリウッドが、〈夢の工場〉と言われたのも、ハリウッド映画がアメリカ人の〈夢と幻想〉を作ってきたからだ。
こうした〈夢と幻想〉はやがて〈現実〉となる。映画のなかで行なわれているように愛しあい、セックスし、結婚することがあたりまえとなる。
一九六〇年代にピルが普及して、フリー・セックスが一般的になったのも、ある意味で、それより少しまえのハリウッド映画が、現実から見るとひどく手間のかからないセックスをくりかえし、アメリカ人の〈夢〉の世界に植えつけたからではなかろうか? やがて現実が、映画の世界を模倣したわけである。
一九三〇年代に連続銀行強盗をやって世を騒がせたボニーとクライドの物語を映画化したアーサー・ペンの『俺たちに明日はない』(一九六七)のなかに、逃避行を続けるボニーとクライドが新聞を見ると、自分たちがやっていない銀行強盗事件が彼女と彼のしわざであるかのごとく書かれているのを発見し、おかしがるシーンがあった。これは、ラジオの登場との相乗作用によってマス・メディアの噂機能を強めていった当時の新聞の状況を的確にとらえたシーンであろう。
ウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』は、こうした時代背景との関連で見ることもできるし、またメディア論的な関心から見てもおもしろい。が、そのような超越論的な(つまり映画のわく組みを越えて何かを論ずる)関心を一切除いても、この映画は実におもしろい。アレンは、近年、『カメレオンマン』(一九八三)と『ブロードウェイのダニー・ローズ』(一九八五)というすぐれた作品を作っているが、『カイロの紫のバラ』は、アレンの映画全体のなかでも最上の部類に属するのではないかと思う。
登場人物が銀幕から飛び出してしまうといった奇想天外な−−しかし、その実、メディア批判的なしっかりした認識にもとづいている−−発想は、アレンの映画に不可欠な部分である。ニュージャージーの小さな映画館で起こった出来事がシカゴでもセントルイスでも波及的に起こりはじめ、配給元のRKOの幹部と問題の探検家トム・バクスターを演じている俳優ギル・シェパードとがあわててジュエル劇場に乗りこんでくるというクレイジーな設定。そのうえ、それほど売れているとは思えないこの俳優の全作品を見ているセシリアに出会ったギル・シェパードが彼女に惚れてしまうくだり。このギル・シェパードと映画のなかから抜け出してきたトム・バクスターとがセシリアをめぐって、三角関係に陥るくだり−−これは、ウディ・アレンのまさに落語的世界である。
日本にはウディ・アレンの熱烈なファンが多数いるのだが、アレン映画の興行成績はあまりかんばしくなく、そのために、配給会社にストックされていても、なかなか公開のメドがつかないことがある。『カイロの紫のバラ』の場合にはそんなことのないことを祈る。ちなみに、『ニューヨーク・タイムズ』映画欄のヴィンセント・キャンビーは、この作品をルイス・ブニュエルの『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(一九七二)やバスター・キートンの『忍術キートン』(一九二四)に匹敵する傑作と評している。それはまんざら誇張ではないと思う。
監督・脚本=ウディ・アレン/出演=ミア・ファーロー、ダニー・アイエロ他/85年米
白い町で/シテール島への船出
外国映画の輸入のされ方が多極化してきた。映画は、いま、二十年ぶりでかなりよい流通環境をもちはじめているように思われる。少なくとも、新聞、雑誌、本やテレビよりははるかにめぐまれた状況にあるといえる。これが書物の場合になると、いま最悪の状態だ。時間をかけて味読するような本を普通の本屋で手に入れることがむずかしい。それは、新聞と雑誌が電子メディアの台頭にあわてふためいて、本来はテレビのようなメディアがやるべきこと(たとえば写真ページの強調)に手を出しているからだ。
そのため、読者は、活字メディアにテレビの機能を求めるようになる。幸か不幸か、日本のテレビは、電子メディアの本来の機能をつかみそこなっているので、活字メディアのこうした迷いは、現在のテレビに対する視聴者の欲求不満を幾分か解消してくれる機能を果たしてくれるというわけである。
