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映画の周辺

 映画の観客が減っているという。とくに洋画の場合、作品の内容、質、宣伝方法にかかわりなく入りがわるくなっているようだ。その原因は、民衆をコントロールすることにかけては相当進んだテクニックをもっているはずの広告代理店にもさっぱり原因がつかめないというからおもしろい。民衆のおそろしさがわかったか、と言いたいところだが、もし現代が全般的な操作の時代−−誰かが必ずしも〈陰謀〉をたくらまなくてもシステムが全体として自己保存と自己増殖のために構造的に自己を操作する時代−−だとすれば、映画の客の入りのわるさも、ひょっとして、支配の論理にみあったものなのかもしれない。
 実際、このごろのアメリカ映画の邦題のつけ方は、客の入りをわざと減らそうとしているとしか言いようがない。『フェーム』、『グロリア』、『シャイニング』、『ハンター』、『ラフ・カット』、『レイジング・ブル』、『プライベート・ベンジャミン』、『ハウリング』、『ナイトホークス』・・・といった例をみてもわかるように、邦題は化粧品の商品名のようなものと同じになっている。むろん、解説的なタイトルをつければよいわけではないが、原題をカタカナになおしただけの邦題というのはあまりに安易すぎるのではないか?
 とはいえ、ここには映画というものに対する日本の配給会社の姿勢が現われているのであって、その安易さは必ずしも配給会社の単なる怠惰さから出たものではなさそうだ。また、こういう邦題のつけ方は、観客に余分な先入観を与えるのを防ぐ利点があるとする主張もあるだろう。が、それならば、そういう邦題の映画を宣伝する際には、終始タイトルやキャストを紹介するだけにとどめ、作品そのものについての先入観を与えるようなことはやめるべきである。ところが実際には、新聞の広告やテレビの宣伝をみればわかるように、映画作品を封切まえに一定の型にはめて印象づけるというやり方は、映画の邦題が最近のように無内容になる以前も以後も変わっていないのであって、むしろその傾向はますます強くなっているのである。とりわけテレビによる映画の宣伝は、映画をみないうちからあたかもそれをすでにみてしまったかのような印象を与えようとしているような場合すらある。こうした操作にとって、邦題が中性的で無内容であることは、それをあとからどのようにも意味づけすることができるという点できわめて効果的なことになる。ただし、これはディレンマであって、作品の〈パッケージ〉(邦題)が無内容であればあるほどテレビによるその印象づけは効果的となるが、逆にそれが効果的になればなるほどその映画をわざわざ映画館へみにいく気にはならなくなるのである。
 ところで、劇場映画の人口は減っているにしても、テレビで映画をみる人口はふえている。問題は、同じフィルムをブラウン管でみるのと映画館のスクリーンでみるのとでは根本的にちがうことである。まず、テレビはどこでもみれるが、映画は映画館に行かなければみることができないという点で、みるということに対する能動性の度合が異なる。映画を映画館でみるということは、観客に依然集団性を共有させるが、テレビはますます一人でみる傾向を強くしてきている。かつてテレビは居間におかれ、家族でみられるのを常態としていたが、今日では、家族の一人一人がテレビをもつ〈パーソナル・テレビ〉の時代に入ろうとしている。テレビをたった一人でみても人々は視聴者同士、遠隔的にむすびついてはいるが、身体の接触しあうレベルで他人とテレビ体験を共有することはできない。さらに、テレビは明るい部屋でみられるが、映画は−−最近、映画館の内部が明るすぎるという苦情が出ているにしても、やはり−−暗闇のなかでみられる。この闇は、日常的な論理や慣習の支配する次元とは異なる次元に人をつかの間つれてゆくのであって、ますます都市から〈悪場所〉が消去され日常生活が一次元化する状況のなかで、かつての見世物空間にも似た脱・属領的なうさんくさい場を可能にする。これは、今日の演劇が、こうしたうさんくささや脱・属領性をますます失いつつある現状ではひじょうに貴重なことだろう。今日の演劇空間は、脱・属領的な、現状否定的な空間であるよりも、むしろ居心地のよい、楽しげな空間−−現状肯定的な空間、一種の実体テレビ−−になりつつあるのに対して、映画館が依然、痴漢やフーテン−−つまりは支配体制のマージナルな部分に住むアウトロー−−の数少ないすみかの位置をわずかに保持している。
