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ロバート・アルトマン
アルトマンは映像をモジュールとみなしているようだ。それぞれが独立した、あるいは標準化された機能をもつ単位であるモジュールという概念をいまさらもち出さなくても、アルトマンの映像の〈切片性〉については、これまで多くの論者が指摘してきた。しかし、この〈切片性〉が、アメリカでは、ときとして〈断片性〉と解され、アルトマン批判の根拠にされているのを見るにつけ、それをいまあえて−−コンピューター・テクノロジーとともに一般化した−−〈モジュール〉という概念でとらえなおすことによって、その能動的な性格を強調しておいた方がよい気がするのだ。
『三人の女』が一九七七年に封切られたとき、わたしはたまたまニューヨークにいて、その封切にかけつける幸運にめぐまれたのだが、そのあと新聞に載った批評を読んで意外な感じがした。一体に冷やかであるばかりか、わたしが比較的信頼しているスタンリー・カウフマンにいたっては、『U・ニュー・リパブリック?宸フ映画評で、「ここ数年間で最もこれ見よがしで、ばかげた空虚さのフィルム、アルトマン自身のうちでも、『Cメージ?寤ネ来最悪のフィルム」だとこき下ろしているのであった。
『ニューヨーク・タイムズ』のヴィンセント・キャンビーは「『三人の女』が燃える」という一行と「暗い映画の季節」という行を二段重ねにした意味あり気の見出しのコラムで、シェリー・デュヴァルをもち上げて、アルトマンをくさしていた。「デュヴァル嬢についてもっと語るまえに『三人の女』のことを書かなければならないが、それはちょっとしんどい。というのは、終わりまで、見通すのが不可能だと思わせずにこの映画のことを書く方法がわからないからである」というのである。キャンビーによると、デュヴァルは、「猛烈にファニーな、限りなく感動的な現代の役者であり、彼女は『三人の女』を直情的なインパクトをもったフィルムに変容させる」のであって、アルトマンは彼女によって救われたと言わんばかりである。
カウフマンの場合、基本的にアルトマンが好きではないらしく、『M★A★S★H』や『ロング・グッドバイ』はスクリプトがよいから出来がよいが、『BIRD★SHIT』A『イメージズ』A『カリフォルニア・スプリット』は、スクリプトがダメだから、映像的な技巧やカメラを回しっぱなしにする甘えたやり方に頼っておもしろみを出そうとしていると言う。『{ウイ&キーチ』は「w檢m兇燭舛北斉釮呂覆ぁ廚竜な?「里覆?C蚤犇?「砲阿蕕弔い討い襪靴蹐發痢廚任△蝓◆悒ΕД妊?D鵐亜戮良召任蓮▲▲襯肇゜」鵑蓮屮▲瓮螢?P撚茲療庫召里覆?C濃犒困鮴觜陲気譴進發?Z犒瑳釮澄廚判颪?@
こうなると批評というよりも悪意であると言うべきだが、『三人の女』について彼が次のように書いているのを読むと、何がこの老批評家をしてアルトマン映画からひき離すのかがわかる。すなわち、カウフマンによれば、アルトマンは「広告代理店のアート・ディレクターがやることを映画でやっているのであり、自分の目を新鮮にしておくためにギャラリーに出入りする。/しかし、広告代理店の人間は、普通、自分のやっていることをなぜやるのか、自分が商売人であること、(いわば)〈ミニマリスト〉アートの影響が自分のレイアウトをナウいものにしているということを心得ている。が、アルトマンは実際に信じているようだ−−これが彼を中流意識のなかに閉ざすところのものだが−−真の芸術から上ずみを選び模倣するということが実際に何かをなしとげることである、と」。
しかしながら、テレビ映像が〈風景〉と化し、〈シミュレイション〉という概念が〈現実的〉ではないにしても少なくとも〈実的〉(フッサール『イデーンⅠ?寰Q照)なレベルを表わす概念になりつつある一九八〇年代後半の情報環境のなかでアルトマンの映画を見るとき、カウフマンのアルトマン批難が、逆にアルトマンに対する最大の評価になりえるのである。
『三人の女』は、一見すると、ベルイマンの『ペルソナ』ばりのパッショネイトな映画であるかに見える。しかし、よく見ると、どの登場人物も、レアールな世界から微妙な距離をとっており、しかも映画はそれを何らかの効果によって埋めあわせたり、とりつくろったりしようとするのではなく、逆にその距離をつねに一定に保っておこうとしていることがわかる。