しかし、それも時間の問題だろう。早晩テレビは、たとえばアメリカで七〇年代に起こったようなテレビ・メディアの機能変化を短期間に模倣しなければならなくなるだろう−−産業の要請というやつで。そしてそのとき、テレビのマネをしていた活字メディアは、一挙にメディアの前線から脱落することはいうまでもない。おそらく、活字メディアがおもしろくなるのはそれからだ。
映画は、テレビの普及によってその存立基盤を危機にさらされることによって逆におもしろくなった。観客も、テレビがひととおり浸透し、テレビの限界を感じはじめてこそ、映画を再評価する。日本では、目下、ロードショウ・フィルムを見られるヴィデオが普及しはじめた段階であり、新作映画をどんどん放映するCATVはまだ普及してはいないから、映画はまだ本当の試練にさらされているとはいえないが、テレビ離れも映画志向とは無関係ではない。
最近、映像に関心のある者のあいだでは、8ミリ映画が復活している。映像を撮るということで言えば、VTRの方が費用の点でも軽便さの点でも有利なのだが、一本のフィルムで三分間しか撮れず、それを見るには現像をしなければならないという制約が逆におもしろいというのである。VTRでは、モニターに映ったとおりの映像が撮れるわけだが、8ミリ映画では、現像から上がってくるまで何が映っているかわからないというところがある。それは、電子メディアが限りなく消去してゆく時間の持続というものを依然として保持しているのであり、いわば瞬間の文化に疲れた現代人にとっては、一つの救いの機能を果すのかもしれない。
アラン・タネールの『白い町で』(一九八三)のテーマは時間である。ようやく日本でも知られるようになったこのスイスの偉大な監督の作品は、『ジョナスは2000年に25才になる』や『光年のかなた』などでも明らかなように、時代状況−−とりわけ政治的な−−を回避せずに生きる個人や集団を真正面から見つめる。英語でもフランス語でもドイツ語でも、〈時代〉と〈時間〉は同じ語time、temps、Zeitで表現される。時代にどう対応するかということは、ある意味で時間をどうとらえるかの問題でもある。
映画の〈時間〉を月並みに受けとれば、そこには映画の解説ではおなじみの〈ストーリー〉が浮かび上がる。しかし、『白い町で』には、単にストーリーを追うことをためらわせるようなシーンがある。機関士として船に乗っていた主人公ポール(ブルーノ・ガンツ)がポルトガルのリスボンで船を下り、市内に入って行く。また船が出るまで陸の生活を楽しもうというのか、それとも、しばらくこの街に滞在しようとしているのかどうかはわからない。
ポールは、8ミリ撮影機で街を、そして自分の姿をカメラにおさめる。庶民生活のにおいがむんむんとただよってくるような路地へ市電が入って行くときも、彼はカメラを離さない。
酒場があり、カウンターでビールを注文する。ポールの母語はドイツ語だが、カウンターの女性とはフランス語で話す。ひと目で、彼は彼女に関心をもったようだ。その酒場に逆まわりの時計がある。「時計が逆なのではなくて、世界が逆に回っているのよ」、「だから世界を逆に回せばいいんだね」。こんな会話をポールはカウンターの女性と話す。彼は、この酒場が経営している安ホテルに泊まることにする。
こうした意味あり気なシーンに出会うと、この映画を見る方も、この映画の時間を逆に回してみたい気になってくる。が、それにはこの映画の月並みな時間性を一応たどるところから出発しなければならない。実のところ、一種のドラッグのような〈魔力〉で、観客を拘束しようとするハリウッド映画のような場合は難しいとしても、映画を見るということは、時間のなかをさまよい歩くことだ。
いま見えている映像がふっと少し前の映像をよみがえらせ、また映像の〈外部〉の記憶や想像にあなたを誘う。こうした時間の遊歩の自由に乏しい映画はプロパガンダ映画である。
『白い町で』の終わりは、ポールが列車でスイスへ向かうシーンである。バーのカウンターにいた女性との短い愛。ビリヤードでサイフをすった男を見つけ、そのあとを追い、男を問いつめたことから、傷を負わされたポール。彼が手紙の代わりに8ミリ・フィルムを送りつづけるスイスの女性は彼の妻なのか、それとも恋人か? 彼は、二人の女性を愛している。スイスの女性は、ポールから届く8ミリ・フィルムを映して、そこに見知らぬ女性の姿−−ときにはベッドのうえで裸の−−を発見して動揺する。彼女はドイツ語で彼に手紙を書く。彼は、その手紙を郵便局に取りに行く。
