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ミッシング

 コスタ・ガブラスの最新映画『ミッシング』が上映される。『戒厳令』(一九七三)が日本で封切られたのが七四年だから、八年ぶりにガブラスの新作が見れるわけだ。
『ミッシング』は、アジェンデ政権下のチリに妻とともに渡ったアメリカの若いジャーナリストが、七三年の軍事クーデターにまきこまれ、失踪をとげた事件をドキュメントしたトマス・ハウザー『チャールズ・ホーマンの処刑』(古藤晃訳『~ッシング』Aダイナミックセラーズ)の映画化で、軍事クーデターが勃発した七三年九月のサンチャゴが舞台になっている。むろん撮影は、依然このクーデターを指揮したピノチェトの支配下にあるチリでは行なえないので、メキシコ・シティでロケされた。これは、何とも皮肉なことである。というのも、七〇年にウルグアイのモンテビデオで起こったツパマロスによる〈ダン・アンソニー・ミトリオン誘拐殺人事件〉を題材にした『戒厳令』のときは、撮影は、モンテビデオの代わりにチリのサンチャゴやバルパライソなどで行なわれたからである。『戒厳令』が七三年四月にアメリカで公開されたとき、チリはまだ極度の経済危機にあえぎながらも、革命政権を維持していた。
 コスタ・ガブラスといえば、この『戒厳令』のほかに、ギリシャで起こった〈宴*ブラキズ事件?誤植〉?あつかった『Z』(一九六八)、チェコ事件に関する『告白』(一九七〇)などの政治映画によって、七〇年代の熱い日々を映像によって挑発した監督の一人だった。彼の作品は、そこでとりあげられる題材が政治的であるというだけでなく、誰が誰に向かって語っているのか、その映像が誰の目でみられているのかという点で、徹底して反権力的であった。それは、あきらかに、権力と反権力とがほとんど誰の目にも明確に区別でき、そして両者が実際にマクロ・レベルにおいて対峙していた時代の反権力の側からの自己表現であった。
 新作『ミッシング』には、『Z』や『戒厳令』でみられたような明確な反権力のまなざしはない。むろんこの映画は、失踪したチャールズ・ホーマン(ジョン・シェア)をさがす彼の妻(シシー・スペイセク)と彼の父(ジャック・レモン)が、チリで目撃するクーデター直後の市内の惨状の描写や、在チリ・アメリカ大使館が彼らに対して示す虚偽にみちた態度をクールにみすえた描写を通じて、この軍事クーデターに対するニクソン政権の帝国主義的な介入が言いのがれのできないものであることを明らかにしている。しかし、そうした摘発を行なう目は、『Z』や『戒厳令』におけるような反権力の目ではなく、いわば拠点なき内部告発者の目なのだ。映像は、おそらく、これまでのガブラスの作品のうちで最も構成力に富み、美しくさえある。占拠した街にたむろする反政府軍の兵士たちの姿は妙に生まなましく、街には緊迫感がみなぎっている。しかし、これらは誰の目によってながめられているのだろうか?