長い爪をはやし、たがいに争っている二人(匹?)の女獣とペニスをたらし、女獣を威嚇している一人(匹)の男獣が描かれたタイトル画が最初に現われるとき、わたしには、上から下へ、画を横切るさざ波のような模様が動くのが見え、わたしは、この絵がプールの水底にあるということよりも、またこの絵が映画の基本テーマを暗示しているというようなことよりもまず第一に、テレビ画面を上から下に流れる横縞のラスターを思いうかべた。だから、わたしは、この絵がライトモチーフのようにたびたび現われるたびに、カウフマンのように、「その絵が映画のなかの人々とどのように関係しているかを問うほどニブい人がいるだろうか」とは思わず、むしろ、これは一種のCMなのだと思ったのだった。
テレビのCMは、ライトモチーフを提示するものではなくて、映像にリズムとパンクチュエイションを与えるためのものであるから、吉本隆明のようにそれについていっしょうけんめい熟考する必要はない。あえて熟考するのならば、『三人の女』の絵つまりは〈CM〉については、そこで男獣のペニスがなぜ勃起していないのか、なぜ女獣たちは争っているのか、なぜそもそも彼や彼女らには鱗や爪が生えているのか、と問うよりも、この〈CM〉の〈スポンサー〉は誰なのかということを考えた方がよいだろう。
いずれにしても、三人の女には〈スポンサー〉がついており、映像にはある種テレビ的な距離が秘かに封入されている。三人の女−−ミリー(シェリー・デュヴァル)、ピンキー(シシー・スペイセク)、ウィリー(ジャニス・ルール)は、すべてテレビ映像的人格であり、映画の前面に出れば出るほどその性格は強くなる。ミリーは最もテレビ的であり、ピンキーはやがてそれに感染して記憶喪失になり、ウィリーは、言葉らしい言葉をしゃべらないだけ非テレビ的である。それは、むしろ演劇的であり、そのために彼女は、出産シーンを他のいかなる登場人物よりも〈演劇的〉に演じる。
その意味では、西部劇のカウボーイ気取りのエドガー・ハート(ロバート・フォーティア)は、まさしくハリウッド映画−−テレビの対角線上にある−−を体現している。彼が、つねに道化的存在であり、ミリーと寝ようとするとき(テレビと映画の密通?)、ピンキーの自殺さわぎで果たせず、たかだか、野外の射撃場でピストルを撃っているときだけ輝くのである。仲間にパーティをすっぽかされて頭に来たミリーが、「あなたの汚いなりがみんなを遠ざけたのよ」とピンキーにあたり、バア〈ドッジ・シティ〉へ飲みに行って深夜にエドガーとよりそって帰ってきて、ベッドルームからピンキーを追い出す。ピンキーは、泣きながら表へとび出し、「ミリー、エドガーと寝ないで欲しい」とつぶやきながら、プールに跳びこむのである。それは、ある意味で、「わたしにとって完璧な人間」つまりはテレビ=人間であるミリーが映画に犯されて欲しくないということであり、巨大なテレビ画面を思わせるプールに跳び込むということはテレビのなかに入りたい−−テレビと同化したいというピンキーの潜在的欲望を表わしている。
ところが、プールに跳びこむことによって、彼女は記憶を失い(それは、極めてテレビ的なことだ)、ミリー=テレビに同化したものの、いわばテレビを越えて映画に行ってしまう。彼女が同化したミリー像が、ミリーよりもはるかに肉感的であり、かつてミリーがそうであった以上にエドガーに接近し、ほとんど彼の情婦のようになってしまうのもそのためだ。
ピンキーがもともとテレビ中毒で、テレビ的パーソナリティに同化しやすいタイプであることは、彼女が、テキサスから出てきてパーム・スプリングスの老人用リハビリテイション・センターに職を見つけたときに泊っていた安ホテルの彼女の部屋に白黒のテレビがあり、部屋にいるときにはそれをつけっぱなしにしていたことをみても明らかである。
だから、ピンキーには、ミリーのテレビ的ウソっぽさが逆にリアリティをもつ。〈演劇的〉なパーソナリティであるウィリーは、ミリーを批判的に見ている(彼女は、映画的パーソナリティである自分の夫エドガーに対しては、批判以上の憎悪をもっている)が、ミリーが勤めているリハビリ・センターの他の職員たち(食堂の白々しいシーン)も、彼女のアパート・コミュニティの住人たちも、彼女を〈いい気なものだ〉と考え、たとえば彼女が、すれちがいざまに、「今日は残念だけどいっしょに(庭で)お食事できないわ」と言うと、内庭でくつろいでいた彼らは、小声で中傷的なことを言い、ひそかに冷笑するのである。ミリーは、いつも何かをしゃべっているが、それは、かけっぱなしのテレビの音や映像のように、つねに人の注意をひくわけではなく、多くの場合は、モノローグにされてしまうのである。
