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ルイス・ブニュエル

『アンダルシアの犬』(一九二八)を幾度も見たのは、いつも偶然からだった。ブニュエルの映画を見に行くと、この作品をだきあわせでやることが多かったからである。しかし、図らずも見てしまったそのたびごとに、古さを全く感じさせないのに驚かされる。
 この映画では、女性の目をカミソリで切りさくシーンがまずショックを与えるが、それは目の見える者にとって眼球を切られるということが、命を失うことよりも恐ろしいことだからである。
 しかし、映像のなかの目の出来事をわが身にひきつけて恐怖を感じるのは素朴すぎる。このシーンが、ブタの目を使って特殊撮影されているにせよ、よく見なければならないのは、切られた眼球はポッカリと口をあけてしまうのではなくて、液晶のようなものが内部からこちら側へ向かって溶け出してくることだろう。目というものは、受容器ではなくて、つねに外部へ向かって溶け出しているものなのだ。
 映画を論ずる〈新しい〉方法として、映像の〈外部〉を一切問題にしないようにすることが近年の流行だが、映画の現場は、フィルムという巨大な眼球から溶け出した〈液晶〉と観客の目から溶け出す〈液晶〉とがまじりあう〈外部〉にあるように思われる。それは、動くフィルムと観客の生きたまなざしの交錯のなかで生まれる時間的な生世界である。それは、言うならばたがいにカミソリをもってフィルムの目をわたしが、フィルムがわたしの目を切りさくことだが、この切りあいのなかで流れ出る〈液晶〉は、両者の目のあいだだけを往復しているわけではない。
 だとすれば、ブニュエルの映画がたいていの場合、〈現実世界〉に対するメタファーの形式をとっているといって映像論的にブニュエルを貶しめる必要はないし、その世界が完結しているといって『殺しの天使』(一九六二)だけを評価する必要もないのである。この映画は、なるほど、日常的な儀式がその形式と秩序を守り続けるときには永遠にその形式と秩序が続いてしまうという二重拘束的な状況を見事に描いている。しかし、この映像世界がブルジョワジーの世界であることもたしかなのだ。ブルジョワ的秩序と形式そのものが支配するパーティが終わるとき、そこにはそうした秩序と形式の破壊と乗り超えとがある。誰かが「失礼」を言わなければならない。にもかかわらず、そういう秩序と形式が永久に続いているかのように存在しているブルジョワ社会とその政治を、ブニュエルはここで見事に映像化しているのである。
 その意味では、ブニュエルの映画では、その〈外部〉こそが問題だと言える。ブニュエルとは、偉大なる切りさきジャックなのであり、彼は世界の目をカミソリで切りさいてはその液晶をフィルムの目のなかに満たし、それからカミソリを観客にわたして、「さあ、この目を切りさいてごらん」と挑発する。
 ブルジョワジーとともに、ブニュエルが不断の〈殺意〉をいだくのは、カソリックの伝統とそれをささえる権力である。『銀河』(一九六八)では、彼は異端派の側からキリスト教史をとらえなおし、ユダヤ人をも含めて「人間はみなキリスト教徒」だとうそぶく者がいるほど巨大な伝統のかたわらに、神はまた悪を創造し、肉体が悪だとしてもそれをさいなむ祈りの方法は禁欲ではなく、むしろ肉欲をほしいままにすることなのだといった異端の根強い流れがあることを本気で示している。すでに『Aンダルシアの犬?宸ナは、カソリックの神父が、ロバの死体ののったグランド・ピアノにナワで結びつけられて床をひきずられていたが、『エル』(一九五二)では、カソリックの戒律に忠実であるかぎり嫉妬に狂わざるをえない男のシチュエイションが描かれ、?嚴痰「人』i一九六〇)は、カソリックよりもプロテスタントの方がましであると言わんばかりだった。『rリディアナ』i一九六一)では、十字架、いばらの冠、槌、釘など、キリストの磔刑をしのばせる品々を携行し、わが身を禁欲的にさいなむことをよしとしている修道院出身の〈聖女〉が世俗世界に投げこまれる。が、その世界は、女も物もすべて占有することを支配原理とするブルジョワジーの世界であり、またそのかたわらには、生存競争と肉欲をとりつくろうことのない乞食と浮浪者の世界がある。ブニュエルは、この映画のなかで、乞食の頭目を演じ、ビリディアナが叔父からひき継いだ大邸宅で開かれる乞食仲間のどんちゃんさわぎでは、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のシーンのまねをしてテーブルにおさまり、キリスト教をすっかりパロディ化してしまうが、乞食たちもまた、占有の原理のなかで働いており、決して自由な欲望者ではないことを示唆することを忘れていなかった。
