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カメレオンマン

 報道や表現のリアリティという、メディアにとって最も重要な問題が試練にさらされている。それはメディアが巨大化し、情報技術が高度に発達することによって、メディアの信憑性というものが、事実そのものよりもメディアそのものに依存する度合が強まったからである。
 表現の即時性や具象性という点では今日ほどメディアが効果を発揮できる時代はないのだが、メディアによって表現された〈事実〉が、はたして本当の事実なのかどうかは、以前ほど明確ではなくなり、読者や視聴者の方も、あまりそのことにこだわらなくなってきた。〈疑惑の銃弾〉事件は、まさにその格好の例を提供している。
 ウディ・アレンの新作映画『カメレオンマン』は、こうした−−大なり小なり世界的になっている−−メディア状況を痛烈に風刺している。時は〈狂乱の二〇年代〉。アメリカでゼイリークという一人の男が時代の寵児になる。この男は、なぜか、自分がコンプレックスをいだいている環境に入ると、それに順応して(たとえば野球場では選手に、クラブではジャズ・プレイヤーに)変身してしまう。これは、人格など付け替えのきく仮面にすぎないといった風潮が台頭してきた一九二〇年代には、うってつけの人物だった。
 監督・脚本・主演のアレンは、当時のニュース・フィルムに高度の技術処理を加えて、この〈歴史上の人物〉を捏造し、ベーブ・ルース、ユージン・オニール、さらにはヒトラーにまでゼイリークを面会させてしまう。それらのシーンはあまりにうまくできているので、うっかりすると本当にこんな人物がいたのかと思えてくる。
 フィルムの処理技術がここまでくると、ドキュメンタリーの客観性というものは意味をなさなくなる。実在する人物が決してやらなかったことが映像の編集操作でできるからである。いずれにしてもこの映画は、メディアにおける真実とは何かを考えさせる傑作だ。
監督・脚本=ウディ・アレン/出演=ウディ・アレン、ミア・ファーロー他/83年米◎84/ 5/18『神戸新聞』




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