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チャンス

 ジャージー・コジンスキーの同名の原作を映画化したハル・アッシュビー監督の『ビーイング・ゼア』を初めて見たのは、一九七九年のニューヨークの試写会でだった。その後、富士映画が『チャンス』という邦題で封切ったとき、映画評を書くのでもう一度見た。さらにその後も、どこかの名画座でほかの映画といっしょに上映されたのを二度ほど見、日本語に吹き替えられてテレビで放映されたものも見た。『ブルース・ブラザース』のように積極的に何度も見たというのではないが、幾度見てもおもしろいと感じる映画のひとつである。
 いま、わたしたちの社会には、公的なスペースから私的なスペース、さらには個人的なスペースにまで電子的メディアが侵入し、人と人、人と物とのあらゆる関係がエレクトロニックの関係−−つまりスイッチを入れているあいだしか持続しない関係−−になりつつある。こういう新しい状況の中で、わたしたちのパーソナリティはどのように変化するのだろうか。おそらく、この映画は、こうした問題を真正面から扱い、成功した最初の作品であり、現代社会の一面を鋭く照射した傑作のひとつだといってよいだろう。
 映画は、確実に、原作(一九七一年刊)の世界をいっそう現実に近づけたが、その構成はほとんど原作に忠実であり(映画のスクリプトもコジンスキーによって書かれた)、原作がなければこの映画を作ることは不可能だった。ただコジンスキーはおそろしくスキャンダルの多い人で、昨年は『ヴィレッジ・ヴォイス』紙が彼とCIAとの関係や彼の主要作品がゴーストライターによって書かれていることをすっぱ抜き、『ニューヨーク・タイムズ』も、数ページにわたる記事でこのスキャンダルを報じた。
 しかし、このスキャンダルの中で、『チャンス』までも、コジンスキーの出身地ポーランドのある作家が一九三二年にポーランド語で発表した小説『ニコデム・ディズミーの経歴』の剽窃であるという疑いをかけられたのは、いささか気の毒な気がしないでもない。メディアの状況は、一九三〇年代と一九七〇年代とでは大ちがいなのであり、まったくの偶然から有名人になりあがってしまうという人物を扱っている点では両作品は共通点をもっているとしても、『チャンス』の主題は今日のマス・メディアの驚くべき影響力と効果であり、それは一九三〇年代には一般化してはいなかったことだからである。
 映画『チャンス』は、初めから奇妙な雰囲気につつまれている。それは、あまりにありふれた世界であり、最初のうちはその奇妙さがどこからくるのかがよくわからない。主人公チャンスは、一九二〇年代に建てられた庭つきのタウンハウスに住む初老の男だが、部屋という部屋にテレビがあり、彼が草花の手入れをする庭先にも、テレビが置かれている。
 だんだんわかってくることは、チャンスは幼いときにこの家につれてこられ、その後五十年以上ものあいだに彼が接触した人物は、彼の養父と黒人のメイド、いまはいない雑用夫のたった三人で、彼は、これらの人物とときたま接触する以外は、それほど大きいとはいえない庭で草木を友とするか、ラジオやテレビに向かうかして毎日を過ごしてきたのである。だから、彼の知識や彼の使うことばの語調は、生身の人間との具体的な接触の中で形成されたものではなく、ラジオやテレビを通じて形づくられたものなのである。
 おそらく、アメリカのテレビを毎日見ている観客にとっては、惜しくも一昨年死去した怪優ピーター・セラーズが扮する主人公のしゃべる英語がいかにテレビの影響を受けてつくられた人工的なものであるかは、たちどころに理解できるだろう。ニューヨークの試写会のときにはなかったが、日本でみたバージョンには、付録として、ピーター・セラーズがチャンスのせりふを演技しようとして、自分からふき出してしまうリハーサル・シーンのフィルムが最後についていた。このフィルムを見ると、チャンスのせりふが、なまの英語といかに異なっているか、そしてそんな人工的な英語をピーター・セラーズがいかに天才的な演技で表現しているかがわかる。
 映画では暗示されるにとどめられているが、原作ではこんな人物がアメリカ合衆国の大統領にまでなってしまう。その成功は、まったく偶然につぐ偶然なのだが、彼をどんどん名士にのしあげてしまうハプニングは、もっぱら彼のしゃべることばとそれを受け取る側の理解とのあいだのユーモラスなくいちがいから生ずる。その意味では、チャンスのせりふは、すべて「名せりふ」であって、彼の成功は、彼のしゃべることがことごとく「名せりふ」と受けとられてしまうことによってなしとげられたのである。
 そうした「名せりふ」のうち最高にユーモラスなのは、彼がこれまた偶然に同席することになった大統領から経済状況についての感想を求められて、ほとんど発作的に語った次のことばだろう−−?鄭s long as the roots are not severed,all is well and all will be well in the garden.In a garden,growth has its season.First come spring and summer,but then we have fall and winter.And then we get spring and summer again.?A
 チャンスは、ただ自分の知っている草木の話をしたのだが、これが他の人々には不況と好景気のサイクルを論じたひじょうに哲学的なメタファーとして受けとられてしまう。高度メディア時代における言語理解について考えを深めるうえでも、これは必見の映画である。
監督=ハル・アシュビー/脚本=イェールジ・コジンスキー/出演=ピーター・セラーズ、シャーリー・マクレーン他/84年米◎83/ 7/31『CAT』




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