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パリ、テキサス
ハリー・ディーン・スタントン扮する疲れはてた人物が殺風景な荒野に姿を現わしたとき、すぐに思いうかんだのが、サム・シェパードの戯曲『埋められた子供』と『飢えている階級の呪い』だった。アメリカの西南部を舞台にしたこの二つの作品には、味気ない生活のいらだちを家族にあたりちらす手のつけられない父親が登場するが、なぜかその父親は、どちらの舞台でも、トラヴィスがかぶっているのと同じふちなし帽をかぶっているのだった。
この種のキャップは、別に特殊なものではなく、アメリカの田舎ではキャップをかぶった老人によく出会う。しかし、サム・シェパードのこの二つの劇のなかで帽子をかぶっているのは父親だけなので、それは、この登場人物を他と区別する象徴記号になる。
『パリ、テキサス』においても、キャップをかぶっているのはトラヴィスだけだ。そのため、トラヴィスは、最初から他の登場人物とは異質の存在である。
この種のキャップは、別に特殊なものではないが、シェパード劇では、二つの作品をつなぐ象徴記号になっていることは確かであり、彼が脚本を書いているこの『パリ、テキサス』でふたたび同じ記号に出会うと、どうしてもそこに一つのつながりを感じざるをえないのだ。
しかし、トラヴィスは、シェパード劇の父親たちとは決定的にちがっている。トラヴィスは、彼らのように暴力的ではないからだ。物語が進行するにつれて、トラヴィスにはかつて妻と子供がいたが、彼は、妻の気持を独占するために暴力をふるうようになり、彼女は子供をつれて彼のもとを逃げ去ったということが暗示される。その意味では、トラヴィスは、シェパードの粗野な狂気の世界の出身なのだが、映画はまさにそのような世界が終わったところから始まる。
映画は、最初、サム・シェパード劇ではおなじみの西南部テキサスからはじまるが、舞台は、じきにロサンジェルスとヒューストンに移る。これは、ある意味で、シェパードからヴィム・ヴェンダースの世界への移行であり、シェパードとテキサスが、トラヴィスにとって〈゜去?誤植〉?意味するとすれば、ヴェンダースとロス/ヒューストンは〈現在〉を意味している。そして、結局はどこにもない−−メディアのなかにしかない−−パリは、トラヴィスの〈未来〉であり、映画の終わりでも、彼がこのパリ=メディアへのはてしない旅を続けることが暗示される。
シェパードが脚本を書き、ヴェンダースが演出したというプロセスは、そのまま、演劇から映画へ、荒野から都市へ、演劇的(つまり生身の肉体が重要な)キャラクターからメディア的(つまり電話、双眼鏡、トランシーバーといったメディア装置がないと人に対応できない)キャラクターへという移行のプロセスに対応している。
メキシコ国境ぞいのテキサスの荒野に忽然と現われるトラヴィスは、演劇の舞台にすっ裸で投げ出されたメディア人間である。彼は、生身の人間に弱い。荒々しい世界に対してメディアを介さなければ生きて行くことができない。トラヴィスのかぶっているキャップは、そんな世界に対して安全距離をとるための最も初歩的なメディアだったと言えなくもない。
この種の人物にとって、メディアは、もはや単なる手段ではない。それは、彼の肉体なのであり、メディアなしには、彼は肉体を失ってしまう。映画は、トラヴィスが次第にメディアをとりもどして行く姿を描く。行方不明だったトラヴィスの居所がわかってロスからかけつけた弟が、彼を飛行機に乗せようとすると、トラヴィスは、ガンとしてそれに抵抗する。しかたなく、弟がふたたびレンタ・カーでロスに行こうとすると、トラヴィスは、空港まで乗って来た同じ車でなければいやだと言う。トラヴィスにとって車はメディアなのであり、それをとりかえひっかえすることはできないのである。それに対して、飛行機は、それを乗物として利用するしかなく、それを肉体化することがむずかしいから、トラヴィスは飛行機を拒否するわけである。
ロスの弟夫婦のもとに身を寄せることになったトラヴィスは、はじめ、弟の妻とも、いまは弟夫婦の子供として育てられている実の息子ハンターともほとんど口をきかず、庭で双眼鏡をのぞいている。おもしろいことに、その際、トラヴィスは、近くの空港に発着する飛行機をながめているのだが、彼は、機体ではなく、滑走路に映る影ばかりのぞくのである。
