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サイコセラピー
最近のアメリカ映画をみていると精神分析医の存在がひどく気になる。今年度(一九八一年度)封切られたもののなかでも、『£ハの人々』、嚴Eしのドレス』A『ハウリング』などに精神分析医が登場し、端役以上の役割を演じている。しかし、数のうえでは、テレビの女性ニューズ・キャスターの方が多いのであって、たとえば『他人の眼』、『ハウリング』、『オーメン/最後の闘争』、『目撃者』のヒロインたちはみなニューズ・キャスターだ。
そうだとすれば、最近のアメリカ映画で精神分析医の存在が気になるということは、映画をみるわたしを含めた観客側の条件の変化と関係があるに違いない。むろん、アメリカ映画やアメリカ社会の側にも原因がないわけではないのだが、それをしばらくおいて、日本の文化状況をみまわしてみると、日本ではいま、精神分析ばやりである。とくに女性雑誌は、人間関係(交際、愛情、セックスなど)から文化一般の問題を精神分析の立場からとりあつかう傾向がひじょうに強くなっている。女性週刊誌に付きものの占いも、結局、精神分析の一種なのだが、人生相談なども、このごろは精神分析学者や心理学者の仕事になっている。精神分析療法(セラピー)にも関心が高まっており、有名なセラピストのところには、一時間六千円以上の費用を払ってやってくる〈患者〉がひきもきらず、しかも最近の傾向は、〈精神異常〉の人よりもひじょうに軽度の神経症の人−−以前だったら酒をのんで忘れてしまうだろうような悩みや精神的トラブルの持主−−が多く来るという。
アメリカにも似たようなパターンがある。今日の日本に似た傾向は、アメリカでは、一九四〇年代から五〇年代にかけてひろまってゆき、今日では、『普通の人々』で息子(ティモシー・ハットン)がふさぎこんでいるのを心配した父親(ダーナルド・サザーランド)が、セラピストのところに相談にゆくよう息子に忠告するように、心の悩みは親や友人に相談するよりも、セラピストに相談する習慣が確立してしまった。
この映画のなかで、母親(メリー・タイラー・ムーア)が祖母に向かって、息子がいまセラピーを受けていることを話すと、祖母が「そのセラピストはユダヤ人かい?」とたずねるシーンがある。アメリカではセラピストはユダヤ人に限るという〈信仰〉があり、実際にセラピストの多くはユダヤ人である(似たような〈信仰〉に、洗濯屋は中国人に限るというのがある)。これは、ひとつには、精神分析の創始者ジークムント・フロイトがユダヤ人であるということもあるが、それ以上に、アメリカの精神分析学や精神分析療法がユダヤ人によってヨーロッパから導入されたという歴史がからんでいることによる。
ビリー・ワイルダー監督の『フロント・ページ』で、死刑囚のウィリアムズ(オースチン・ペンドルトン)が、ウィーン出身の医師エンゲルホッファー(マーティン・ゲイベル)から精神分析がらみの質問を受けるシーンがある。ここでエンゲルホッファー博士は、ウィリアムズがなぜ警官殺しをやったかを俗流フロイト主義の図式を使って解明しようとするのだが、ウディ・アレンをややうさんくさくしたような感じのウィリアムズとドイツ語なまりの英語をしゃべるこの医師とのやりとりが何ともおかしい。『キネマ旬報』一九七五年四月上旬号の岡山徹氏による「分析採録」から一部を引用してみよう。
エンゲルホッファー「父親を殺したいと思ったり、母親と寝たいと思ったことはないかね?」
ウィリアムズはキョトンとした顔をして、傍の保安官の顔をみる。
ウィリアムズ「この人猥談が好きなのかな?」
医者はだんだん乗ってくる。
エンゲルホッファー「中学校の頃に、自慰に耽ったことはあるかね?」
ウィリアムズ「いいえ、自分も穢さないし、他の人も穢した覚えはありません。皆をとっても愛していました」
保安官「じゃあ、あの警官は自分で自分の頭を撃ったってのかい」
エンゲルホッファー「話を手淫の方に戻すことにしよう。父親に見つかった事はないかね?」