映画のなかに時折挿入される8ミリの荒れた画面がポールの意識を他の35ミリの映像よりも一層直接的に伝えるように見えるのはおもしろい。その画面はとりとめもなく、撮り方は拙劣だ。しかし、映画の制度化した時間を全く気にしないこの8ミリ映像こそが『白い町で』の基本的な時間なのだ。
ポールが撮影し、スイスに郵送する8ミリ・フィルムに映っているものと、35ミリで鮮明に、そして魅力的に撮られているリスボンの下町で起こる諸々の出来事とが必ずしも連関しあっていなくてもよい。8ミリの映像はどこかの街で撮られたものでもよい。そのフィルムをポールが船のなかで見、それにさまざまな想像を付け加えているのでもよい。8ミリの映像の時間を〈実〉とみなし、35ミリの時間を〈虚〉とみなしてみよう。そうすれば、映画が進行するとともに与えられる通常のストーリーとは別のものがいくつも浮かび上がってくるだろう。
ギリシャのテオ・アンゲロプロス監督による『シテール島への船出』(一九八四)にも似たようなところがあった。
この映画は、三十二年前に反動政権を逃れてソ連に亡命した父を主人公とする映画を撮ろうとしている映画監督アレクサンドロス(ジュリオ・ブロージ)がたまたま見かけた花売りの老人に父親のイメージを発見し、その老人を追って行くところが導入部になっている。その老人の姿が見えなくなったかと思うと、この老人は次の瞬間、ソ連から三十二年ぶりに船でギリシャにもどってきた彼の父親としてふたたび姿を現わす。その接合のしかたは見事であり、観客はいつのまにか別の時間のなかにいる自分を見出す。
しかし、?囈窒「町で』にくらべると、『Vテール島への船出』には、観客がその時間をさまざまに接合しなおしてみる自由さは少ない。むしろこの映画は、長いあいだ抑圧に耐えてきたギリシャの民衆が、解放後のいま、その抑圧の記憶を圧縮した形でたどりなおすためのものだ。その意味ではおそらくギリシャ人にとっては、『シテール島への船出』は、逆に『白い町で』よりも時間のさまざまな変換がきく映画であるだろう。
[白い町で]監督=アラン・タネール/出演=ブルーノ・ガンツ、テレーザ・マドルーガ他/83年スイス・ポルトガル[シテール島への船出]監督・脚本=テオ・アンゲロプロス/出演=ジュリオ・ブロージ、マノス・カトラキス他/83年ギリシャ
1941/ランボー 怒りの脱出/ザ・リバー/ファンダンゴ/ティーン・ウルフ/セント・エルモス・ファイアー
スピルバーグが監督した『1941』のなかに、大日本帝国海軍の潜水艦が北カリフォルニアの海岸からハリウッドを砲撃するスペクタクル・シーンがあった。工場や軍事基地ではなく、映画産業の本拠を破壊しようとするところがおもしろいし、艦長をクロサワ映画の三船敏郎が演じているところにも含蓄がある。というのは、アメリカの大衆意識を決定するうえで、ハリウッド映画(商業映画)の影響力は政治家のメッセージよりも大きいからである。第一、レーガンが大統領になってしまったことがそのことをよく物語っているではないか。もし、ハリウッドの映画産業が破壊されでもしたら、アメリカ政府は致命的な打撃を受けるだろう。
その意味で、ハリウッド映画ほどアメリカの大衆意識−−というよりも政府・企業・文化機関総体の〈意識〉が求めている大衆意識−−を反映しているものはない。それは、おそらく、社会主義圏のイデオロギー的傾向の強い映画や国策映画に近いとすらいえる。異なる点は、メッセージを露骨に出さないだけである。
アメリカの商業映画がこのような性格をもつにいたったのは、映画製作がますます巨大化し、一つの産業になったからでもある。経費の点からみても、たとえば、?嘯P941』には四千万ドルかかったし、『宴塔{ー/怒りの脱出』には、三千万ドルの製作費が投入された。こうなると、資本の動きだけみても、それが当たるか当たらないかは社会や政治の動きと無関係ではいられない。
日本の評論家のなかには、「『ランボー』は、現代アメリカの政治状況とは何の関係もない。これを政治主義的に観る輩もやはりバカであろう」(すが[糸+圭]秀実、『映画芸術』一九八六年二月合併号)などとのんきなことを言う者が多いが、こういう輩こそやはりバカなのではないか?
