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アマデウス
テレビやヴィデオで映画を見る人がふえている。しかし、そんな傾向が強くなるにつれて、逆に映画は、映画館でしか得られない映像体験を与えることに専念しなければならなくなった。映画は、むしろこれからもっとおもしろくなるはずだ。
『アマデウス』を見終わったあと、わたしは、決してテレビでは味わうことのできないその映像の余韻を楽しみながら、しばらくのあいだ銀座の街をさまよい歩いた。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生涯を描いたこの映画は、十八世紀のウィーン風の建物と街路がそのままの形で残っているチェコのプラハで撮影されている。時代は、ヨーロッパの激動期であり、モーツァルトが生まれた年には七年戦争が始まり、彼の死の少しまえにフランス革命が起こる。古いものと新しいものとが、急速なテンポで交替しはじめていた。
映画はこの時代の活気を、モーツァルトが日々通りがかるウィーンの街路のオープン・マーケットや道端の見世物、彼の行きつけの居酒屋の喧騒、そして上流階級の劇場の華麗さと大衆のオペラ劇場のヴァイタリティなどを通して、生き生きとうつし出している。それらは、時代の転換期に特有のものであり、新しい文化が生まれる都市に共通する雰囲気であるが、モーツァルトは、まさにそうした都市の呼吸とリズムを彼の音楽に結晶させたのだった。
どんなにすぐれた才能も、硬直した社会では芽を出すことができない。モーツァルトの才能も、まさにこの価値転換の時代のなかで輝くことができたのであって、平穏な時代の価値観からすれば、モーツァルトは、「好色で下品で幼稚」な若者だった。
だから、監督のミロス・フォアマンと原作者のピーター・シェーファーが再構築したこのモーツァルト(トム・ハルス好演)が、いつも鳥のようなけたたましい声で笑い、ロック歌手のジョニー・ロットンのように傍若無人であるのは、むしろ非常にリアリティがある。そしてこの人物が、それまでイタリア人の音楽家によって牛耳られていたウィーンの宮廷音楽界をたちまち彼のリズムとメロディで満たしてしまうプロセスをながめるのは、実に小気味よい。
モーツァルトの成功は、芸術に理解があった皇帝ヨーゼフ二世の庇護によるところが少なくないが、フォアマンは、皇帝が大司教の教会権力との対抗上文化の振興に力を入れ、芸術の新しい要素を果敢に取り入れる政策を取っていたこともさりげなく示唆している。文化は、この時代にも政治の〈武器〉だったのである。
しかし、その意味では、モーツァルトは「天才」の名にふさわしく、こうした文化のポリティクスには無頓着で、やってくる注文を驚くべきスピードでこなしたあとは、屈託のない遊びと乱痴気騒ぎに明け暮れていたようだ。そしてそれは、モーツァルトの成功を妬んでいる者にモーツァルトを破滅させるチャンスを与えることにもなったのだった。
映画の全体は、周到な計画によってモーツァルトを死に追いやったと称する老人の回想形式をとっている。モーツァルトが現われるまでは宮廷音楽家として「天才」の名をほしいままにしていた彼−−アントニオ・サリエリ(F・マーリー・エイブラハムがそれをしたたかに演ずる)は、モーツァルトの死後数十年たったいまでは、狂人たちのわめき声がこだまする精神病院に収容されてはかない余生を送っている。彼がその一室で神父に告白した物語が真実であるかどうかはわからない。フォアマンにとって、映像世界に遊ぶことも、狂気の世界の出来事であるかのようだ。ただし、それは、快感と官能的な興奮に身をさらす狂気である。
監督=ミロス・フォアマン/脚本=ピーター・シェーファー/出演=F・マーリー・エイブラハム、トム・ハルス他/84年米◎84/11/ 8『ミセス』
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