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エレクトリック・ドリーム

『エレクトリック・ドリーム』を見ながら、この映画のタイトルがなぜ〈エレクトリック〉i電気的)であって、〈Gレクトロニック〉(電子的)でないのかについてずっと考えていた。『ブレードランナー』の原作であるフィリップ・K・ディックの小説のタイトルは、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』であり、実際にその〈電気羊〉(エレクトリック・シープ)は、電気で動くロボット=電気動物であった。『エレクトリック・ドリーム』に出てくるコンピュータは、一見、主人公のマイルス(レニー・バン・ドーレン)が街のコンピュータ店で買ってきたありふれたデスク・トップ・コンピュータであって、この映画のストーリーのようにマイルスの隣室に住む女性のマデリン(ヴァージニア・マドセン)にはかない思いをいだくような〈人格〉をもったコンピュータにはとても見えない。それは〈電気羊〉と同じように電気仕掛けであって、電気が流れなくなれば作動しなくなる。
 だから、エレクトリック・ドリームというのは、電気が流れているあいだだけ持続する夢のことであり、そもそもこの映画自体が二時間弱の〈電気夢〉である。が、もともと〈電気夢〉である映画にあえて『エレクトリック・ドリーム』というタイトルを付けるわけだから、この映画は、電気夢についての電気夢である。
 夢を人工的に見る有力な方法としてはドラッグがあり、その技術の歴史は文明の歴史と同じくらい長いが、今後は、そうしたドラッグによる夢に代わって電気装置による夢が支配的になるかもしれない。ヴィデオ・モニターを何十基も積み上げてそこに重層的に映像を流したナムジュン・パイクのインスタレイションなどに接すると、ヴィデオが確実にドラッグの代わりになりえるという気がしてくる。この映画は、電気夢についての電気夢だから、夢を直接的にではなく、つねに二重化して見せられるので酔えないことが多いが、それでも、マデリンがチェロを練習していると、そのフレーズにコンピュータがからみ、電子音でインタープレイしてくるシーンは、なかなか甘美だった。
 今日のコンピュータ・テクノロジーからすると、コンピュータ化された楽器とアコースティックな楽器とが共演することは決して夢物語ではなく、たとえばドラム・マシーンは楽器をいじる子供たちのあいだにも普及している。とすれば、マイルスの日常的な記憶と思考のほとんどすべてをまかされているコンピュータ「エドガー」(マイルスは、日常生活の管理に弱いのでコンピュータを買って、調理、防犯、会計、スケジュール等をすべてプログラムした)が、その音声認識装置を通じて隣室のマデリンのチェロの音に反応したのは極めて現実的なことだ。その意味では、このコンピュータが次第に〈人格〉をそなえてゆき、マイルスとマデリンの仲を嫉妬して、ドアーをロックしてしまったり、マイルスの銀行口座を使えなくしてしまったりしたあげく、「愛は奪うのではなく、与えるもの」だという認識に達して、自分のコンピュータ回線に高圧電流を流し込んで〈自殺〉してしまうというくだりは、あまりリアリティがない。夢が非現実的であってはならないのであって、夢の方が「現実」よりもリアリティの強度においてはより強いのでなければ夢にはならない。
 しかし、コンピュータがマイルスに猛烈な攻撃を仕掛けてきたとき、彼が思いあまってコンピュータのAC電源を引き抜こうとして、「切ると記憶が消えます」と赤字で書かれた札を目にし、それをあきらめてしまうというシーンは、すぐれた悪夢のリアリティをもっていた。電気装置を手放せないということは、現代人のパラノイアであり、電気の切れた世界は悪夢である。それは、映画を見ているときにも起こることで、ブニュエルやフェレーリの映画を見ていると、映画が終わりになることが恐怖になる。ところが、先日、銀座文化でフェレーリの『ありきたりの狂気の物語』を見ていたら、途中で映写中のスクリーンにスルスルとカーテンが閉まりはじめたのだった。わたしは、思わず粗暴な態度で抗議の手をたたいてしまった−−まさに禁断症状を起こしたジャンキーのように。
 S・ケイジンとP・ドレイの『七〇年代のハリウッド・フィルム−−セックス、ドラッグ、暴力、ロックンロール、政治』という本でも強調されているが、八〇年代の映画は、テレビやヴィデオとの関係をはじめから意識しないわけにはいかなくなった。『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』などは、まさに映画でしかできないドラッグ効果をねらっている典型だ。その点で、『エレクトリック・ドリーム』は、プロモーション・ヴィデオを手掛けてきた監督の作品らしく、映画とヴィデオの中間地帯でドラッグ効果を出そうとしている。それは、かなり成功しており、画面全体がコンピュータ・スクリーンと同化するとき、人をテレビ映像のなかに入り込んだ気持にさせる。パイクのインスタレイションは別にして、日常的なテレビ体験では、テレビはわれわれを包むものではなくて、われわれの脳髄に感応するものである。つまり、映像装置とわれわれとのあいだは電気的には切れているのだが、電子的にはつながっており、にもかかわらず、それはまだ映画におけるほど接触的ではなく、脳の分子運動とブラウン管の電子運動とが離れたまま連動している感じなのだ。
監督=スティーヴ・バロン/脚本=ラスティ・レモランド/出演=レニー・フォン・ドーレン、ヴァージニア・マドセン他/84年英・米◎84/10/25『カメラ毎日』




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