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カオス・シチリア物語
シチリア島については、誰しもが何らかの了解、〈原信憑〉をもっている。書物的な〈原信憑〉によれば、それは、「イタリア半島先端沖にある地中海最大の島、オリーブやオレンジを産するが生産力が低く、古くから多くの移住者を送り出してきた。東部にエトナ火山がそびえる」。この信憑は、シチリアに旅することによって改変される。少なくとも、それに体験的(身体を駆使した)原信憑が加わり、シチリアについての原信憑の構成が変わるはずだ。しかし、だからといって、体験的原信憑の方が書物的原信憑よりも〈本当〉だなどということはできない。〈現地〉におもむきながら、それ以前の書物的原信憑に何一つ付け加えないことも可能である。
映画は、こうした原信憑に対して特権的な位置にあるわけでも、また副次的な位置にあるわけでもない。映画も原信憑を構成する諸装置の一つであり、それは、原信憑のさまざまなありかたの一つを規定するにすぎない。映画のなかのシチリアを〈現実の〉シチリアからノイローティックに区別する必要はないのであり、シチリアについての既存の原信憑を組み変えるためにその映像経験を用いればよい。
タヴィアーニ兄弟の『カオス・シチリア物語』は、多くの映画が構成してきたコンヴェンショナルなシチリア=原信憑を改変させる。すなわち、この映画は、マフィアとマチズモの土地という−−とりわけアメリカ映画によって作られた−−信憑を改めさせる。
マチズモについては、さりげない暗示がある。冒頭のシーンで、若者たちは、雄のカラスが卵をだいているのを見て、笑う。卵をかえすのは雌の仕事だというわけだ。わたしの信憑するところでは、シチリアにはマチズモは根強く存在する。コートをケープのようにひっかけて、ダンナ気取りで歩く男の姿はめずらしいものではない。しかし、そうでないシチリアはいくらでもある。それらは、原信憑を組み変えなければ見えてこない。大部分の若者が、この卵をだいていた雄のカラスに卵をぶっつけて殺してしまおうとしたとき、一人の若者がそれをさえぎって、このカラスの首に羊飼いの鈴を付け、大空に逃がす。カラスは鈴を鳴らしながら、いずこへか飛んでゆく。澄みきった空気のしじまのなかに、乾いた鈴の音が響きわたる。いつの日か、わたしがシチリアに旅し、その空と大気にわが身をさらすとしても、この映像によって構成された原信憑は残り続けるだろう。それが、この映画を通じてしか構成しえない信憑であれば、なおさらのことだ。
この映画は、ルイジ・ピランデッロの短篇物語集のなかから選ばれた六篇の物語にもとづいている。すでにアントニオ・グラムシが言ったように、ピランデッロの用いる方言や民話的言葉づかいは、つねに反カソリック的である。彼は、そうすることによって、「民衆の扮装をした〈インテリ〉、あるいはインテリ風の考え方をする民衆ではなくて、民衆でありシチリア人であるからこそ、それ相応にはたらき、考える、現実の歴史的・地域的なシチリアの民衆をとりあつかう」ことができた。ピランデッロは、シチリアをシチリアに閉ざすことなく、「〈Vチリア的〉であると同時に〈イタリア的〉A〈ヨーロッパ的〉な批判意識」をもってとらえた、とグラムシは言っている。このことは、まさにタヴィアーニ兄弟が、サルディーニャ地方(『父/パードレ・パドローネ』)やトスカーナ地方(『サン・ロレンツォの夜』)をとりあげる際にも言えることであり、『カオス・シチリア物語』にもそのような「批判意識」が生きている。
第一話「もう一人の息子」第二話「月の病い」、三話「甕」、第四話「レクイエム」、エピローグ「母との対話」のすべての篇において、カソリック的なモラルやカソリック権力と補完関係にある権力や制度が−−悪意を見せずに−−笑われている。ある意味では、プロローグで首に鈴を付けられた雄のカラスも滑稽である。
第一話では、息子が母親を心から愛しているにもかかわらず、母親の方は、その息子をひどく憎んでいるという話が出てくる。この母親は、夫を殺して自分を強姦した野盗がこの息子の父親だと言う。
第二話では、結婚して間もないのに、満月になると誰も手がつけられないほどもだえ苦しむ奇妙な持病のある男が登場する。これらにおいては、カソリック的な結婚や家庭は空想的である。
第三話の道化的な存在は、オリーブ園の大地主ドン・ロロだ。彼は、豊作のオリーブ油を入れるために特注した大きな甕を夜中に何者かに割られ、甕なおしの名人を呼んで修理させると、この男が甕をなおしていて甕のなかから出られなくなる。が、最後に笑ったのは、この名人と小作人たちだった。名人を甕から出させることができなくて、頭に来た地主が、甕をけとばすと、それは転がって壁にぶつかり、くだけ、名人は、自分では何も弁償せずに、甕から脱出することになるからである。
第四話でも、村に墓地をつくることを禁じていた地主の男爵が、村人の長老の機転で、それを許容せざるをえなくなる。
エピローグは、すでに大作家となったピランデッロ自身が物語に登場するが、ひどく元気がない。長いあいだ訪れなかった故郷の生家にやってきて、人気のない屋敷のソファーに腰を下ろす。部屋の記憶がよみがえり、とうに亡くなった母親が姿を現わし、彼を力づける。
このルイジが、故郷の鉄道駅に降りたったとき、タクシーの運転手が彼に近づき、「アメリカ人かね?」とたずねる。この土地では、身なりのよい人間は、アメリカ帰りの者なのだ。シチリアとアメリカとの関係は第一話でもふれられている。望まぬ息子をもつ老いた母親には、アメリカに移民している二人の息子がいる。彼女は、彼らへの手紙をその日アメリカに出発する移民団の誰かに託そうと思って、移民団が馬車に乗る村はずれの広場にやってきたのだった。そこには、思い思いの荷物をかかえた移民者たちがおり、シチリアにおいてだけでなく、サルディーニャでも、ローマでも、そして今日のソウルでも限りなく繰り返されてきた別離の儀式を行なっている。彼や彼女らの一団のなかには、アメリカに渡ってマフィアになりそうな風貌の者は一人もいない。
監督・脚本=パオロ・タヴィアーニ、ビットリオ・タヴィアーニ/出演=マルガリータ・ロサーノ、クラウディア・ビガリ他/84年伊◎85/ 7/16『月刊イメージフォーラム』
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