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ワイルド・スタイル
マンハッタンからハドソン河をこえた対岸のニュージャージー州のニューワークにWHBIという少数民族向けの放送局がある。毎週水曜日の夜中は、アフリカ・イスラム(バンバータの息子)というDJがホストする時間で、アフリカ・バンバータ、ロック・ステディ・クルー、DSTなどによる〈ズールー・ビート〉ミュージックや、これらをスペシャル・ミックスしたものにDJ自身による〈スクラッチズ〉を加えた猛烈にトレンディな音楽がたてつづけに流れる。
三月のある晩この放送をきいていたら、〈ズールー・ビート〉のサブ・カルチャーをまるごとつっこんだ『ワイルド・スタイル』という映画が出来、明日そのプレビューがあるというのだった。これにはいささか興奮し、当日、フィフティセブンス・ストリートのプレイハウスにかけつけた。
映画は思ったより短くて、体裁はドキュメンタリー・タッチなのに、とってつけたようなストーリーがあってどうもおさまりがわるいように思えたが、サウス・ブロンクスが〈ズールー・ビート〉、ラップ・ミュージック、〈フィディ・アート〉(落書き)、ブレイク・ダンスのメッカであり、そこではこれらが相互関係をもっていることをこの映画は余すところなく描いていた。いまにして思えば、監督のチャーリー・エーアンは、この映画がおさまりのよいものになるのをわざとはずしているのであって、ここであつかわれている〈ズールー・ビート〉もラップも〈フィディ・アート〉もブレイキングも、ある意味ですべてコラージュであるように、この映画も全体がコラージュの〈ワイルド〉なスタイルになっているのである。
ストーリーも考えてみると意味深長だ。いまニューヨークでは、日本にも来たキース・ヘリングにみられるように、落書きさえもが〈芸術〉の仲間入りをし、それがもともともっていた毒を失いかけている。この映画でも姿を見せるドンディ・ホワイトの〈落書き〉の相場は、一作につき六十五万円以上だと言われている。アマチュアの〈フィディ・アーチスト〉よる〈落書き〉も、いまでは街の装飾として市民権を得ており、映画にも〈ユニオン〉と称する若者の一団が建物の外壁を〈落書き〉でデザインするシーンがある。しかし、主人公のレイは、決してこういう仲間には加わろうとはせず、もっぱら夜中に地下鉄の操車場にしのびこんで、どぎつく華麗な落書きをすることに徹する。ニューヨークの地下鉄公団には〈反落書き局〉というのがあるように、地下鉄車輛へのスプレー落書きは、依然厳しく禁じられており、レイは、その意味で、〈反体制〉でありつづけようとするわけだ。
映画の大詰めは、アヴェニューAとセブンス・ストリートの角のトンプキンス公園の野外ステージに、ビジー・ビー、ロック・ステディ・クルー、ファンタスティック・ファイブ、グランド・マスター・クラッシュ、DSTといったいま最もファンキーな〈ヒップ・ホッパー〉たちが一堂に会し、〈ズールー・ビート〉、ラップ、〈スクラッチズ〉、ブレイク・ダンスの妙技をくりひろげるシーンなのだが、ここでレイの存在がかすんでしまうのは、レイの匿名精神に徹する姿勢からすると、むしろ当然なのであって、映画の演出の弱さのためではないのである。ニュー・ジャズ以後、久方ぶりにニューヨークで黒人とヒスパニックによる新しいサブ・カルチャーが根をはりはじめたことを感じさせるような映画である。
監督・脚本=チャーリー・エーアン/出演=リー・ジョージ・クイノーネス、フレッド・ブラザウエイト他/82年米◎83/ 9/14『キネマ旬報』
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