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サン・スーシの女

 欧米の映画や小説ではナチズムやファシズムの批判がくりかえし行なわれる。それは、ときには敵討ちの様相を呈し、その執拗さにへきえきする向きもあるだろう。
 しかし、戦争問題を「戦争責任」といったようなひどく〈高邁〉な次元で問題にするよりも、大戦批判とは敵討ちなのだとはじめから考える方が現実的かもしれない。
 ただし、これは、社会内の対立がいつも比較的見えやすい形で存在する所でのみ現実的なのであって、日本のように対立がたえずもみ消され、うやむやにされやすい社会ではむずかしいかもしれない。欧米では、ナチの批判勢力が一方にあるとすれば、ネオナチの勢力が他方に存在し、両者が露骨に対峙しあっている傾向がある。
 ジャック・ルーフィオ監督の『サン・スーシの女』(フランス・西ドイツ合作、一九八一)は、ナチズム批判をそのような観点から描き、成功した作品である。
 ジャック・ケッセルの同名の小説(一九三七)にもとづいているが、ルーフィオはこの映画の舞台を一九三〇年代のベルリン、パリと現代のパリとのあいだをたくみに移動させ、この映画をアクチュアルなネオナチ批判、さらにはテロリズム批判の作品に仕上げた。
 世界人権擁護委員会の代表であり資産もある初老のマックス(ミシェル・ピコリ)がパリのパラグアイ大使館を訪れ、大使を射殺したのは、復讐のためだった。ユダヤ人である彼は、ナチのために父親を殺され、自分もつえに頼る身にさせられ、彼を救ってパリに連れ出してくれた養母(ロミー・シュナイダー)までもナチの非情な暴力のために失ったのだった。その張本人が名を変えてパラグアイ大使としてパリにいることを知ったとき、彼は自分の復讐心をおさえることはできなかった。
 しかし、この映画のアクチュアルな所は、復讐は新たな復讐を生むということを示唆している点だろう。このことが、映画の最終シーンでさりげなく示される。
監督=ジャック・ルーフィオ/出演=ロミー・シュナイダー、ミシェル・ピコリ他/81年西独・仏◎84/ 2/27『キネマ旬報』




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