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グリーン・カード

 ブルース・ヨネモトとノーマン・ヨネモトの『グリーン・カード』を見ながら、わたしは、自分がいつのまにかこのヴィデオ作品を映画として見ていることに気づいた。それは、一つには会場の構造にもよる。以前ロバート・ウィルソンが、ヴィデオ作品をもってきて同じ会場で見せたとき、ヴィデオは環境芸術なのだからもっとリラックスして見てほしかったというようなことを語っていた。実際に彼の作品は、いまはやりのカフェ・バアで酒でものみ、人と話をしながら見るのにふさわしい形式をしていたが、それでは『グリーン・カード』をヴィデオとして見る最上の環境とはどのような環境だろうか?
 それは、決してイメージ・フォーラムのようなシネマティク的な環境ではないだろうし、むろんカフェ・バアでもない。それは、おそらく家族が団欒する居間でなければならないだろう。しかし、そのような空間は、いまの日本にも、そしてこの映画が作られたアメリカ西海岸にもまともな形で存在するとは思われない。その意味で、この作品は、いまや〈グリーン・カード〉(永住権)を喪失している家族的人間関係やコミュニケイションの亡霊をビデオ画面のこちら側につかのまよびおこす。それは、もはやリアリティをもたない甘ったるい現実であると同時に、どこかで記憶の痕跡に訴えて郷愁をそそるような現実である。こうした両義性を示唆する点で、この作品の副題「アメリカン・ロマンス」は意味深い。
 ブルース・ノーマンによると、このヴィデオ作品は、アメリカ人がその日常的な行動、身ぶり、考え方、感じ方においてハリウッド映画の決まり文句や行動パターンの影響をいかに強く受けているかということを問題にしているという。実際にこの作品には、?囂赶Mの航路』i一九四一)や『ラブストーリー』(一九七三)の〈名場面〉を下敷にしたシーンがあり、それが奇妙な効果を発揮する。その効果は、たとえばメル・ブルックスがよくやるようなパロディ的なもじりではなく、むしろ日本のテレビの?亦泣<号翌ナそれとは知らせずにハリウッド映画から引きつがれてきたような技法が発揮する効果なのだ。だから、このヴィデオをそれ自身が内部にもつ引用的距離を全く知らずに見ると、日本のへたな?亦泣<号翌?見せられているような印象を受けるはずである。
 しかし、この映画には、もう一つの距離が内装されており、観客がそれを単なるメロドラマとして見てしまうことからひき離す。それは、スミエ・ノブハラをはじめとする出演者たちの〈素人〉くさい演技であって、このことが全体を完成されたメロドラマの作品というよりも、メロドラマのための一つのヴィデオ・パフォーマンスにしているのである。
 とはいえ、このパフォーマンスはかなり構成されたものであり、複雑な入れ子構造をなしている。主人公の日本人女性スミエは、学生ヴィザが切れ、グリーン・カードを得たいと思っている。アメリカに留まることを望む彼女が選んだのは、彼女を愛する病弱な日本人青年を捨てて、アメリカ人のフィルム・メイカー、ジェイと結婚することだった。アメリカ人と結婚することが、グリーン・カードを取得する最も安直な方法であり、ジェイもそのような便宜的結婚に協力することを同意したからである。メタフォリカルに考えると、ここで、スミエが日本人的人間関係をたち切ってアメリカ人と結婚したということは、日本のテレビがアメリカに永住したいために、形だけハリウッド映画の形式と結びつくことを意味する。実際、ジェイという男は、サーフィン映画といういかにもハリウッド的な映画に執着しており、ハリウッドのメタファーとして最適である。しかも、スミエは、はじめは永住権を取得するためだけの形式的な結婚のつもりが、ジェイともどもその儀式的な〈真実〉のなかにどんどんのめりこんでゆくわけだから、これは、日本のテレビがアメリカ映画に対してもっている関係を思うときなかなか意味深長である。そしてその際、スミエを、いまアメリカの日本人居住地区にはかなり普及している日本人向けのテレビ放送のメタファーとして見るとおもしろいだろう。むろんこれはいささかクレイジーな思いつきなのだが、全く根拠のないことではない。
 ヴィデオのなかでわたしは、「INSがリトル・トーキョーを囲む」というトップ記事をかかげた『ロサンゼルス・タイムズ』を見た。これは、INSつまり目下日本電信電話公社が総力を結集して推進している「高度情報通信システム」という光ファイバーのケーブル・ネットワークが、ロサンゼルスのリトル・トーキョーにも張りめぐらされるということである。日本のニュー・メディア・フィーバーは、アメリカから輸入され、今度はそれがアメリカの日本人コミュニティに輸出されようとしているわけだ。概して、海外の日本人コミュニティは、つねに日本の文化、政治そして技術を一歩遅れて追っており、そこでは〈日本的なもの〉が時間を少しズラせた形で再生産されている。
 そこで考えるのは、リトル・トーキョーにINSのネットワークが設置されたとき、そこにはどんな〈ソフト〉が流されるのだろうかということである。それは、いま日本で見られているテレビ番組から、アメリカ製作のものを取り除いた残余であるはずだ。その結果、そこには日本よりも〈日本的なもの〉が集中し、集積されることになる。まさにこれは、日本人会のニュー・メディア版である。かつて外務省は、海外の日本人コミュニティの内部に天皇制文化を貯蓄するために日本人会を組織したが、リトル・トーキョーのINSは、それと似たような働きをする可能性がある。そこではこの『グリーン・カード』さえも、その内部の引用的距離を一切消去されて、〈ア・ジャパニーズ・メロドラマ〉として放映されるかもしれない。
監督=                             ◎84/ 2/13『月刊イメージフォーラム』



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