かつてジョン・ミリアス監督の『若き勇者たち』という偏狭な祖国愛プロパガンダと反共意識まる出しの映画が封切られたときにも、これはジョン・フォード映画の引用なのであって、政治とは何の関係もないという言説をはく評論家がいた。いま、フォード映画の政治的機能はおくとしても、そんなことを言うのならば、オーストラリアの雑誌でピーター・ウェイスという映画評論家が次のように書いているデリケートさがほしいものだ。
「極めて出来のいい映画だ。その教訓は、右翼的な愛国主義のそれだが、露骨なファシスト的やり方でよりも、むしろ(ジョン・ミリアス監督が敬愛する)ジョン・フォードの保守的・個人主義的伝統を学習させるやり方でなされている」。
ヴェトナムに抑留されているアメリカ人捕虜を密かな国境侵犯を敢行してでも奪還してしまうことを当然のことのように描いている『ランボー』のような映画を作るためには、そういう内容をよしとするスポンサーがいなければならない。
それが実際にいたからこそ、この映画は出来たのであり、この映画製作を媒介にして右翼や軍人の組織の回路を膨大な資本が回転したのである。この映画の社会効果を当面カッコに入れたとしても、これによって戦争肯定者や反共主義者たちが金銭的にうるおったことは事実なのだ。公開後たった六日間で三千二百五十万ドルもの興行収入をあげた映画が「現代アメリカの政治状況」と無関係とはよく言う。
最近のハリウッド映画のなかで目立つ一つの傾向は、連帯への意志である。仲間、家族、地域や階級を同じくする者たちとの連帯・友情関係をきまじめに問題にする映画が増えている。
マーク・ライデル監督の『ザ・リバー』は、その典型である。アメリカでは、近年、小・中農業層の解体が深刻な問題になっている。それは、むろん、自然現象ではなくて、レーガン体制でエスカレイトした——中・上流階級の利益を重視して下層を切り捨てる政策の結果であり、重工業や農業中心からハイテク中心に移行しつつあるアメリカ産業の構造的必然である。『ザ・リバー』は、少し技巧的な映画を見なれた者なら当惑をおぼえるくらい正攻法で小農民の生活を描き、かつてのイタリアのネオ・リアリズムの手法を思わせる。雨期には必ず農地が水びたしになってしまう土地。そこでつつましく暮らしている一家(メル・ギブソンの夫、シシー・スペイセクの妻、二人の子供)。農地を買収してダムを建設しようとしている穀物会社の重役(スコット・グレン)。
こうした設定のなかで大雨が降る。農作物が水につかってしまい、穀物会社からは値切られ、収入の道を断たれたギブソンは銀行から金を借りようとするが、グレンと結託した支店長はローンの申し込みを断わる。ギブソンの収入の道を断てば、土地を売るにちがいないというわけである。
アメリカの農業地帯には、ギブソンたちのように限界状況に立たされた農民が家財道具を金に換えるオークション市があるらしい。映画は、このシーンを実にリアルに描いており、一見に値する。セリを行なうディーラーの独特の口調が熱気をおびてくればくるほど、家具や愛蔵品を手放さなければならない売主たちの顔には悲しみと苦悩の色が濃くなる。買う方も、決して楽しいものではない。市というにはあまりに不条理な市ではないか。
こうした二重の屈折は、ギブソンが出かせぎのために鉄工所へ行くシーンにもよくあらわれている。鉄工の仕事があるというので所定の場所に行くと、ギブソンはそこに集まった数十人の仲間たち(大半は、生活に窮した農民たち)といっしょにトラックに乗せられて工場に連れていかれる。ところが現場には、ピケが張られており、そこはストライキ中の工場であった。重工業や農業を〈安楽死〉させようとしている現在の体制下で鉄工所が隆盛であるはずもない。こうしてギブソンは、自分が救われるためには他の人々(鉄工所で働く労働者たち)を結果的に搾取する立場に置かれるというジレンマに直面するのである。
タコ部屋のような工場で数週間の重労働につき、賃金を受けとると、ギブソンたちはピケのなかを自力で脱出しなければならなかった。手配師は、行きにはトラックでピケに突入したのに、帰りにはトラックを出さなかったからである。不穏な空気が流れる。ギブソンたちの行手をさえぎる工場労働者たち。が、次の瞬間、労働者たちはその隊列を少しずつ開き、道を開ける。こわごわと前に進むギブソンたち。どちらも体制の犠牲者なのに、両者が敵同士にさせられてしまう残酷さ。工場労働者がずらりと居ならぶ垣根のあいだを沈うつな表情で外に向かうギブソンたちに罵声が浴びせられ、唾が飛ぶ。
連帯が強調されるのは終わり近くのシーンである。ふたたび雨期になり、河の水かさが増す。ギブソンたちは、近所の仲間たちと必死で土のうを積む。しかし、穀物工場の重役は、この機とばかり、他の農民たちに金を与え、堤防をくずさせようとする。両者の闘い。が、重役に買収された者たちも、自分たちの愚かさに気づく。野望を断たれた重役の面前で農民たちが一丸となって防水作業をはじめる。
ひねくれた物語に慣れた者には、ちょっと話がうますぎるような気もするが、『プレイス・イン・ザ・ハート』やこの映画のようなある種〈社会主義リアリズム〉的な方向の映画が現在のアメリカで作られ、一定数の観客を動員しているということは、それだけ、このような内容に共感する層が存在するということでもある。
『ファンダンゴ』、『ティーン・ウルフ』、『セント・エルモス・ファイアー』のような〈青春もの〉にも、連帯志向がひしひしと感じられる。とくに『ファンダンゴ』は、スタイルのうえからも新しさにあふれているが、七〇年代の若者たちを描きながらも、その時代の青春映画の傾向とくらべると、助けあうことや連帯を美しく楽しげに描いている。
アメリカは、変わるのか?
