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プリンス・オブ・シティ
合衆国でエスニシティのちがいが、言語、風俗、集団のちがいとしてはっきりしていたのは、一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけてであるが、今日でも、同じエスニシティ同士でかたまったり、協力しあったり、また異なるエスニシティのグループ同士が反目しあったりする傾向は決して失われてはいない。とくにチームワークを要求されるような世界ではエスニシティによる人脈は重要で、わけてもユダヤ系とイタリア系の人脈はひじょうによく組織されている。
シドニー・ルメットの『プリンス・オブ・シティ』でおもしろいのは、SIU(特捜班)摘発の突破口となるダニー・チエロたちのグループがイタリア系でかたまっているだけではなくて、このSIUの〈腐敗堕落〉を調査・摘発する〈警官汚職調査委員会〉の重要人物もイタリア系である点だ。ワシントンで采配をふるい、ニューヨークにも出掛けてくる連邦検察官ビクター・サンティマッシーノ(ボブ・バラバン)と、ダニーを〈密告者〉としてだきこむことに成功する特別検事補リック・カパリーノ(ノーマン・パーカー)は、その名の示すとおり、共にイタリア系だ。ただし、同じイタリア系でも、SIUの連中と委員会の司法官たちとのあいだには天と地ほどのちがいがある。問題のSIUの仲間(ダニー、ガス、ジョー、ビル、ドム)たちは彼らのイタリア人的なエスニシティに執着し、それによってたがいに結ばれており、仲間意識のために法を犯すこともあるわけだが、サンティマッシーノやカパリーノはエスニシティや仲間意識よりも国家や法の権威を重視している。とりわけサンティマッシーノは、ワシントン人ということもあってか、蝶ネクタイをしめ、ヴィクトリア調のあごひげをはやした外見といい、その気どったしゃべり方といい、まるでワスプ(WASP=アングロサクソン系でプロテスタントの白人、アメリカの支配階級)のようだ。カパリーノにしたところで、ニューヨーカーなのでサンティマッシーノよりは愛想がよいが、彼のエスニック・バックグラウンドは、その教養(彼の部屋には本がたくさんある)につつまれてしまってよく見えない。それに対して、ダニーなどは典型的なイタリア系アメリカ人で、その言葉や身ぶりは、スコセッシの『ドアをノックするのは誰だ?』、『ミーン・ストリート』に出てくるような猥雑な路上で仲間とけんかしたり、たわむれたりするなかでつちかわれたものにちがいない。
それゆえ、こうも考えられる。委員会が法と国家の秩序をかかげてSIUの〈腐敗〉を追求すればするほど、SIUのメンバーたちの連帯(それはいくつかのエスニシティで維持されている)は解体してゆくわけだから、ここには、法の秩序だとか正義だとか言う以前に、合衆国で−−まさにチミノの『天国の門』の時代から−−くりかえし行なわれてきたマイノリティの弾圧のパターンが見出せるのだ、と。SIUの刑事のなかには、フレンチ・コネクションの事件で押収され、市警察の保管室に収められていた大量のヘロインを小麦粉にすりかえ、横流ししたようなセコいのもいたらしいが、SIUがイタリア系やアイルランド系などのエスニシティで、さらにはエスニシティをこえた仲間意識で結束し、すぐれたチームワークを作り出した面を見のがすことはできない。映画のなかでは、ポール・チハラの甘美なメロディとともに何度か出てくるシーンでみられる感動的な−−しかし明らかに時代の趨勢はそれとは逆の方向に進んでいる−−仲間同士のいたわりや連帯感、こういうものはサンティマッシーノにはむろんのこと、リトル・イタリー育ちだというカパリーノにももはや理解できないだろう。
こうした連帯感は決してイタリア系とかユダヤ系とかいったエスニシティの狭いわくのなかだけにはとどまるものではないのであって、だからこそ、長年ヤクの密売情報を提供してきたプエルト・リコ人のヤク中が、ヤクを切らして電話をしてくると、ダニーは真夜中に大雨のなかをブロンクスまでヤクを求めて車をとばす。彼らの救いがたい状況への思いからダニーはSIUの内情を密告する気をおこすのである。だが、こうした連帯意識を安易にマフィアの〈仁義〉と同一視してはならない。むしろ、マフィアの〈仁義〉は、サンティマッシーノに象徴されるようなワシントン人におとらず非情な合理主義に貫かれているのであって、マフィアはかえってエスニシティに執着すると(従弟のダニーをかばって?柾?刑?誤植〉ウれるマフィアの組員のニック・ナポリのように)身の破滅を導くのである。
結局、アメリカの社会には、サンティマッシーノに代表されるような冷やかな正義と、闇取引の価格を口では言わず(録音されるおそれがあるから)メモに書いて示してすぐもみくちゃにし、さらにもう一枚メモ用紙を破いておく(字の跡が残っているおそれがあるので)マフィアの御用弁護士ブロンベルク(マイケル・ベケット)に代表されるような計算的理性とが力をふるっており、そのはざまでエスニシティや仲間意識は、思い通りに利用されているのである。
監督・脚本=シドニー・ルメット/出演=トリート・ウィリアムス、ジェリー・オーバック他/81米◎82/ 2/ 2『キネマ旬報』
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