ロスは、明らかに、テキサスの荒野にくらべれば、さまざまな媒介にとりかこまれた生活がある。都市とはメディア環境であり、人と人とを媒介するさまざまなメディアがあるからこそ、その土地で生まれ育った者でなくても生きてゆける。とりわけ、弟夫婦の家はその傾向が強い。まず、弟の妻は、そのドイツ語なまりの口調からして、ネイティヴではない。つまり、ここでは、言葉は、肉体の〈自然な〉一部というよりも、メディアとしての性格を強くもつ。それは、人と人とがコミュニケイションをしようとして努力するときにだけ肉体化されるのであり、生身の肉体のようにいつも同じようにとどまっているわけではない。これは、弟夫婦とハンターとの関係にも通じている。彼は、二人の実子ではなく、トラヴィスが蒸発したあと、彼の妻ジェーン(ナスターシャ・キンスキー)が置いていった子供だ。二人は、それを実子として育てているのだが、この親子関係は、肉体的ではなく、まさにメディア的である。
映画の説明的部分やトラヴィス自身の告白から暗示されるトラヴィスの過去というものは、それ自体としては、大して重要ではないという気がする。それよりも、過去には、とにかく生身の肉体を信じた−−そのために愛と憎悪にあけくれた−−生活があったが、それがいま、少なくともトラヴィスにとっては完全にくずれ、何らかのメディアなしには人とコミュニケイションができない状態が生じているというまぎれもない現実=現在である。そして、このことが、ヴィム・ヴェンダースのこの作品を非常に今日的なものにしている。
トラヴィスの〈メディア病〉は、電話の長話を愛し、ウォークマンを手離せない現代人が共有しているものだ。われわれは、何かメディア装置がなければ人と対話できないのであり、親しくなることができない。トラヴィスとハンターとの仲も、トラヴィスが黄ばんだ写真を見せたり、大げさな服を着てハンターを学校へ迎えに行ったりすることのなかで円滑になってゆくのであり、母親ジェーンをさがしに旅立った二人は、車のなかでトランシーバーを使って実に楽しげな会話をかわすのである。
こうしたメディア的関係が、最も強烈に表現されるのは、ヒューストンの〈のぞき部屋〉でジェーンとトラヴィスが再会するシーンである。〈のぞき部屋〉は、通常は、屈折したメディアとして機能している。それは、人と人とを相互的に結びつけるのではなく、むしろ一方的・舞台的に結びつける。「プールサイド」、「ホテル」、「コーヒーショップ」等々に分かれている〈部屋〉には、それぞれ〈舞台装置〉ができていて、客は、マジック・ミラーごしに、そうした〈舞台〉でそれなりの役割を演じる女性の〈演技〉をながめ、注文をつける。
客は、ここにセックスをするために来るのではなく、女性とのある一定の距離をもった−−つまり非メディア的な−−関係をもつためにやって来る。それは、コミュニケイションの場というよりも、客の側からしか見えないマジック・ミラーを通じて、相手を自由にあやつることに成功したという満足感を与える場である。
おもしろいのは、トラヴィスがこの〈演劇的装置〉をコミュニケイション装置に転換しようとする点だ。〈のぞき部屋〉のクラブでジェーンが働いていることを知ったトラヴィスは、はじめのうちは客になりすましてジェーンのまえに姿を現わすが、やがて、自分の素性を暗示し、ジェーンも彼に気づく。そのとき、ジェーンは、マジック・ミラーのために顔は見えないが、声からトラヴィスとわかる相手に向かって「ずっと逢いたかった、どの男の声もあなたの声のようにきこえていたのよ」と言い、涙を流す。彼女は、トラヴィスに逢いたかったが、同時に、逢うことを恐れた。その意味では、客よりも彼女の方がこの〈のぞき部屋〉の装置を必要としたわけである。
しかし、二人は、マジック・ミラーの一方通行的関係を取り除く。女のいる部屋の明かりを消すと、客の顔が女の方からも見えることにトラヴィスが気づき、ジェーンは、トラヴィスの顔を見ることができるようになる。〈のぞき部屋〉は、いまや〈メディア部屋〉になった。このシーンで、カメラは、トラヴィスとジェーンの目の機能を果たし、われわれを〈メディア部屋〉のなかにつれこみ、このメディア的変容を直接経験させる。
それは、この映画の圧巻だが、このシーンに最もリアリティを感じる者は、大なり小なり〈メディア病〉にかかっていると言ってよい。最後にトラヴィスは、再会したジェーンにハンターの居所を教えて、一人車で去って行くが、このシーンは、メディアを介さない関係は、もはや女親とその子供とのあいだにしかないこと、男は〈メディア病〉から回復できないことを示唆しているかのように見えた。
前出◎85/ 1/25『キネマ旬報』
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