ウィリアムズ「親父は家にいつもいなかったし、電車の車掌でしたから」
エンゲルホッファー「うん、そうか、これは重要だ! その制服があの警官の制服と結びつくじゃないか。警官がピストルを抜いた時、それは男の一物に見えたに違いない。それで母親をいじめる光景と結びついて・・・」
エンゲルホッファーの真剣な顔を見ながら、
ウィリアムズ「変なんだね」
これは、俗流化されたエディプス・コンプレックス理論を茶化したものだが、『フロント・ページ』の原作は一九二〇年代にベン・ヘクトとチャールズ・マッカーサーによって書かれ、ニューヨークのタイムズ・スクウェア劇場(アラン・モイルの『タイムズ・スクエア』の終わりの方でこの劇場の昔ながらのファサードをみることができる)で大ヒットした戯曲だから、このシーンはおそらくビリー・ワイルダーの脚色だろう。ただし、映画の医者エンゲルホッファー博士の故郷とされているウィーンでは、フロイトがすでに精神分析の世界的権威としての不動の地位を築いており、その亜流や俗流もふえつつあったわけだから、ひじょうに時代批判の精神にみちたこの戯曲が、俗流フロイト理論をパロディ化しても不思議ではない。しかし、一般的には、フロイト主義がパロディの対象になるのはもう少しあとのことである。
アメリカの社会に精神分析が浸透した直接の原因は、一九三〇年代にナチの大虐殺をのがれて大量のユダヤ人がヨーロッパからアメリカに渡り、そのなかに第一線の精神分析学者や精神科医がいたからである。が、もっと根本的な原因は、一九二〇年代を境としてアメリカの社会が急速に変化したことと関係がある。とりわけ、大量生産の技術が発達して今日流の消費社会の基礎が出来、また、新しいタイプのマス・メディアが日常生活のなかに次第に浸透していったことが、アメリカ人の生活様式を根本的に変えることになった。ラジオ放送は一九二〇年に営業開始され、テレビ放送は一九四一年に一般化されたが、これらのマス・メディアが広告・宣伝技術と結びつき、消費社会の形式に拍車をかけた。ダニエル・ブアースティンは『幻影の時代』や『アメリカ人』のなかで、そうした変化を詳細に記述しているが、最も重要な変化は、欲望をかきたてたり、一定の行動に走らせるために考案されたメッセージや暗示が、マス・メディアや教育機関を通じて個々人の生活や意識のなかにいや応なしに入ってくる条件が確立したことである。子供は親が教えなくても家でコマーシャル・ソングを口ずさむようになり、親よりも教師、さらには映画スターやスポーツ選手が日常生活の価値規準となってゆく。サラリーマン社会の層が厚くなり、職場と家庭との分離も完全に制度化するが、日常生活の分業もますます進み、出産や軽い病気も、祖母や年長者の智恵によってではなく、近代医学をおさめた専門医にたよるのがあたりまえのことになる。そして最後に、個々人の心の内奥までもが、外部から医学的に操作できるものとされ、〈内面〉のトラブルは、精神分析医や精神病理学者の仕事となる。
おもしろいことに、アメリカ人が一九二〇年代から五〇年代にいたる三十年間に経験したこのような変化を、われわれ日本人はこの十年間ぐらいのあいだに猛スピードで経験することになりそうな気配があることである。これまで日本は〈集団主義〉の国だと言われてきたが、最近はある種の〈個人主義〉が会社のなかでも家庭のなかでも浸透しつつある。コンピュータを導入したオフィスでは、事務仕事も、おのずから孤独な作業になってくるので、集団的チーム・ワークは弱まってくるし、年長者の経験よりもコンピュータの記憶の方が尊重されるようになる。家庭内でも−−特に若者のあいだでは−−テレビを居間でよりも自室でみる習慣が根づきつつあり、また、ウォークマンに最も典型的に現われているように、日常的な世界で集団のなかの孤立化が進んでいる。