 ブニュエルの映画を見ることのなかで溶け出てくるものは歴史である。歴史意識と時間意識をもたずにブニュエルを見ることはできまい。たとえば『小間使の日記』は、ミルボーの小説にもとづいているが、原作の舞台は、一八九八年九月からその後の約一年である。ところが、ブニュエルは、ストーリーをかなり忠実にたどりながらも、時代を一九二八年から一九三四年までの〈現代〉にずらせている。これは、この映画のなかでくりひろげられるノルマンディの片田舎の閉鎖的な世界の出来事が、やがてヨーロッパにはびこるファシズムと共時的な関係をもっていたということをブニュエルが示唆しようとしているのだと言うのはたやすいが、そういうふうに言うとこの映画はただのメタファーになってしまう。
 ブニュエルには、世界はその崩壊のまえにまず個々人の意識のなかで−−とりわけその欲望や細胞のなかで−−腐ってゆくという考えがあるようにみえる。その点でブニュエルは、ミクロな政治とマクロな政治とを衝撃的なやり方でモンタージュする天才的な才能をもっていた。
『小間使の日記』に登場する猟番のジョセフの行動の一つ一つを見ていると、一九二〇年代から三〇年代にかけて、ブルジョワジーの世界からはずれた平均的大衆がどのようにファシズムにまきこまれていったかがよくわかる。肉が美味になるというので、鵞鳥を殺すときには一気に殺さないで首にナイフをさしてじわじわと殺すのを得意とするジョセフのやり方は、やがてアウシュヴィッツの官吏たちがやったこととさほど遠いものではない。森のなかで少女を強姦し、殺してしまうこの男が、映画の終わりの方で反ユダヤ主義のファシスト団体〈アクション・フランセーズ〉のデモに声援を送り、「くたばれユダヤ人! くたばれユダヤ人!」と叫ぶのは、きわめて理にかなったことなのである。
 ミクロな政治とマクロな政治とが鋭くモンタージュされている作品としては、?囓~望のあいまいな対象』i一九七七)がすばらしい。一九七〇年代の後半のヨーロッパでは、七三年以降の世界経済の混乱から脱出するために−−たとえばイタリアでは公共料金の大巾な引上げや国民祝祭日を削減しての労働再編など−−国民に対する国家の強制が強まるのだが、そうした国家権力の強化への反動としてテロリズム活動が活発化する。権力がそれに対抗する反権力を骨抜きにするほど強くなると、権力に対する批判や反抗は、テロリズムの型をとりやすい。
『欲望のあいまいな対象』でブニュエルは、こうしたマクロな政治状況と、男と女の関係というミクロな政治との内的な関係を鋭くとらえている。映画のなかでは、街頭のテロ活動や七〇年代後半の政治状況は、単なるエピソードやバックに流れるラジオのニュースなどで示唆されるにすぎないが、セックスすることをいつもたなあげにして相手をじらす女コンチータと、金にあかせて彼女を占有しようとする金持男マチューとの関係(ミクロな政治)が、テロリズムと国家との関係(マクロな政治)と共時的な関係をなしていることは明らかである。ちなみに、スペイン語で〈コンチタール〉と言うと、?亦ァ発する〉A〈そそのかす〉という意味であり、〈}チョ?誤植〉ノは、?沫Y〉、魔ニんま?誤植〉ネどの意味がある。
 コンチータとマチューとの仲がこじれるのは、欲望に対する姿勢がたがいに全く異なるからである。マチューにとって愛とは占有であり、相手と合体することである。セックスとは、彼にとって相手が自分の体の一部になることの証しであり、そのためには判事を使って政治的な策略を弄したり、大金でコンチータの母親を買収することも辞さない。これは、国家権力が日頃行なっていることであり、政治権力が目的を果たす際の論理である。これに対して、コンチータは、何ものにも所有されないことを求めているようにみえる。それは、彼女とアナーキスト風の男友達との関係のなかでは可能であるようだ。しかし、占有としての愛しか知らない男とはうまくゆくはずはない。しかも、彼女はこの初老の金持男とうわべだけ調子よくつきあえるほどすれっからしではないので、その心理的屈折はセックスの挑発的な拒否という形をとらざるをえない。国家権力の介入に対する社会的コンプレックスがテロリズムであるように、セックスを期待する男のベッドへ、容易に脱がすことのできない貞操帯のような下着をつけて入ったり、男を鉄格子のドアーの外に閉め出し、そのドアーのこちら側で別の若い男とこれみよがしのセックスをするのである。