[1941]監督=スティーヴン・スピルバーグ/脚本=ロバート・ゼメキス、ボブ・ゲイル/出演=ジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイド他/79年米[ランボー/怒りの脱出]監督=ジョージ・P・コスマトス/脚本=シルベスター・スタローン/出演=シルベスター・スタローン、リチャード・クレナン他/85年米[ザ・リバー]監督=マーク・ライデル/出演=メル・ギブソン、シシー・スペイセク他/84年米[ファンダンゴ]監督・脚本=ケビン・レイノルズ/出演=ケビン・コスナー、シャド・ネルソン他/84年米[ティーン・ウルフ]監督=ロッド・ダニエル/脚本=ジョゼフ・ローブ、マシュー・バイスマン/出演=マイケル・J・フォックス、スーザン・アーシディ他[セント・エルモス・ファイアー]監督=ジョエル・シュマッチャー/脚本=ジョエル・シュマッチャー、カール・カーランダー/出演=ロブ・ロウ、エミリオ・エステベス他/85年米
マドンナのスーザンを探して
マドンナが、アメリカのポップ・ミュージック・シーンに登場したとき、わたしはマドンナの社会的機能をいささか誤解して受けとった。それは、彼女の写真を掲載した日本の雑誌から受けた第一印象が、マリリン・モンローやグレタ・ガルボを思わせたためだった。しかし、彼女が歌っているヴィデオを見て、マドンナは、かつてマリリン・モンローが果たした機能とは全く違う社会機能をもっていることに気づいた。
モンローは、アメリカのロマン主義的な夢(アメリカン・ドリーム)のシンボルだった。美しく、セクシーで、映画のなかのキャラクターがそのまま私生活であるかのような人生を生きている女−−それがモンローだった。むろん、そんな女は現実にいるはずがない。それは、ウディ・アレンが『カイロの紫のバラ』で鋭くとらえたように、銀幕のなかにだけしか存在しないのであり、それがもし現実世界に姿を現わしたら、とんでもないことが起こるのである。実際に、モンローは、銀幕の外の彼女の実人生においてアメリカの夢の体現者と生身の自分とのギャップにさいなまれ、結局は映像世界に抹殺されたのだった。
リアルに現実を直視するならば、やがてヴェトナム戦争に突入する冷戦の時代は、〈夢〉とは全く相反する時代であったはずなのだが、それを認めようとはしないところに権力システムの本質がある。権力とは、本来、無理とやせがまんのうえに成立している。権力にとって組織は不可欠だが、その組織はやせがまんでもっている。あなたがもし大会社の社員だとして、あなたがあるときふと感じる虚しさや倦怠感を無理にがまんしないでそのまま受けとめ、同じことを他の人たちがみな行なうならば、組織は機能しなくなるはずだ。とにかく、本当は何も守るべき根拠などないものを守らなければいけないかのような幻想をいだいているからこそ、システムは存続しているのである。
モンローが、味気ない現実から人を逃避させるために効果的な機能を発揮した時代から二十年以上たった今日、ハリウッド映画の機能は必ずしも「夢工場」だけではなくなっている。それは、大統領自身が一つの虚構的パーソナリティになってしまい、政治がメディアを追いこしてしまったからでもある。むしろ、今日のアメリカの権力システムは、〈夢〉よりもシニシズムを必要としているようにみえる。「レーガンってのはどうしようもない」と皆が口々に言うことが、権力システムを逆に円滑に機能させるのである。
その意味ではマドンナは、より今日的なニーズに応える女優である。彼女には、その風貌とは裏腹に、さめたシニシズムとパンク精神がある。マドンナは、空想的な夢のシンボルとはなりえない。が、だからといって何か反社会的な機能をもっているのではなく、むしろマドンナは、レーガンがアメリカの夢を代表している気恥ずかしさを相殺する解毒剤的機能を果たしているのである。
女性監督スーザン・シーデルマンの『マドンナのスーザンを探して』は、こうした夢とシニシズムの弁証法を映像化している点で出色の映画である。マドンナが出ていることも象徴的だ。この映画でシーデルマンは、マドンナのシニカルでパンク・スター的な持ち味を余すところなく生かしている。彼女の役は、たぶんマンハッタンの貧民街で育ち、街っ子なら誰でもやる悪いことをひととおりやりつくしたすれっからしの娘である。彼女−−スーザン−−は、アメリカの権力システムがふりまくような夢には踊らされない。
