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都市の〈難民〉
ジョナス・メカスの?哭OST LOST LOST?宸?見ながら、わたしは自分を〈難民〉の位置に置きかえていた。難民とは、メカスがその感動的な一文のなかで定義しているように、「他人の力であれ周囲の状況であれ、とにかく力によって自らの故郷から追い立てられた人たち」(西嶋憲生・編訳『フィルム・ワークショップ』Aダゲレオ出版)であり、それは、平和な日本でのうのうと暮しているわたしなどがたとえ仮そめにも身を置くことのできないものであるはずだが、にもかかわらず、われわれは、今日、みな大なり小なり〈難民〉であらざるをえないし、とりわけ日本の都市で生活する者は、たえず〈故郷〉から追い立てられる生活を強いられているかぎりにおいて、こういう言い方が許されると思う。
『記憶の技法』の著者フランシス・A・イエイツの「都市と記憶術」(玉泉八州男訳、?嚮サ代思想』A一九八三年七月号)によると、印刷メディアが浸透する以前には都市が記憶体系の役割を果たしており、古代の人々は、街路の間隔や建物の細部に自分の知識や記憶をたくわえるのをつねとした。都市とは、ペンをもった手先でだけでなく、そこを遊歩することのなかでからだ全体ですべてのものを〈書きこむ〉ことのできる〈ページ〉であり、書物よりもはるかに長い歴史をもった記憶術の場だったのである。このような都市は、ほとんど失われてしまったし、とりわけ東京という都市での生活は、都市のそのような機能を全く不可能にする。東京という都市には、遊歩者が何かを〈書きこむ〉まえにすでに何かが〈書かれ〉ており、そこを遊歩する者はつねに記憶を喪失していなければならないのである。その意味で、東京に住む者は、都市の記憶から排除された〈難民〉であらざるをえない。
『LOST LOST LOST』と同じようなやり方で撮られ、まとめられた『リトアニアへの旅の記憶』を見たケン・ジェイコブズは、メカスに、この映画が何よりもある種の難民体験を描いている点で興味ぶかく、自分が子供時代を送ったブルックリンのウィリアムズバークがもはやなくなっており、その意味で自分も似たような難民体験をしているのだと語ったという。しかし、難民体験とは、決して失われた記憶の再生ではない。それは、むしろ、失われてしまったということの痛烈な再確認である。
メカスは、前掲の文章のなかで、「自分の映画日記を見直していくと、そこにはニューヨークになかったものばかりがあふれていました。……実際には私が撮っていたのは、ニューヨークではなく、自分の子供時代だったのです。それはファンタジーのニューヨークであり、フィクションなのです」と言っているが、メカスの映像は、まさにフィクションとしての映像のこちら側に生ける難民を存在させる。それは、決して映像のなかで対象化されることのない〈主体〉であり、映像を見る者の一人ひとりが自分で生きるしかないところのものである。
『LOST LOST LOST』は、一九四九年から一九六三年にかけて撮影され、一九七五年に発表されている。ということは、これらの映像は、撮影された時点においてすでに失われたものへの難民的意識をその超越論的な極にもっていたと同時に、発表された時点においては、その〈完成された〉映像がその原形をなす映画日記ないしはノート・スケッチの断片に対する失われた難民的意識を措定するということである。言いかえればこの映画は、メカスがボレックスで映画日記を撮る以前の失われた世界(リトゥアニア)と、映画日記がたどる時間とともに失われていった世界(〈現実〉のニューヨーク)と映画が〈完成〉するなかで失われた世界(〈tァンタジーのニューヨーク〉jという三つのロスト・ワールドに関わっているわけである。
その意味では、この映画には、メカスの故郷リトゥアニアへの愛惜だけではなく、彼が若き日々を過したニューヨークへの愛惜、そして、さらに、そうしたニューヨーク(や折にふれて訪れた土地)を映画日記に撮ったことへの愛惜があふれている。メカスは、映画のナレーションのなかで言っている。「わたしをセンチメンタルだと言うがよい。あなたたちは自分の生まれた国にいる人達。わたしは異国なまりの英語をしゃべり、どこから流れてきたヤツだろうと思われている人間。これは、国を追われた誰かが撮っておいた映像とサウンドなのだ」(飯村昭子訳)。