 ここで、ガブラスの後退を語るのは安易すぎる。この映画が、彼としてははじめてハリウッドの資本で撮られているからといって、この映画が政治的に後退していることにはならない。これは、ユニバーサル映画に属しているが、これを製作したエドワード・ルイスは、反体制的なガッツのあるプロデューサーとして有名な人物である。だとすれば、むしろ、チリ事件に関する映画がなぜいまの時点になって撮られたかについて考えてみた方がよいだろ。
『Z』や『戒厳令』が、あの熱い日々に拮抗しえたのは、結局、権力の暴力に対して反権力の暴力というものがあること、そしてそのような暴力を行使しなければならない時があるということを、これらの映画が示唆することができたためだった。しかし、事態は変わった。権力はいまや、いかなる反権力的な暴力も、それを単なる犯罪として葬ることができるほど一切の暴力を国家独占する技術を身につけた。一個人には、反権力の名においていささかの暴力をふるうことも許されないが、国家権力は、国家の名において一個人をいつでも死刑に処することができるのである。
 考えてみると、こうした転機は、世界的には、チリ事件とともにはじまった。吉本隆明は、愚かにも、世界の「右傾化」は「中ソ紛争、中国ベトナム戦争、ベトナム・カンボジア戦争、ソ連のアフガン侵略・ポーランド弾圧といった近年の『社会主義』諸国の反社会主義的な行為によって」起こったと言っている(「週刊読書人」八二年十月十八日号)。ずいぶん社会主義政権も買いかぶられたものだが、吉本は一体、アメリカがチリに介入し、アジェンデの社会主義政権を倒し、またCIAの工作を通じて七五年には総督による罷免という形でオーストラリアのウィットラム労働党政権を倒し(これは「ソフトなチリ事件」と呼ばれる)、さらに、チリ事件の二の舞を恐れたイタリア共産党が、その最も戦闘的な部分を犠牲にして「歴史的妥協」政策に転向したといった一連の出来事をどう考えるのであろうか? ソ連が何か工作をすれば、たちまち西ヨーロッパに「反核」運動がわきおこると思いなしたり、吉本隆明の国際感覚は竹村健一や渡部昇一以下だと言うほかはない。こんな男をわれわれが反権力の〈思想家〉と思いつづけてきたかと思うと、われわれは、この過ぎ去った十年間をよほど徹底して反省・検証しなおしてみないことには、一歩も進めないという気がする。
 折しも、日本では、いわゆる「連合赤軍事件」、「土田・日石・ピース缶爆弾事件」、「連続企業爆破事件」、「自衛官刺殺事件」等々のこの十数年間に起こった反権力の〈暴力〉を裁く法廷が開かれ、あるいは開かれつつある。こうした出来事は、七三年のチリ事件以後、国際的にも国内的にも、権力の国家独占が急速に進み、反権力の拠点というものがもはや知のレベルや身体的無意識のレベルにしか存在しえなくなるような事態が昂進したという歴史性が忘れ去られるとき、単なるいまわしい犯罪とみなされてしまう。しかし、もしあの〈集団リンチ・殺人〉や〈浅間山荘銃撃戦〉が起こらなかったとすれば、チリのような国家権力による民衆の大量殺戮が起こっていたかもしれないのである。
 反権力集団を孤立させ、自滅に追いつめることができる技術、反権力の闘争を単なるギャングスターの犯罪におとしめることの技術、これらが確実に開発されたいま、コスタ・ガブラスは、チリ事件を反権力の立場から描くことはできない。『ミッシング』が、概ね、ニューヨークから息子の安否を心配してやってきた父親−−工業デザイナーとして社会的にも中流以上の位置にいる−−の目から描かれているのはこのためであり、むしろこの映画のポイントは、息子やその妻たちの〈左翼パラノイア〉を全く理解できなかったこの保守的なミドル・クラスの父親が、次第に権力の残忍さと悪辣さに目覚めるプロセスをみせることにあるのである。
 そうしたプロセスのなかでエドが彼の息子の妻ベスのことを徐々に理解してゆくことが、おそらく、この映画の最も積極的な部分だろう。ガブラスは、『ミッシング』の先作であるラブ・ストーリー的体裁の映画『Clair de Femme』(一九七九)について、「カップルというものは、社会の−−最も基礎的な細胞であり、そして最も政治的な構成単位だと思います」と言っているが、『~ッシング?宸?、権力による、〈Jップル〉iチャールズとベス)の破壊、そしてそれに触発された形で、性・年齢・イデオロギーを超えて形成される同志的〈カップル〉(エドとベス)の出発という観点からみるならば、ここには、チリ・クーデターが社会主義圏をも含めて全般化した時代における新しい反権力の糸口のようなものが見出せるかもしれない。ガブラスは、単なるノスタルジアでこの映画を作ったのではないだろう。
前出◎82/10/19『日本読書新聞』




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