それは、映画の冒頭のエピソードですでにはっきりとあらわれている。ベッドに男が寝ているかたわらで、スーザンが男の持ち物を物色している。おそらく、この男はスーザンと前の晩に知りあい、ホテルに泊まりこんだのだろう。スーザンは売春婦ではないが、セックスをしたからといって相手の男を信用したりはしない。が、男の方は女を信用しているのか、あたりに金目のものを放置したままねむりこけている。スーザンが、この男のカバンをこっそり持ち出したことはいうまでもない。
この映画ではニューヨークのダウンタウンがよく撮れている。マンハッタンは、この十年間に急速にその相貌を変えた。スラムがなくなり、小ぎれいな建物がふえた。しかし、街がどんなに優美になっても、マンハッタンは着飾ったヤッピーやおのぼりさんだけの街にはならないのである。たえず外から流れ込んでくる一種の〈遊牧民〉たちが街にたえずうさんくさい要素をもちこみ、街を活気づけている。だから、マンハッタンは、〈夢〉の街というよりも〈劇〉の街であり、そこには喜劇も悲劇もあるわけだ。
『マドンナのスーザンを探して』のもう一つの線は、ニュージャージーに住むアッパー・ミドル・クラスの女性ロバータ・グラス(ロザンナ・アークエット)である。彼女の夫は弁護士であり、衣食住に不自由はない。アメリカの平均的な意識からすれば、こうした郊外生活は〈アメリカの夢〉をかなり満たしている。
郊外の一戸建ての広い家での自由な生活は、少なくとも一九四〇〜五〇年代にはアメリカ人の平均的な夢だった。
しかし、ロバータは、何となくニュージャージーの生活に違和感を感じている。それは、おそらく、いまでは郊外生活者の平均的な無意識かもしれない。アメリカ人は、もはやかつての〈夢〉がただの夢でしかないことをよく知っている。「アメリカの夢」はいまや退屈さのなかにしか見いだすことができない。
ロバータを満たすことができるのは〈夢〉ではなくて、〈劇〉であろう。それは、マンハッタンにはあってもニュージャージーには乏しいところのものである。彼女は、結局、家を捨ててマンハッタンにやってくるのだが、そのきっかけとなったのは、スーザンのボーイフレンドがたわむれに新聞に出した「必死にスーザンを探している」(この映画の原題)という三行広告だった。一体どんな男がこの広告を出したのだろうか? スーザンだったら気にもかけない広告をひどくロマンティックに受け取ってしまうところが郊外生活者ロバータのロバータたるゆえんである。彼女は依然として〈夢〉を求めている。それは、本当は〈夢〉ではなくて〈劇〉であるにもかかわらず。
この映画の〈劇〉は、ロバータが偶然スーザンとまちがえられてしまうところから起こる。そして、事故で頭を打ったロバータが一時的に記憶を喪失して自分自身がスーザンだと思いこんでしまうにいたって話がいりくんでくる。他方、スーザンの方はマンハッタンの街っ子から少しずつミドル・クラスの女に変貌していく。
はじめわたしは、この映画は、スーザンとロバータの人格交換をかなめにしているのかなと思った。が、実際にはそうはならずに、スーザンはスーザンであり続けた。映画のなかには、スーザンがロバータのニュージャージーの家に行き、つかのまアッパー・ミドル・クラスの気分にひたるシーンがあるが、これはスーザンには似つかわしくない。むしろこのシーンは、スーザンが「アメリカの夢」を茶化しているように受け取ることもできる。マンハッタンの街っ子にとって、郊外のミドル・クラスの生活は、一瞬〈夢〉に見えるとしても、次の瞬間には、とても趣味じゃないという気にさせるものなのである。
この映画の批判的な側面は、ロバータがマンハッタンに来て、マフィアにつけねらわれたり、並たいていでない〈劇〉を体験し、男に従属しない〈自立〉した生活を経験するが、記憶喪失からもどってみると、それはつかのまの?末イ?誤植〉ナしかなかったという点である。