こうした重層化された喪失感と愛惜が、通常の−−「〈ウしい〉露出、〈ウしい〉カメラワーク、正しく適正なあれやこれやといった型にはまった」−−商業映画では決して表現されないということは、『LOST LOST LOST』のリール1とほぼ同じ時代のブルックリンを舞台にしているアラン・J・パクラの『\フィーの選択?宸?みればわかるだろう。それは、観客をあたかも一九四〇年代末から一九五〇年代のブルックリンへタイム・トラベルさせようとするかのようにブルックリンを映し出す。一九四七年に安いルーミング・ハウスを求めてブルックリンにやってきた作家志望の主人公スティンゴ(ピーター・マクニコル)と、一九四九年にブルックリンのロリマー・ストリートの友人宅に身を落着けたメカスとのあいだには、その生活状態の点でそれほど差があったとは思えないが、メカスのカメラに映るブルックリンの街頭と彼のアパートは、『ソフィーの選択』の世界よりもはるかにみすぼらしく、うさんくさい。それは、単に映画に映る人々や物たちの貧しさやうさんくささのためではなくて、むしろ時代のもつ無味乾燥さのためであり、そうした時代に生きることとそれを記憶することの味気なさのためである。こうした屈折は、たとえピーター・ボグダノヴィッチが『ラスト・ショー』でやったような手のこんだ操作をしたところで、通常の商業映画の技法では決して表わすことができないもののように思われる。
メカスが住んだブルックリンのウィリアムズバーク地区は、黒服を着てアゴヒゲをはやしたハシディズム派のユダヤ人が集中的に住んでいるところとして有名であり、いまでもそれは続いているが、メカスが実際に住んだミゼロール・ストリート、フィフス・ストリート、ロリマー・ストリート、マスペス・ストリートは、その中心地から少しはずれている。これらは、現在、ニューヨーク市における最大のスラムの一つとして有名なベッドフォード=スタイブサントに隣接する準スラム地区である。メカスの映像からみるかぎり、これらのストリート(ロリマー・ストリートと、ロリマー・ストリートと隣りあわせのウォルトン・ストリートがはっきりと映っている)は、今日とは全くちがう雰囲気だ。ただし、この時代でも、街のアコーディオン弾きや通りがかりの人々の姿から判断して、これらの地域はロワー・クラスの街であったことがわかる。
唯一のちがいは、今日この地域に住んでいる人々は、その大半が貧しい黒人たちやウエスト・インディアンたちである点だ。メカスのブルックリンの街頭の映像に黒人の姿を発見するのは難しいが、それは、ブルックリンに貧しい有色人種が移り住んでくるのは、ずっとあとになってからだからである。
ブルックリンに住みながら、メカスはしばしばマンハッタンに出かけていたようだ。いまでもまだブルックリンは、マンハッタンにくらべると夜の生活が短いところが多いが、メカスは、孤独な夜、マンハッタンに出かけ、街を放浪した。彼はモノローグしている。
「長い、孤独な夕ぐれがあった。長い、孤独な夜があった。マンハッタンの夜を、どこまでも歩きつづけたことがあった。あんな孤独だったことは、はじめてだった……」。
おそらくメカスは、極度の貧しさのなかにいたのだろう。彼のカメラは、この孤独な放浪のなかで、タイムズ・スクウェアのネオン・サインを映し出す。ポルノ館の看板の一つには〈フィーマル・セックス〉という文字が見えるが、これはいかにも五〇年代風だ。大量消費主義と朝鮮戦争と冷戦的軍拡の浪費主義をつき進むアメリカがむき出しに現われているタイムズ・スクウェアを金もなく、やくざな心ももたずに歩くことほど孤独なことはない。メカスは、ヘンリー・ミラーの『南回帰線』のなかの〈わたし〉のようにやくざにはなれない。彼は、メカスを孤独に陥れるタイムズ・スクウェアの街の俗悪さに激しい呪咀をはきかけることでその孤立感を解消できた。
「……聖トマス・アキナスが彼の生涯の最大の傑作のなかに入れ忘れたタイムズ・スクエアから五十番街にいたる区域……にともなって、もろもろの事物が発生した−−たとえば、ハンバーグ・サンドイッチ、カラー・ボタン、プードル犬、自動販売機、灰色の山高帽、タイプライターのインクリボン、オレンジ・ジュース、公衆便所、月経綿、……チューインガム、サイドカー、酸性飲料、……すべてが人の心を熱病的な妄想に似た期待へと駆り立てるのだ」(大久保康雄訳、河出書房新社)。
しかし、メカスは、「世界のはての、ブルックリンの、とある場所」で孤独の身をかこつよりも、この暴力的に別の孤独を押しつけるマンハッタンに住むことを選ぶ。それは、ある意味で、リトゥアニアへの失われた追憶の重荷からのがれるためであり、またそれは同時に、リトゥアニアへの追憶の代わりにブルックリンへの追憶をいだくことによって過去への記憶を逆に重層的に深めるための旅への出発だった。人は、何かを深くもつために、何かを捨てなければならないことがある。思い出すために、一度すべてを忘れること。
