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緑のアリが夢見るところ
文明の歴史は、支配民族が弱小民族に、組織が個人に、大人が子供に、〈ウ常者?誤植〉ェ身障者に、そして男が女に自分の〈論理〉を押しつける歴史だった。その歴史はまだ終わったわけではない。しかし、アウシュヴィッツ、広島・長崎、ヴェトナムを悲痛な代償にして、何かが変わりはじめた。
一九六〇年代のアメリカン・ニュー・シネマは、インディアンをもはや白人に対する〈獰猛な敵〉としては描かなくなった。七〇年代の映画は、女を男の世界から切り離した。子供や老人を自立した存在として描く映画は、今後増えるはずだ。
ヴェルナー・ヘルツォークは、相手を自立した〈他者〉とみなした場合のコミュニケイションに関心をもつ。盲人、言語障害者、野生児、狂人……と本当にわかりあうにはどうしたらよいか?
彼の最新作?囓ホのアリが夢見るところ?宸ヘ、オーストラリアの原住民(アボリジニ)がそのような〈他者〉に選ばれている。四万年も前から住んでいるといわれるアボリジニは、西欧文明の攻撃的な侵入のなかで今日まで生き抜いてきた。そのしたたかさと、今にしてみれば明らかに西欧文明よりもはるかに先を行っている文化の深みは、映画のなかに出てくる−−白アリが喰って空洞になったマングローブの幹を使ったディジャリドゥという楽器による−−彼らの音楽の響きによく現われているし、西欧人に対する彼らの〈哲学的〉とも言える対応のなかでユーモラスな対照をなしている。
〈緑のアリ〉が、単に彼らの信仰的な存在にすぎないのではなくて、実際に、磁場を感ずる超能力をもっていることがわかるというエピソードも、西欧の科学が彼らの知恵にくらべていかに〈遅れた〉ものであるかを示す皮肉な例だろう。エレクトロニクスの時代になって、西欧の科学は、ようやく彼らと〈対話〉できるレベルに達するのだ。
今日、アボリジニは、ウランの採掘のために土地を奪われ、〈近代的〉な生活を強いられている。これは、彼らにしてみれば、自分たちの文化を捨て、西欧文明の〈論理〉に屈服することを強制されることを意味する。
企業のためにウラン鉱床の探査に従事するオーストラリア人の青年ランス・ハケット(ブルース・スペンス)がその矛盾に気づくのは、彼が西欧流のヒューマニストであるからではない。むしろわたしは、子供のころからメカやエレクトロニクスに親しんだと思われる彼のような青年のもつ新しい感性が、そのような心優しい繊細さを可能にするのではないかと思う。
監督・脚本=ヴェルナー・ヘルツォーク/出演=ブルース・スペンス、ロイ・マリカ他/84年西独◎85/ 3/ 6『ミセス』
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