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一九八三年度ベスト・ワン
一年間に見た映画のベスト・テンを選ぶのに他誌で苦労したと思ったら、今年はベスト・ワンを選ばなければならない。ベスト・テンなら、自分の見た映画を記憶の薄い順に消してゆくことで、何とか妥協の線にこぎつけることができる。しかし、ベスト・ワンを選ぶというのは、まさに〈ソフィーの選択〉だ。ソフィーは、ナチの隊員に嚇されて二人の子供のうちの一人を手放さなければならなかった。わたしは、服部編集長に嚇されて何十本という映画を見棄てなければならない。酷ではないか。酷である。
ところで、商業ルートにのった映画では『ソフィーの選択』の評判が高いようだが、あれは全然ダメな映画ではないかと思う。わたしは、ウィリアム・スタイロンの原作を読んだとき、これはてっきり、田舎から出てきたウブな青年がニューヨークの貧民街の住人たちや−−それなりに理由があり、同情できなくはない−−ホラ話をすっかり真に受けてしまう話ではないかと思った。というのも、わたし自身、ニューヨークのある貧民街に住んでいたとき、昔女優だったの、オペラ歌手だったの、はては大会社の経営者だったのと自称する人たちの昔話にさんざんつきあわされ、それが彼女や彼らの−−薬物やアルコールの中毒から来る−−パラノイアに近いものだったことを知り、コンチクショウと思ったことが幾度もあったからである。
パクラの『ソフィーの選択』は、そういうウソッパチをウソと知りながら聞くような楽しみをほとんど与えてくれない。それは、映画というものは、観客の感覚をあざむくものだという古典的な前提を無批判に受けついでいるからである。これは、アメリカの商業映画全般に言えることで、映画が最初から観客の姿勢を決めてしまい、それを一歩も越えることができなくなる傾向がアメリカ映画にはあるような気がする。
その意味で、昨年見た映画のうちでは、『Cフゲニア』、嚔狽フ時代』A『サン・ロレンツォの夜』A『エボリ』A『パッション』などのヨーロッパ映画にひかれたのだが、これらは見る側の意識を一方的に規定せず、勝手な想念がわき起こってくるのを許してくれた。
『イフゲニア』を見ながら、政治が行なう大衆意識の操作のことを考えた。『鉛の時代』を見ながら、法律の限界内で出来る闘いをとことんまでやってみて権力の壁にぶつかったとき、人は次に何をやったらよいのかということを考え、必ずしも方向がはっきりしているとは言えないこの映画のなかにも、七〇年代のヨーロッパの運動のなかで出てきた〈自己減力〉(システムの論理を逆手にとってそれ自身の方から自己の限界を露呈させてしまうこと)の戦略への意識が見出せることを知った。『Tン・ロレンツォの夜?宸ニ『エボリ』で一番印象に残ったのは、どちらにもニューヨークのことが出てくることだった。『パッション』は、画面に注視させ続けるのではなく、画面をぼんやり見、音・声をぼんやり聞きながら勝手な想念をどんどんふくらませてゆくことができる点で解放的な映画だった。
しかし、その点では、年末に見たジョナス・メカスの『LOST LOST LOST』が最も解放的だった。ただし、この映画については二度も文章を書いてしまったので、もはやあまり言うことが残っていない。服部編集長の要請を四の五の言わずに受けいれるならば、ベスト・ワンは、この『LOST LOST LOST』だと言ってよい。とはいえ、この映画と前述の商業映画とでは、自由ラジオとNHK・FM以上のちがいがあるので、これをベスト・ワンに選んでさっぱりした気持になることができないのである。
おそらく−−というのは、わたしはわたし自身を十分に知っているとは言えないので−−『LOST LOST LOST』をベスト・ワンにしたいとわたしが思うのは、わたしが映画との関係を機械と人間との関係ではなく、生身の人間同士の関係にしたいと思っているからだろう。むろん、それはアンドロイドに〈人間的なもの〉を求めるのに等しい。しかし、メカスの映像にはつねに撮影者の身体(運動)が感じられる。そこには、撮影者の身体器官は見えないのだが、〈器官なき身体〉が感じられるのである。それは、メカスがカメラ=映写機というメカニズムを限りなく撮影者(多くはメカス自身)の身体性のなかにとりこむことに成功しているからである。今日のカメラ・テクノロジーは、逆に撮影者の身体の方をメカニズムに同化させようとするが、メカスはそのような方向に断固として抵抗する。というのも、このようなテクノロジーは、撮影ということのなかにもともと存する身体器官の消去作用に加えて、〈器官なき身体〉をも完全に消去し、撮影者(そして最終的には観客)という人間存在をアンドロイドに変容しようとするからである。
[ソフィーの選択]前出[イフゲニア]前出[鉛の時代]前出[サン・ロレンツォの夜]前出[エボリ]前出[パッション]前出[LOST LOST LOST]前出◎84/ 1/14『月刊イメージフォーラム』
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