これはロバータという映画の一登場人物にだけでなく、平均的なアメリカ人全体にあてはまることであり、いつまでたっても空想的な〈夢〉を捨てきれないアメリカに通じている。
監督=スーザン・シーデルマン/出演=マドンナ、ロザンナ・アークェット他/85年米
愛と哀しみの果て/カラーパープル/ナインハーフ
ニューヨークの映像状況で、三年まえと比べてはっきりと変わったといえるのは、ヴィデオのレンタル・ショップの急増と、映画館を仕切って複数の映画を見せるマルチプレックス方式の流行である。
ヴィデオは以前からかなり浸透していた。映画のヴィデオを売る店も、エンパイア・ステイト・ビルの近く、タイムズ・スクウェア、ウォール・ストリート周辺などには何軒もあった。しかし、レンタル店はこれまで全くなかったし、そうしたヴィデオを買う人も、多くは観光客だった。が、最近のヴィデオの浸透ぶりからすると、CATVよりもヴィデオの方が広範に普及する可能性があるように思われる。ニューヨークには何十チャンネルものCATVがあるといっても、ニューヨーク市内でその恩恵に浴せるのは、まだマンハッタンとクウィーンズの一部だけで、ブルックリンやブロンクスでは、見ようにも回線が通じていないのである。その点ヴィデオは、カセットさえあれば、どこででも見ることができるから、普及率は高い。広いスペースにカセットをずらりと並べたハイテック・デザインのヴィデオ・レンタル・ショップで五本も六本もヴィデオ・カセットを借りて行く客たちの姿を見ていると、かつては有望視されたCATVも、先行きは決しておもわしくないことが予想される。「もっと大きな画面で見たいよ」というのは、最近のニューヨークの映画好きが一度はもらす言葉である。すでに五、六年まえから現われはじめたマルチプレックス方式は、いまや大抵の映画館が取り入れる上映方式になってしまった。グリニッジ・ヴィレッジにあるブリーカー・ストリート・シネマ(『マドンナのスーザンを探して』に出てくる)のような小さな映画館まで劇場を三つに分け、別々の映画を同時上映している。大きな劇場では内部を四つに仕切っているところまである。
マルチプレックス劇場は、映画産業の生き残り策の一つであり、当面、それは成功している。しかし、これが映画メディアそのものを活性化させるかというと、それはかなりあやしいといわざるをえない。劇場が分割され、その分だけ劇場の数がふえたため、従来は劇場ごとで上映作品が異なっていた傾向が少しずつ薄れはじめている。日本の映画館(銀座、新宿、渋谷で同じ映画が上映される)に比べれば、ニューヨークの映画館はまだ多様だし、地域によって上映作品が相当ちがっているが、従来に比べれば、画一化の度合いは強まっている。本当は数がふえただけ外国映画や旧作をどんどん上映すれば映画環境は質的に厚みが出て、活気づくはずだが、実際には、これまで空席が目立った劇場の合理化を進めただけのことのようだ。
この分でいくと、アメリカ映画はテレビに吸収されかねないという気がする。先日、ジャック・ケルアックに関するドキュメンタリー映画を見たとき、かなりの部分がヴィデオからの転写によって作られていたのだが、映画のスクリーンに伸ばされたヴィデオ映像が解像力の点でそれほど劣っていないのに驚いた。これでは将来、フィルムが単にヴィデオの保存機能だけを果たす(現状では磁気テープはフィルムよりも耐久年数が低い)ということにもなりかねない。
映画の上映環境は悪化しているとはいえ、ニューヨークで現在上映されている映画のなかには、『ブラジル』、『サルヴァドール』、『ハナとその妹たち』、『マイ・ビューティフル・ランドレット』といったすぐれた作品がまだ数多くある。ミュージアム・オブ・モダン・アーツ、フィルム・フォーラム、ジャパン・ソサエティなどは、明確なテーマとポリシーを保持しながら、シリーズ上映を行なっている。