ミリーの生活そのものがテレビに規定されており、それは中流家庭を舞台にしたテレビドラマに出てくるアパートのように小ぎれいな(全体が黄色と紫色のトーンで統一されている)彼女のアパートにも、パーティの準備をするときにソー・シーのびんづめシュリンプ・カクテルやチョコレート・プディングのターツを用意する典型的なやり方のなかにもあらわれている。おそらく、彼女は、『コズモポリタン』A『マッコールズ』A『ウィメンズ・デイ』、噬nウス・ビューティフル』といった雑誌を教典として生きているのであり、テレビにおけるそれらの提供番組の言うとおりに男を愛し、部屋をととのえ、料理を作るのだ。彼女がピンキーにツナ・サンドウィッチの作り方をおしえるときの彼女の口調は、まさにテレビの料理番組のホステスの口調そのままだった。
アルトマンがつねにテレビを意識していることは、彼が一九五七年に『ディリンクウェンツ』とドキュメンタリー『ジェイムズ・ディーン物語』を撮ったあと、十年間にわたって『ヒッチコック劇場』、噬oス停留所』A『クラフト・サスペンス・シアター』、『ボナンザ』、『ホイアバーズ』などのTVショウの演出をやり、またその後も、映画作品のあいまにテレビの仕事をしばしば行なっていることからも予想がつく。しかし、わたし自身がこのことに思いいたったのは、『|パイ』i一九八一年)を見てからであり、その後、今回『三人の女』を再見して試みるまで、このような観点でアルトマンの映画を見なおすチャンスはなかったので、この観点をおもいつき以上のものとして提示するつもりはさらさらない。
ただ記憶のなかに残る映像をアトランダムにかきあつめてみても、『BIRD★SHIT』のブルースター・マクロードは、明らかにテレビ中毒的人物であり、サリー・ケラーマンが演ずる−−いわば−−鳥の世界の女は、実は、テレビ映像の世界の女であり、ブルースターは、鳥になるよりも、むしろテレビ映像のように身軽になりたかったのではないかと思うのだ。ちなみに、ブルースターが人工の翼をつけて飛行実験をするヒューストンの屋外野球場は、テレビの野球中継で有名なスペースである。また、『ビッグ・アメリカン』は、アメリカのショウ・ビジネスの、というよりもアメリカのテレビ・ショウのパロディだと考えることができる。そして、あの『iッシュビル?宸フ冒頭には、LPジャケットがまわりながら画面に現われ、そこに出演者の顔が映ったあと、全体を映画の映画として相対化するアナウンスが入るシーンがあったが、これは、いまにして思えば、実にテレビ・ショウ的な出だしだった。
映像を観客が−−いまわたしがここで展開したようなやり方も含めて−−自分流に色々なやり方で組み合わせることができることを可能にするアルトマンの映画の方法は、『鴻塔O・グッドバイ』で、何も書けずに前借りだけがかさんでゆき、最後には海に入水してしまう老作家ロジャー・ウェイド(スターリング・ヘイドン)の風貌がちょっとアルトマンを思わせるとしても、カウフマンが非難するような彼の甘えやペダントリーではなくて、映像をモジュールとして提出する方法であり、しかもヴィデオにむしろ適したそういうやり方をアルトマンは映画に適用することによって、映画をより今日的なものにしようとしていたのである、とわたしには思われてならない。
●監督=ロバート・アルトマン[三人の女] [M★A★S★H]脚本=リング・ラードナーJr/出演=ダーナルド・サザーランド、エリオット・グールド他/70年米[ロング・グッドバイ]脚本=リー・ブラケット/出演=エリオット・グールド、マーク・ライデル他/73年米[BIRD★SHIT] [イメージズ]出演=スザンナ・ヨーク、マルセル・ボズフィ他/72年英[カリフォルニア・スプリット] [ボウイ&キーチ]脚本=ロバート・アルトマン、ダールーダー・ウィリンガム他/74年米[ポパイ]脚本=ジュールズ・ファイファー/出演=ロビン・ウィエアムズ、シェリー・デュヴァル他/80年米[ビッグ・アメリカン]脚本=ロバート・アルトマン、アラン・ルドルフ/出演=ポール・ニューマン、バート・ランカスター他/76年米[ナッシュビル]脚本=ジョーン・テュークスベリー/出演=デイヴィッド・アーキン、カレン・ブラック他/75年米◎85/ 3/11『月刊イメージフォーラム』
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