49

ジョーズ

 一九七四年に発表されたピーター・ベンチリーの『ジョーズ』がたちまちベストセラーになり、翌年に封切られたスティーヴン・スピルバーグ監督の同名の映画ともども、七〇年代中期のアメリカで『ジョーズ』ブームが続いたのは、当時のアメリカの社会状況と深い関係がある。
『ジョーズ』という作品自体は、アメリカの大衆小説の定石をうまく押さえた娯楽文学であって、文学作品としてはそれほど斬新なものではない。また、スピルバーグによって映画化されたものも、ジェイムズ・モナコが言っているように、「五〇年代の俗物映画のタッチをもったスリラー」であって、そこには新しい映画技法や映像を生み出す革新的な要素はない(ただし、『ジョーズ』は、小説も映画も収益上の新記録を作り、これまでの書籍ビジネスと映画ビジネスの常識を破った)。だから、新しかったのはこの作品をとりまく状況であって、この作品がひき起こしたセンセイショナルな反応の中には、この時代のアメリカの政治、経済そして文化の状況が強く作用していた。
 一九五〇年代の冷戦時代に、アメリカには平和な世界への外敵の侵入という文化が定着した。ヒッチコックのスリラー映画の人気もこうした文化を基盤としているし、宇宙人が地球を、インディアンが白人を攻撃するといったテーマが小説や映画で繰り返し取り上げられるのもそのためである。
 スピルバーグは、?嚮ンヒ!』以来、?囑「知との遭遇』においても、『1941』においても、そして『ポルターガイスト』や『E?MT?M』においても、こうしたアメリカの大衆文化的伝統をたくみに用い、そこにある冷戦時代の要素、つまり外敵の侵入→反撃という構図を、自分と異なるものとの融和という方向へ転換しようと試みている。
 そうした試みがアメリカの大衆文化の中に実際にどの程度まで定着したかはわからないが、レーガン体制になって、ふたたび新しい冷戦構造が米ソを軸にして築き上げられてしまった現在の時点では、スピルバーグの心やさしい試みはあまり大衆文化の中に根を下ろさなかったように見える。
 ベンチリーの『ジョーズ』がセンセイションをまき起こした背景には、この小説が発表される前年に起こった経済危機がある。実際、一九七〇年代の前半期は、世界史的に見ても時代のひじょうに重大なターニングポイントであり、とりわけアメリカにとっては決定的な時期であって、この時期に起こった出来事は、すべて相互に関連しあっている。
 すでにアメリカ経済は、ヴェトナム戦争への介入によって疲弊していたが、一九七三年には、それまでのいっさいの危機がピークに達した。一九七一年にドルと金との交換をアメリカが停止して以来混迷を続けていた国際金融市場は、この年ついに通貨危機に陥り、各国は変動相場制に移行した。九月のチリ軍部クーデター、十月の第四次中東戦争は、こうした状況下におけるアメリカの焦りと無関係ではなく、一月にヴェトナム和平協定に仮調印し、ヴェトナムでの勝利を期待することのできなくなったニクソン政権は、四月にウォーターゲート事件にまきこまれ、内憂外患の事態に追いこまれており、このふたつの戦争は、そうした袋小路をなんとか脱出しようとするニクソン政権の焦りが、アジェンデ政権へのCIA工作、イスラエルへのテコ入れという形で突出した結果であったといってよい。
 アメリカのこうした帝国主義的な政策は、アラブ諸国の猛烈な反撃を受け、原油価格の値上げ、原油生産の削減と非友好国への原油輸出禁止を決定した。このため、世界の原油価格は一挙に四倍以上にはね上がることになった。いわゆるオイル・ショックである。これは、日本でもトイレットペーパーの買いつけ騒ぎとともに、まだ記憶に新しい。アメリカは、日本よりもアラブの石油への依存度が若干低いことと、こうした危機−−その発端はアメリカにあるので−−を予測して、大量に石油を買いつけて備蓄するといった処置をとっていたので、日本のようなパニック状態にはならなかったが、どのみち経済は悪化し、一九七五年には失業率が史上最高に達した。
 平和なロングアイランドの海水浴場に、とつぜん巨大なサメが現われて人々を襲うというテーマは、その意味では、日本のオイル・ショックにこそふさわしいように思われるが、もし日本のオイル・ショックのようなパニックがアメリカ全土を襲ったとしたら、そうしたパニックの大衆意識に適合するテーマは、アメリカの場合、サメよりももっと具体的なものにならなければならないだろう。しかし、七〇年代のアメリカを襲った危機は、五〇年代のそれとは違い、その原因を単純化できない複雑さをもっている。というのも、この時代の危機の原因は、たとえばキューバ危機のときのように、「ソ連がアメリカを核攻撃しようとしている」といえばかんたんに人を納得させることができるような単純な様相を呈してはいなかっただけでなく、むしろその原因はアメリカの政治と経済自身にあったからである。
 こうした「内部の敵」、というよりどこにいるのかがわからずにわれわれを消耗させる相手としては、なかなかその全貌を現わさずに人を襲うサメという存在はうってつけだろう。というのも、そのような相手に対しては、それに対応する人間のあり方がクローズアップされるからである。この小説の題名を決める編集会議では、『リバイアサンのジョーズ』というタイトルも案として出たという。「リバイアサン」とは、いうまでもなくトーマス・ホッブスの著作によって有名になったものであるが、もともとは旧約聖書に出てくる巨大な怪獣の名であるこのことばを、ホッブスは「人間に対して狼である人間」をすっぽりとのみこんで厳しい統制を強制するような国家組織の象徴として用いた。その後、このことばは、個人を抑圧する組織や国家の代名詞にもなったわけだが、ホッブスにおいては、この「リバイアサン」に人間が抵抗することはできないのである。
 その意味では、スピルバーグの映画のように、最終的に「怪物」が人間によって華々しく打倒されてしまうのは、『リバイアサンのジョーズ』にはふさわしくない。が、いずれにせよ、このエピソードは、『ジョーズ』の主題が怪物や強敵としてのサメによりも、むしろそのようなものをめぐって展開される人間のドラマ−−つまりは政治−−のほうにあることを示唆しているといえなくもない。
 ベンチリーは、六〇年代にジョンソン大統領のもとで二年間スピーチ・ライターをしていたという経歴をもつ。「偉大なる社会」の御旗をかかげて出発しながら、ヴェトナム戦争の泥沼にはまり込み、結局のところ「無策の策」に終始してしまったジョンソン大統領、彼のもとでベンチリーは、とらえどころのない脅威と危機に直面して明確な決断に出ることのできない人間の姿をいやというほど見てきたのである。
監督=スティーヴン・スピルバーグ/出演=ロバート・ショウ、リチャード・ドレイファス他/75年米◎84/ 1/11『CAT』




次ページ        シネマ・ポリティカ