現在こちらで上映されていて、日本でも近々上映される(あるいはすでに上映されている)ものは、そう多くない。シドニー・ポラックの『愛と哀しみの果て』は、アカデミー賞を取ったため、まだやっている。スティーヴン・スピルバーグの『カラーパープル』も、前評判がすごかったのでまだ観客を集めているが、わたしにはどちらもそれほどすぐれた映画とは思えなかった。とりわけ、『愛と哀しみの果て』のいい気なナルシシズムは耐えがたい。メリル・ストリープの演技は非常にすぐれているのだが、レーガンがリビア爆撃の口実にした「デモクラシー」や「正義」に通じるものが随所に現われていて、うんざりする。同じことは『カラーパープル』についてもいえる。この映画は、ここでとりあげられている黒人家庭、マチズモ、差別といった点から見るよりも、主人公をもう一人のETとみなすことによって、別の解釈が可能だと思うが、さもないと、この映画は、黒人を単なるステレオタイプで表現しているつまらぬ映画に見えてくる。
こうした大作よりも、わたしは、最近のニューヨークの都市的・社会的変化との関連でエイドリアン・ライン監督の『ナインハーフ』をおもしろく見た。雨の降る日曜日の夜十時からだったためか、アップ・タウンのローウズ・パラマウント劇場はガラガラだったが、スクリーンは大きかった。
散漫な意識で見ると、またニューヨークという都市について全く知らないと、この映画は、ソーホーの画廊で働く中年女性エリザベス(キム・ベイシンガー)がふとしたことからウォール・ストリートに大きな事務所をもつ魅力的な男性ジョン(ミッキー・ローク)と出会い、マンハッタンを舞台に逢引きをかわすといったメロドラマとして受け取られかねない。しかし、街の描写が非常にステレオタイプ的であること、エリザベスが孤独な気持におちこむ(彼女は離婚して間もない)と、すぐさまジョンが姿を現わすといった〈不自然〉さに注意すれば、この映画の目は、完全にエリザベスの意識に合わされていることがわかる。
マンハッタンにいくらヤッピーがふえたからといっても、四台のビデオモニター、ハイテック・デザインの家具、天体望遠鏡などのそろったペントハウスに住み、「友達のだよ」と言うが、どうやら自分のものらしい別荘的アパートをいくつももっていて、いつも女をプレゼントぜめにするジョンという人物は、孤独な女が、あるいは少女小説家がよく思い描く〈ロマンチックな男性像〉にすぎない。
さもないと、エリザベスが、ジョンとの逢い引き以外の場面で、なぜあんなに沈うつな顔をしているのかがわからなくなるだろう。パーティで皆が楽しそうにバカ話をしているとき、仕事場で同僚の男女が冗談を言いあっているとき、エリザベスは急に孤独な表情を浮かべ、次の瞬間、画面にはジョンとの絵にかいたようなラブシーンが現われる。これらは、いわばエリザベスの夢であり、想像なのである。
〈映像〉を英語で〈イメージ〉というように、映画の世界は夢と想像をかきたてる。ボーイ・ミーツ・ガール的なロマンは、メロドラマ的なロマンを夢見たい観客の願望をみたす装置である。誰一人として、映画の世界が〈現実〉だなどとは思ってはいない。だから、ポルノを見て性犯罪を犯し、殺人映画を見て人殺しをするなどということはありえないのだ。映画はむしろ〈現実〉からの逃避ないしは超越である。しかし、そんなことだったら、映画よりも酒やドラッグの方がいいのではないかというのがブレヒトの映画批判の要諦だった。映画を見ながら、むしろ現実を発見することはできないか。ブレヒトの「叙事詩的映画」が目指した機能はこのことだった。
『ナインハーフ』は、ある点で叙事詩的映画の方法を具体化している。一方に具体的な都市ニューヨークを前提とし、他方にそのさまざまなステレオタイプ現象を置き、両者のあいだに主人公の揺れる意識を設定する。ただし問題は、観客が具体的なニューヨークを知らないと映画自体が観客を主人公のパラノイアに同化(異化ではなく)させてしまう点だ。従って、この映画をニューヨークの外で叙事詩的映画として見ることはむずかしいのである。
[愛と哀しみの果て]監督=シドニー・ポラック/脚本=カート・リュードック/出演=ロバート・レッドフォード、メリル・ストリープ他/85年米[カラーパープル]監督=スティーヴン・スピルバーグ/脚本=メノウ・マイジェス/出演=ダニー・グローバー、ウーピー・ゴールドバーグ他/85年米[ナインハーフ]監督=エイドリアン・ライン/出演=ミッキー・ローク、キム・ベイシンガー他/85年米
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