 しかし、ブニュエルは、『欲望のあいまいな対象』で、ブルジョワジーのマチューを終始こっぴどくあつかっているのだが、だからといって貧しい母親と二人暮しのコンチータに味方しているというのでもない。『小間使の日記』でも『ビリディアナ』でもブニュエルは、一方で底辺の人間たちの欲望を支持し、ブルジョワジーや教会権力に加担する人々をこきおろしながら、他方では、両者がいつも簡単に手を結んでしまう歴史の皮肉を笑うことを忘れてはいない。コンチータとマチューとが仲なおりしたかにみえる最後のシーンで、手前の方から爆発が起こってその焔が向こう側に拡がってゆくのは、あたかもこの二人に対してブニュエルが爆弾を投げつけたかのような印象を与える。
 ブニュエルが、映画を文化的なテロリズムと考えていたかどうかは知らぬが、文化的なテロリズムの目的は、人の肉体を殺傷することではなくて、人の目を見開かせることにある。だから、それは、人の目を閉じさせてしまう殺意とは正反対のものである。ブニュエルは、目を閉じさせる死のテロリズムとは逆に、目を開かせ、さらには目を見開かせるテロリズムを映画のなかに見出したのである。
 しかし、それにしても、ブニュエルの映画には、殺意を感じさせない〈善良〉そうなまなざしが、人の目を閉じさせるドラマにみちあふれている。すでに『アンダルシアの犬』では、アパートの窓から路上を見下ろしている女の目のまえで、首から箱をぶらさげて自転車を走らせている男が、突然倒れて死んでしまう。ここで目を見開くのは女の方だが、彼女の無意識のなかにこの男の死を望む殺意があったようにみえる。『銀河』では、カソリックの異端者を呪詛する歌を合唱する子供たちを見ている浮浪の男の目が、アナーキスト集団によるローマ法王銃殺のイメージをよびおこす。『昼顔』(一九六六)や『哀しみのトリスターナ』(一九七〇)で主人公を演じたカトリーヌ・ドヌーブの目には、『Aンダルシアの犬?宸フ冒頭でくわえタバコをしてカミソリを磨くブニュエルのまなざしに感じられるような〈殺意〉は全く感じられないが、そのまなざしは、実は殺意を秘めているのである。
 ブニュエルの映画の登場人物たちのまなざしについては、もっと詳細に検討されなければならないだろう。その意味では、さしあたりブルジョワジーとかカソリック、ヨーロッパの政治状況、男と女の愛と性といった〈外部〉の問題を一切カッコに入れて、ブニュエルの映画を眼球の現象学ないしは目の欲望史として見ることも可能だろう。しかし、外部に向かわないまなざしというものはなく、まなざしは、カソリック的であったり、ブルジョワ的であったり、禁欲的であったり、独占的であったり、性的欲望に燃えていたりするのだから、この現象学と欲望史は、ふたたびこの現実世界につれもどされるだろう。これがまなざしの政治であり、ミクロな政治装置としての映画が果たしている奇妙な機能なのである。
●監督・脚本=ルイス・ブニュエル[アンダルシアの犬]脚本=サルバドール・ダリ/出演=ピエール・バチェフ、シモーヌ・マルイユ他/28年仏[皆殺しの天使]出演=シルビア・ピナル、エンリケ・ランバル他/62年メキシコ[銀河]出演=ポール・フランクール、ローラン・テルジュフ他/68年仏・伊[エル]             [若い人]          [ビリディアナ]出演=シルビア・ピルナ、フェルナンド・レイ他/61年スペイン[小間使の日記]出演=ジャンヌ・モロー、ミシェル・ピコリ他/63年仏・伊[欲望のあいまいな対象]出演=フェルナンド・レイ、キャロル・ブーケ他/77年仏・スペイン◎84/ 5/31『キネマ旬報』




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