マンハッタンでのメカスの新しい生活はオーチャード・ストリートではじまる。メカスはユダヤ系ではないようだ(西嶋憲生「ジョナス・メカス物語」、?嚮至ァイメージフォーラム』一九八四年一月号)が、おもしろいことに、彼はふたたびユダヤ人地区に住む。このオーチャード・ストリートは、十九世紀からすでにユダヤ人の街として栄えた所であり、ミロス・フォアマンの『ラグタイム』にも、オープン・マーケットでにぎわうこの通りが出てくるし、ジョージ・ミクリン・シルバーの『ヘスター・ストリート』(一九七五)では、ヘスターとオーチャードが交叉する、この地区で最もにぎやかだった場所がドキュメンタリー・タッチで描かれている。
一般に、ニューヨークの人々が家やアパートを見つける場合、親戚や同じ民族間の情報に頼ることが多く、貸家の主人がユダヤ人であると、そこに住む人もユダヤ人であるといったケースが多い。とくにオーチャード・ストリートの場合、いまはここはプエルト・リコ人たちの居住区になっているが、一九五〇年代までは少なくとも、ユダヤ人の独立区の趣きがあり、従って、メカスがオーチャード・ストリートに住んだということは、メカスがそうしたユダヤ・コネクションをもっていたと考えることもできる。メカスがユダヤ人ではないということがどこまで根拠のあるものであるかはわからないので言うのだが、彼がユダヤ人であってもよい条件はかなりある。『LOST LOST LOST』の最初のリールで、クリスマスの晩の味けなさを映しているシーンがある。メカスは独白している。
「あのクリスマスの夜を、忘れることはないだろう。私達は家の中に居たたまれなかった。あまりにも孤独だった。通りはガランとしていた。ギンクスの菓子屋に立ちよった。誰もいなかった。ギンクスだけはいた。みんなで冷たいビールを飲み、クリスマスの飾りの目立つ通りを眺めた。ちょっと風があって、新聞紙が吹きとんでいた。世界のはての、ブルックリンの、とある場所でのことだ」
映画にはウォルトン・ストリートの標示板が見える。実の所、このシーンには、わたしは身につまされた。ニューヨークで、クリスマスをすごすたびに、わたしも同じような気持を味わった。異教徒にとって、クリスマスの晩ほど、つまらない時間はない。チェルシーのナインス・アヴェニューに住んでいたとき、窓からみえるクリスマスの夜のトウェンティファースト・ストリートのたたずまいは、まさにウォルトン・ストリートのそれにそっくりだった。
ちなみに、リトゥアニアにはユダヤ人が多く、彼や彼女らのことを〈リトヴォック〉と言う。ユダヤの民衆作家ショーレム・アレイヒェム(『屋根の上のヴァイオリン弾き』の原作者)は、いささか辛辣に、「リトヴォックは、あまりに聡明すぎるので、掟を犯すまえに悔い改めをする」と言っているが、〈リトヴォック〉には、懐疑的で無情な合理主義者という嘲笑的な意味があるように、現実に対してつねに距離をおく姿勢がこの語に含蓄されている。
メカスが、〈リトヴォック〉であるかどうかは別にして、カメラを使って日常生活を〈ノートし、スケッチ〉するという姿勢には、明らかにこの〈リトヴォック〉の精神がひきつがれているようにみえる。ただし、メカスは、〈リトヴォック〉の「ペダンティックで浅薄、ドライでユーモアに欠ける」(レオ・ロステン『Cーディッシの悦び』j性格を、逆にカメラを使うことによってのりこえたのである。メカスは、「私は自分のフィルムを記憶やノートと考えている」(『tィルム・ワークショップ』jと書いているが、ショーレム・アレイヒェム流に言うならば、メカスは、あまりに聡明すぎるので、フィルムに定着させるまでは記憶できないのである。
これは、一つの病い−−現代病−−であり、すべての文化的〈難民〉の持病ともいうべきものであるが、メカスの場合、彼は、ユダヤ人地区を離れることによって、この病を超克したようにみえる。彼にとって、映画は、一つのセラピーであるが、彼の本格的な映画活動がはじまるのは、アヴェニューBに近いサーティンス・ストリートに住んでからである。チャーリー・エイハンの『ワイルド・スタイル』にも出てくるトンプキンス・スクウェアに近いこの一帯は、最近はイースト・ヴィレッジの東端として金のあるプロフェッショナルや芸術家のコミュニティになっているが、メカスが移り住んだ一九五九年には、雑多な人々が住む、どちらかと言えば貧しい人々の多い地域だった。その意味で、メカスのブルックリン脱出−−マンハッタン行−−は、逆説的な〈故郷〉への回帰だったのである。
[LOST LOST LOST]監督=ジョナス・メカス/ [ソフィーの選択]前出[ラスト・ショー]監督=ピーター・ボグダノヴィッチ/脚本=ピーター・ボグダノヴィッチ、ラリー・マクマートリー/出演=ティモシー・ボトムズ、ジェフ・ブリッジス他/71年米[ラグタイム]監督=ミロス・フォアマン/脚本=マイケル・ウェラー/出演=エリザベス・マクガバン、ジェームズ・キャグニー他/81年米[ヘスター・ストリート] [ワイルド・スタイル]前出◎83/12/ 8『月刊イメージフォーラム』
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