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ビデオドローム

 テレビ受像機がラジオのように小型化し、どこでも映像に接することができるようになる日は、そう先のことではない。すでに液晶スクリーンのポケット・テレビは実用化されているし、タクシーのなかで目にする小型テレビの映りはなかなかのものだ。
 この分で行くと、ヴィデオ映像(テレビやVTRの映像の総称)に囲まれた生活というものが普通になるかもしれない。音の世界では、四六時中スピーカーやヘッドホンの音を浴び、ほとんど生の音に触れずに生活するということがそれほど異常ではなくなっている。
 こうして出来る音や映像の世界は、自分の外に広がる環境というよりも、自分を音や映像として拡大したナルシシズム的な分身である。それは、ボタン一つで自分の望みどおりに変わり、他者のように自分に逆らったりはしない。
 しかし、自分を拡大して行けば、どこかで他者の世界にぶつかり、相手の世界を侵略することになる。そのため、音や映像を遍在させるエレクトロニク・テクノロジーの過剰な発達は、万人が巨大な電子の世界を共有するか、あるいは、一方が他方の電子世界にのみこまれるか、といった二者択一をせまる。
 長らく公開が待たれていたカナダ映画『rデオドローム』iデイヴィッド・クロネンバーグ監督、一九八二)は、まさにこのような近未来社会をぞっとするような迫力で描いている。
 主人公マックス(ジェイムズ・ウッズ)は、ある日、刺激的なビデオ映像を見て以来、映像世界にのめりこんでいく。それは、「ヴィデオドローム」という映像の一つだったのだが、やがてその映像はマックスの「現実」世界と癒着し、ヴィデオ・スクリーンの映像世界が彼の肉体を侵しはじめる。
 マックスは、最後に、自分の肉体を破裂させて、ヴィデオ映像と自分とを一体化させるのだが、現実はそれほど簡単には行かないところが問題である。
前出◎85/ 6/26『山陰中央新報』




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