問題は、このような〈個人主義〉が、一方ではたしかに、かつてのムラ的集団性からの解放感を与えるものの、他方では、あらゆるストレスを自分一人でひきうけなければならないような孤立感を生み出すことである。精神分析は、まさにこうした孤立感をコントロールするためにあるわけであり、また精神分析の流行は孤立感の増大がその一因だが、こうした孤立感が今後ますます昂進してゆくならば、やがては精神分析にも手におえない事態が生じてくるだろう。現にアメリカでは、一九六〇年代頃からそういう事態が出てきているわけで、そのことは、新興宗教への関心とか、ウディ・アレンの映画にみられるような、精神分析学的発想そのものへの痛烈な批判のなかで示唆されているが、〈サムの息子〉殺人事件、ジョン・レノンの暗殺、その他の〈理由なき〉無差別殺人などとも無関係ではないだろう。
その点で、ブライアン・デ・パルマの『殺しのドレス』は、アメリカ人の平均的なパラノイア(妄想)を表わしていると同時に、明日の日本で起こりうる事態を描いていると言えなくもない。デ・パルマが好んでとりあつかうパラノイアは、孤立化された意識が陥る代表的な精神障害である。『殺しのドレス』の冒頭に出てくる中年夫人ケイト・ミラー(アンジー・ディキンソンディキンソン)の妄想は、セックスを含むあらゆる人間関係から彼女が疎外されている不満を代償している。精神分析医は、患者の妄想をときほぐし、〈正常〉な人間関係を回復させる手びきをしなければならないが、その疎外が必ずしも特定の人物からの疎外ではなく、もっと漠然としたものである場合には、精神分析医の手にはおえない。ケイトが精神分析医ロバート・エリオット博士(マイケル・ケイン)にうったえる不満は、まさにそうした漠然とした不満である。便宜的に、柴田京子氏の「分析採録」(『Lネマ旬報』A一九八一年四月上旬号)を使って示す次の箇所には、あらゆる現実にうんざりし、人間関係を変えたくてうずうずしているケイトの気持がよく出ている。
「で、マイクとは?」
「うまくいってます」
「そりゃ結構だ」
「いえ、そんなにうまくは……今朝、例の一パツ特別サーヴィスがあったんだけど、もう頭にきちゃって。わたしヘンなのかしら?」
「で、頭にきたこと、言ったんですか?」
「もちろん言いませんよ。さわられたから呻いてあげたの……男の人ってそうされるのがうれしいんでしょ?」
「さあ……そうなんですか?」
「こんな話、させないでよ」
「カミつくならご主人にしてくださいよ。怒ってること、彼に言いなさい」
「あなたってベッドで最低よって?」
「そうなんですか?」
「ええ」
「じゃそう言いなさい」
「でも……わたしの方に問題があるのかも……わたしに魅力感じます?」
「もちろん」
「わたしと寝たい?」
「ええ」
「じゃなんで試してみないの?」
「……どうしてって、ぼくは女房を愛してるし、あなたと寝ることで結婚生活を危険に晒したくないんですよ。あなたは晒してもいいんですか?」
「わからないわ・・・」
これは、精神分析医の待合室での雑談ではなく、アメリカでは実際によくあるセラピーの一こまである。セラピーだからといって、別にそれほど〈高級〉なことをやるわけではないのだ。こんな会話につきあうだけで一時間ン十ドルももらえるのなら、セラピストほどわりのよい商売はないように思われるかもしれないが、実際問題として、このような?槙ウ者?誤植〉フ精神的トラブルを解決する気でも起こしたら、それは、もはやセラピストの仕事の範囲を越えてしまう。だが、社会のなかでの個人の孤立化が全般化し、なんとなく満たされない不満をいだいたケイトのような〈患者〉は実際にふえているのであって、それに比例してセラピストの方にも、それを解決できないいらだちが強まってゆくことになる。その意味では、『殺しのドレス』は、まさに、そういう〈患者〉にとりまかれているアメリカのセラピストのストレスをズバリ表現したものだと言えなくもない。直面する問題が、精神分析医自身を含めた他者との新しい人間関係のなかでしか解決されないことを知りながら、分析医は?槙ウ者?誤植〉ニのあいだにつねに一線を引いておかなければならないのだから、分析医ほど断絶の欲求不満を日々蓄積しつづけている者はいないからである。このような毎日をすごしていれば、エリオット博士でなくても、カミソリをふりまわしたくなろうというものである。