 こう考えると、今日、映画がはやらなくなってきて、そのかわり演劇の方が客足をふやしており、舞台もますます驕奢なものになってきた理由がわかるような気がする。一言にして言えば、映画館という集団的な場は、今日の支配様式にはだんだん不都合になってきたのである。今日の支配様式——といっても、これはきわめて包括的・構造的にとらえられなければならないが——は、まさにパーソナル・テレビの視聴者を理想とするような方向に民衆を孤立させ、しかも一見バラバラで自由であるかにみえる個々人を遠くからマス・メディアのアメーバ状の網の目のなかにしっかりとらえておこうとする。ここでは、テレビのまえでいっしょに笑ったり、ホロリとしたりしている程度の〈連帯性〉——今日の商業劇場における〈連帯性〉もこの延長線上にある−−は許されるが、映画館の暗闇のなかで息をつめて暗黙に連帯しあうような集団性は歓迎されないのである。
 最近、映画の配給元では試写段階における若い〈OL〉の反応を重視する傾向がある。彼女らの反応は、宣伝や配給の仕方に強い影響を与える。だが、〈OL〉とは誰か? それは、単に会社勤務の女子事務員のことを指すのではなく、今日の支配体制が望んでいる被支配階級の理念型であり、従ってそれは女子事務員に限らず、支配システムに従属させられている者が大なり小なり共有している代表的な集団性なのである。〈OL〉とは、少なからぬ貯金と余暇をもっていて、『an an』、『nonno』、『TODAY』、『ELLE』、『MORE』、『クロワッサン』を読み、占星術を好み、ゴシップとセックスに関心のある−−具体的な女性たち一人一人であるよりも、むしろそういうものとして十把一絡げに想定されている抽象的な女性集団にすぎない。それゆえ、映画の配給会社や広告代理店が〈OL〉のなかに一定の反応を見出そうとしても、この〈OL〉はもともと多様な生きた集団なのだから、千差万別の反応しか得られないことになる。むろん、そういう存在を絵にかいたような女性や女性集団がないわけではないにしても、〈OL〉というものにはりつけられているレッテルは、きわめて作為的なものであることに留意すべきである。今日の支配的システムは、トップ・エリートを除くすべての大衆がいわば〈OL〉的になることを求めているのであり、とりわけ女性たちにそうなることを望んでいる。というのも、今日の産業構造は?枕∠揄サ?誤植〉フ推進によって、労働が高度の管理的操作と誰にでもできるルーティン・ワークとに分極され、前者が高度のテクニックや知的能力を要求するのに対して、後者は創造性や自発性を無用とするばかりか有害とすらみなすため、このルーティン・ワークの労働者である〈OL〉は、白痴化〈教育〉によってつねに彼女らの知性と感性を水準以下のものにとどめておかなければならないからである。
 この点で、輸入映画は、日本の支配的システムとズレを起こすことになる。アメリカ映画のなかにはあきらかにこうした白痴化〈教育〉の装置としてつくられているものもあるが、全体として映画は、たとえば〈OL〉雑誌などにくらべればそうした白痴化の装置としてははるかに無力である。このことは、最近の〈nL?落G誌でどのような問題が主要テーマになっているかをみてみればただちにわかることだろう。
『25ns ヴァンサンカン』(婦人画報社)では、〈一周年記念特別企画〉の①として「いま、知りたい男の結婚観」、②として「五つの星が示すあなたの結婚と人生」という特集を組んでいる。前者では○×式の心理テストとさまざまな分野の非有名人の体験談と称するものをのせ、後者では「?又驩恁ワ柱?蘭k京推命占星術」なるものによって読者の結婚運を占うことになっている。
