43
フラッシュダンス
エイドリアン・ライン監督の『フラッシュダンス』が、ひどくあたったらしい。主演のジェニファー・ビールスは、早くも日本の広告宣伝会社の目にとまって、テレビのコマーシャルに登場している。この映画は、日本では、主にジェニファー・ビールスの魅力とその成功物語的な単純な内容が観客にアッピールしたようだが、少し見方を変えてこの映画を今日のアメリカ社会の文脈でみてみると、これは相当プロパガンダ的−−と言って悪ければ−−教育的な映画であることがわかる。
七〇年代にアメリカでは、ニューヨークを舞台にした映画が多数作られた。それらは、最初から計算してそうなったわけではないにせよ、一つの教育的・プロパガンダ的な機能をもっていた。つまり、ジェントリフィケイションの普及・啓蒙という機能である。
ジェントリフィケイションというのは、街と生活の「高級化」であり、日本語では「パルコ化」とでも言えばよいかもしれない現象である。ただし、日本の場合よりも、その変化はもっと徹底しており、マンハッタンは、この十年間にジェントリフィケイションが進んだために、街の住人の階級が変わり、街並や住居の質が「高級化」し、貧民には住むことがひじょうに困難な場所になってきた。〈ニューヨーク映画〉は、こうしてマンハッタンを独占しはじめた新しい「ジェントリー」(紳士階級)、具体的には専門職のエリートたちのライフ・スタイルや文化をえがき、それらをニューヨークだけでなく、他の都市さらには日本の都市にまで波及させる機能をはたした。
『フラッシュダンス』の主人公は、昼間工場で働き、夜はバアでアルバイトにフロアー・ダンサーとしてショウのダンスを踊り、ゆくゆくはプロのダンサーになろうとしている若い娘だが、そのライフ・スタイルは、明らかに〈ニューヨーク的〉だ。
まず、彼女の愛用している自転車。ニューヨークの「新階級」は、自動車よりも自転車に乗ることをナウいことだとしている。次に彼女の愛犬。これも、ニューヨークの「新階級」のアクセサリーだ。さらに、彼女が住んでいるロフト。工場や倉庫のスペースだった所を改造して住むロフト・リビングは、もともとは、ソーホーの貧乏芸術家の発案だったが、今日では、〈文化〉意識の高い金持階級のファッションとなり、おかげで貧乏芸術家の方は、家賃をつりあげられて、他所へ放逐されることになった。
むろん、この映画の主人公は、マンハッタンの「新階級」と同じような、一見カジュアルにみえて実は大変金のかかった生活をしているわけではない。むしろ、そういう生活をマネているにすぎない。しかし、問題は、こうしたニューヨーク的なライフ・スタイルが、この映画が舞台として設定しているペンシルヴェニア州のピッツバーグで見出される点である。
ピッツバーグは、工業都市であり鉄鋼業や自動車工業が斜陽のアメリカでは、失業人口の多い「サエない」都市の一つである。したがって、現実は、この映画に登場する若い工場主(マイケル・ヌーリー)のように、自分の工場でアルバイトをしている女の子を仕事そっちのけで追いかけまわすような雰囲気とは大分くいちがっている。むろん、そういう人もいなくはないだろうが、そういう話を映像にした場合、その映画は、現実を発見させることよりも、現実には存在しないものを夢見ることによって現実から逃避させることの機能を大いに発揮する。これは、旧工業都市が「サエない」のはなぜなのかという問いを触発させないためには大変好都合である。
現在、アメリカでは、鉄鋼、船舶、自動車などの重工業の伝統的な産業をいかに「安楽死」させるかということが問題になっている。企業の〈先進的〉な部分は、こうした旧タイプの産業からハイテクや遺伝子産業にのりかえたいと思っている。
ニューヨーク市は、こうした伝統的な産業がかつて栄えたアメリカ北東部のうちでは、最も早く転身をなしとげつつある都市である。つまりニューヨーク市は、もともとさかんだった衣料品製造や中・軽工業の工場を市の外に追いやり銀行や文化産業を中心とする情報生産の都市へと転身をとげた。
ニューヨークのジェントリフィケイションは、まさにこうした下部構造の変化に対応しているわけであるが、『フラッシュダンス』には、これと同じことをピッツバーグでもやりたいという隠れた欲求がこめられている。
おもしろいことに、この映画は、マンハッタンの映画館ではあたらなかった。ニューヨークのマス・メディアの評も、概して冷たかった。それは、考えてみれば、当然である。ジェントリフィケイションが浸透してしまった都市は、もはやそれをプロパガンダする映画を必要とはしないからである。
実際、その意味では、最近、ニューヨークを舞台にした映画が少なくなった。今年作られたものでは、マーティン・スコセッシの『キング・オブ・コメディ』(日本公開は来年)とチャーリー・エーアン#の『ワイルド・スタイル』(上映中)ぐらいしかない。しかも、これらは、みなマイナーなプロダクションによって製作されている。ということは、それらのプロパガンダ的・教育的な機能は一応度外視されているということである。このこと自体は決して悪いことではない。
ハリウッドが巨大な資金を投資してメージャーな映画を作る場合、その作品は、監督やプロデューサーの意図とは別に、映画産業の経済構造や予定される観客像(それはあるがままの観客であるよりも、むしろ観客の欲求の一種の間隙)にしたがって作られることが多い。その意味で、ハリウッド映画は、支配体制全体の意識的・無意識的な要求をいつも実に見事に反映することになる。
ただし、そうした要求が、いつも観客によって〈正しく〉受けとめられているかというと、必ずしもそうではなく、まさにこの点に一つの救いがあるわけだ。
プロパガンダや教育はもうたくさんなのである。
監督=エイドリアン・ライン/出演=ジェニファー・ビールス、マイケル・ヌーリー他/83年米◎83/11/26『思想運動』
次ページ シネマ・ポリティカ