『普通の人々』がアメリカで封切られたとき、「この物語は教科書風の心理学に出てくることを色々あつかっているが、青年ハットンの精神医学的〈治療法〉は……いささかきれいごとでありすぎる」(『シネアステ』一九八〇年秋季号)という批判があったが、精神障害の要因が多様化し、複雑になっている今日では、ジャド・ハーシュが熱演したセラピストのように劇的に患者のトラブルを解決できる場合は少なく、そのために、最近とみに、精神分析そのものの機能を疑問視する声がアメリカではよく聞かれる(これは日本ではまだ起こっていない事態だろう)。たぶんそのためか、最近のアメリカ映画に登場する精神分析医にはマトモな人間はいない。
『ハウリング』のジョージ・ワグナー博士(パトリック・マクニー)は、まさにその格好の例だ。この人物は、はじめ、精神医学の権威者然とした顔で登場するのだが、やがて、彼の管理する精神医療コロニーが狼人間の巣窟であることがわかる。わたしは、一見こけおどしのホラー映画にもみえかねないこの作品をみおわって、その現代風刺にすっかり感心してしまった。大ざっぱに言って、わたしは、狼人間こそ現代人の置かれている姿だと考えるのであり、従って、精神分析医がまとめ役になってそうした狼人間を管理し、しかもその管理役がその役目をもてあましているというワグナー博士のコロニーほど、現代のアメリカ社会の一面を象徴しているものはないと思うのである。そして、そういう社会のなかではセックスも、もはや個々人を相互に結びつける媒介ではなく、個人と個人とが断絶したまま擬制の相互関係を体験する行為でしかなくなる。『ハウリング』に出てくるセックス・シーンで、行為がたかまるにつれて男と女の姿が狼に変貌し、性のあえぎが狼の唸り声になってゆくというのがあったが、これは、今日のセックスの実に鋭い−−しかも風刺精神にあふれた−−とらえ方だ。
アメリカで精神分析に対する批判が徐々にたかまってきているのは、これまでの人間関係や個人の状況が少しずつ変わってきているからである。すでに、いくつかの映画のなかにそのような徴候がみられる。たとえば、『タイムズ・スクエア』のなかで、トリニ・アルバラードとロビン・ジョンソンが演ずる二人の少女は、病院の精神科で出会うが、二人は意気投合してそこをぬけ出す。ここでも、精神医学はバカにされているわけで、病院をぬけ出した二人のその後の生活は、ニューヨークの猥雑な街で浮浪者、ホモ、薬中、異民族にとりかこまれながら自由奔放に生きる方が、精神医学のやっかいになるよりよほど健康なことなのだ、と言わんばかりに生き生きしている。
これが、『サンフランシスコ物語』になると、これまでのアメリカ映画があまりまともにはあつかってこなかった庶民的連帯感のようなものが強調され、それぞれに心に深い傷のある登場人物たちが、セラピストではなく仲間たちとの接触のなかで、その傷をいやしてゆくわけで、ちょっと、ひと昔まえの日本映画の世界を思い出す。これは、映画においても文学においても、ある種の〈個人主義〉のなかにナウな側面を見出す傾向のある最近の日本とはひじょうに対照的なことだと言えるだろう。
[普通の人々]前出[フロント・ページ]監督・脚本=ビリー・ワイルダー/出演=ジャック・レモン、ウォルター・マッソー他/74米[殺しのドレス]監督・脚本=ブライアン・デ・パルマ/出演=マイケル・ケイン、アンジー・ディキンソン他/80米[ハウリング]監督=ジョー・ダンテ/脚本=ジョン・セイルズ、テレンス・H・ウィンクルス/出演=ディー・ウォーレス、パトリック・マクニー他/81米[タイムズ・スクエア]前出[サンフランシスコ物語]監督=リチャード・ドナー/脚本=バリー・レビンソン、バレリー・カーティン/出演=ジョン・サベージ、デイヴィッド・モース他/80米◎81/ 9/16『キネマ旬報』
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