『MARIAGES マリアージュ』(コレクションジャポンSA)では、〈特別企画〉として「もし青い眼の彼にプロポーズされたら」を置き、さらにこれよりもはるかに多くのページを、「データーで読む−−恋愛・結婚・生活」にあてている。
『若い女性』(講談社)も、「星占い特集〈問題ある愛の解決法〉」、「結婚特集」、「シングルライフセックス〈あなたの隣人の悩み〉」といった〈愛とセックス〉の問題に大量のページをさいている。
『TODAY』(文化出版局)の特集はずばり、「女の〈不安〉」であり、各界の有名人が「セクシーじゃない!の」「変わらない!の」「やせない!の」「怒れない!の」「年!なの」「何ができる!の」「ひとりぼっち!なの」「棄てられる!の」といった〈不安〉について意見をたれている。
『MORE』i集英社)は、「14歳から60歳までの五四二二人の女たちの証言」と称する特別企画「モア・リポート 性交編」に十五ページをさき、「シリーズ・結婚① 20代の離婚」では?妹*離婚」を通して「結婚」と「自立」を考える〉という十三ページの特集を組み、その結語を、「結婚に幻想を抱いて過大視することもない。離婚を重大に考えすぎることもまた必要ない」とむすんでいる。
 なお、上述の五冊の雑誌のうち、映画をあつかっているのは『TODAY』と『MORE』だけで、前者は見開きの二ページに『ガキ帝国』、『ブリキの太鼓』、『9時から5時まで』、『アルタード・ステーツ』の批評と紹介をつめこみ、後者は、たったの一ページで『プライベート・ベンジャミン』と『ブリキの太鼓』を紹介しているありさまである。
 あきらかに、こうした〈OL〉雑誌では、〈愛とセックス〉が主要なテーマになっており、それ以外の問題は、テレビを通じてつくられた暗黙の合意を判断基準としてとりあげられる−−有名なテレビ・タレントの意見や生活が紹介され、一旦テレビで話題になったことが二番煎じ的にとりあげられるのもこのためである。だが、こうした傾向とこれらの雑誌の読者の欲求そのものとを同一視することはできないのであって、いかにこれらの雑誌が売れているからといって、その読者の関心事が〈愛とセックス〉にしかないと即断するのは単純すぎるだろう。問題は、こうした雑誌であつかわれている〈愛とセックス〉がほとんどすべて、現代の支配的な社会機構、都市、マス・メディアを通じてエスカレートされた個人の孤立的生活のなかで生ずる抑圧された〈愛とセックス〉である点だ。すなわち、〈OL〉雑誌はある一定の〈愛とセックス〉を前提としているが、そういうものを積極的にひきおこしているより大きな社会・文化的なコンテキストについては完全に不問に付し、〈愛とセックス〉の〈悩み〉がきわめて個人的なレベルの問題であるかのような操作を行なっているのである。しかもその操作は、〈OL〉雑誌の関係者がその効果を理論的にすべて知っているような〈陰謀的・意識的〉な操作では必ずしもなく、むしろ〈時代精神〉とか〈時流〉とか〈流行〉とかに敏感に反応しようとする者が自動的にまきこまれ、知らず知らずのうちに推進させてしまうような総合的・構造的な操作であるだけにかえって始末がわるい。
 かつてグラムシは、「《おもしろい》要素というものは《純粋》なものでも、《自然発生的》なものでも、芸術的な概念のなかに直接溶かしこまれているものでもなく、外部から機械的に探求され、直接的な《富》の確実な要素として工業的に調合されている」(『獄中ノート』)ことを洞察し、成功した商業文学を「麻薬」と「阿片」にたとえたことがある。その意味では、〈nL?落G誌は今日の〈麻薬〉であり〈阿片〉であって、撤廃されるにこしたことはないのだが、支配システムはそれによって自己の存続と増殖をはかっているかぎりにおいて、その撤廃は支配システムの根底的な変革とともにしか起こりえない。それゆえ、いま必要なことは、こうした〈麻薬的〉機能の個別的・具体的・ミクロ的な摘発と批判であり、この〈麻薬中毒症〉が大衆の抑圧された欲求の結果であって、決して大衆の欲求そのものの帰結ではないことをミクロ・レベルで分析することである。
◎81/ 5/27『社会評論』




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