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LOST LOST LOST

 ジョナス・メカスの?哭OST LOST LOST?宸?みた。それは、普段みる商業映画とは全く異質の〈眼の悦び〉と安らぎを与えてくれた。
 一九四〇年代から六〇年代にかけてメカスが折にふれて撮ったフィルムの断片や小品を一つの「日記・ノート・スケッチ」として編集したこの作品(六リール、全二時間五十六分)は、その主要な背景となっているニューヨークのドキュメントとしても貴重である。ブルックリンのウィリアムズバーク地区のビルの屋上から撮ったショットには、煙を吐く工場の煙突が林立するのがみえる。当時、ブルックリンは、まだ工業化社会の段階にあったのである。ニューヨーク市が脱工業化、情報産業化へ向かって急速な変貌をとげはじめるのは、六〇年代末以降のことだ。いまではマンハッタンにはむろんのこと、ブルックリンにも、このような工場の数はひじょうに少ない。
 政治状況の変化をこの映画から読み取ることもできる。小さなサッカー場の観客席にちらほらみえる軍服は、明らかに、朝鮮戦争の勃発を反映している。次第に深まる冷戦の緊張とエスカレイトする米ソの軍備競争。メカスは、一九六〇年代のはじめにマンハッタンのメインストリートで行なわれた核実験反対のデモを念入りに記録している。それは、ニュース映画の眼によってではなく、デモに参加する者の眼によってだ。一九六五年の北爆以後、昂進するヴェトナム戦争とともに台頭するアメリカのニュー・レフトの運動については、日本でもよく知られているが、六〇年代初頭の反核運動については、あまり知られていない。デモ隊のプラカードのなかに、丸印に矢を書いた反核マーク●を発見したとき、わたしは、七〇年代以後の欧米の反核運動ではひじょうにポピュラーなこのマークが、すでにこのころから使われていたことを知った。
 この映画が与えるある種の安らぎは、おそらく、この映画が人間の身体性に限りなく近づいていることから来るのだろう。今日、カメラは、スチル、映画、ヴィデオのいずれの場合にも、高度のオートマティック化が進んでいる。これは、一見カメラが人間的身体性−−つまりは肉眼−−に極度に接近したことであるかのようにみえるが、実は、これは、肉眼の方がメカニズムと電子回路の方に歩みよったことを意味するのである。
 肉眼が肉眼であり、身体が生ま身の身体であるかぎり、それらは物や機械や他者に対して抵抗を示すが、カメラがオートマティックになればなるほど、そうした抵抗は少なくなるだろう。というのも、そこでは、人は〈主体〉ではなく、〈三脚〉か〈レリーズ装置〉になり下がるからである。写真や映画は、もはや身体とその世界との身体的な(身体をかけた)格闘の記録ではなくなってくる。撮影者がその身体によってその世界(被写体)をまさぐった身ぶりやその痕跡は、きれいに消去されることになる。
 メカスの映画は、こうした方向とは対極の位置にある。ある意味で、彼はこの映画でそうした身ぶりやその痕跡しか記録していないとさえ言える。彼にとってカメラは身体の一部なのだ。彼はおもしろいエピソードを語っている。彼を有名にした『リトアニアへの旅の追憶』(一九七一)は、彼の四台目のボレックスで撮影された。三台目が、旅の直前に使用不能になったからである。しかし、この新しい撮影機は、「とんでもない代物だった」。スピードを24コマにセットしても、三、四ショット撮ると32コマになってしまうのである。しかし、メカスは、それを修理するよりも、その「欠陥をスタイルの一要素にとり入れて、光の変化を構造上の手段として使ってみようと決心した」という(西嶋憲生・編訳『フィルム・ワークショップ』Aダゲレオ出版)。
 カメラが身体の一部であるということは、撮影者にとっても被写体にとってもカメラが無に等しいということでは全くない。逆に、それは、わたしがあなたに向かって性器を露出しながらあい対する場合とそうでない場合とがちがうように、カメラをもっていないときとはちがった状況をつくり出す。だから、この映画に登場する人々は、ほとんどすべて〈ありのまま〉の姿でフィルムに定着されているようにみえるとしても、それらは、やはり、カメラの存在によって新たにつくり出されたものなのである。ただし、それらが演出された映画の演技や〈竄轤ケ?誤植〉ニはちがうのは、それらがすべて撮影者との相互身体的な関係のなかでつくり出されているからである。ブルックリンの街角でカメラに向かってほほえむ老人、野外パーティでカメラの方を向いてポーズをとる人々、彼や彼女らはカメラに向かって演技をしているのではなく、カメラを通じて撮影者と身体的コミュニケイションをかわしているのであり、映画をみるときいまや撮影者の位置にいるわれわれは、スクリーンを通じて彼や彼女らの−−失われた−−身体に感応するのである。
前出◎83/12/28『カメラ毎日』




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