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 ユルマズ・ギュネイ監督の『路』は、トルコの少数民族(ただし総人口の四分の一以上を占める)であるクルド人をあつかい、その五人の囚人たちが許された五日間の仮出所のあいだに体験するそれぞれに劇的な出来事を真正面から描いている点で、パワフルな映画であり、これが一九八二年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したことが十分納得できる。
 それにしても、西欧的な社会とは異質な文化を強烈に感じさせるこの映画を見ながら、わたしは、そのバスや列車の動く空間内での描写の生き生きしたリズムと迫力に魅了され、字幕を追うのをいつのまにか忘れていた。試写を見てから大分たった今でも、島の刑務所を一時的に解放された囚人たちが、バスで街に入ってゆくときの、空間が急に濃密になる瞬間の雰囲気や、乗り継いだ列車のコンパートメントの、他人の体臭がむんむん臭ってくるようなうちとけた−−しかし、久しくそのような世界から離れていた者には荒々しい−−世界が、後頭部のあたりで生き続けている。
 これは、いつもバスや列車に乗りつけている者にはできない映像表現ではないか? あの躍動感はどこから来るのか?
 解説によるとこの映画は、判事殺しの不当な疑いで捕獄されたギュネイ監督が、獄中で綿密な脚本を書き、面会に来る代理監督や俳優たちと細かな打合せをし、撮影終了後にたまたま仮出所してフィルムの編集・ダビング・音楽などの作業に立ち合うというやり方で作られた。まさにこの映画の映像的リズムには、登場人物たちと同じ−−しかもより現実的な−−条件に置かれたギュネイ監督の身体リズムがひきつがれているのだ。囚人たちは五日の期間内に戻らなければ、その罰は家族や親族にまで及ぶので、その五日間という時間は決して日常的な時間ではないが、それが映画の時間性として現わされている。
 仮出所したギュネイは、そのまま、スイスに亡命し、二度と刑務所には戻らなかったのだが、彼は、映像に対する関係のなかで仮出所期間の自由と不自由を鋭く表現している。それは、一人の男が、実家に連れ戻されていた妻と息子を奪い返したあと、列車のなかで起こる出来事=シーンに見事に現わされている。男は、混雑する車窓を逃れて妻とトイレに入り、セックスをしようとする。が、彼女が下着を下ろし、カメラに彼女の白い皮膚がちらりと見えたとき、彼らとカメラは、そのような行為を不道徳とする乗客たちが暴力的にノックするドアーの音に中断され、彼らはリンチされそうになる。
 映像は、監獄とは異質の、そして監獄では不可能な自由性の世界に属している。しかし、監獄の外でも映像の自由はトイレのような密室にしかなく、しかもそれさえもがたえず侵犯されている。ギュネイは、映像を自ら解放し、また自ら拘束しながら、フィルムの世界でフィルムを通じて観客を解放へとかきたてる。この映画がトルコで発禁なのは、その内容のためではなく、むしろそのような形式の力強さのためだろう。
監督・脚本=ユルマズ・ギュネイ/出演=タルック・アカン、シェリフ・セゼル他/82年トルコ・スイス◎84/11/26『カメラ毎日』




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