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フリークス

 フリーク(奇形人間)は、フェリーニの映画ではよく姿を現わすが、最近、フリークの存在そのものの変化ということを考えさせるフィルムを期せずして三本みた。一つはギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』の映画化であり、もう一つはデイヴィッド・リンチの『エレファント・マン』、そして最後はサトウ・オーガニゼイションが自主上映しているトッド・ブラウニングの『フリークス』である。
 フェリーニやブラウニングの映画に出てくるフリークは、いわば古典的なフリークであり、彼や彼女らは〈一般人〉とはちがう独自の世界に住んでおり、そうした他者性ないしはうさんくささによって〈一般人〉を驚かせ、〈一般人〉の惰性化した日常生活をつかの間相対化してきた。とりわけブラウニングの『フリークス』を今日みると、われわれ〈齡ハ人?誤植〉ェ当然のことと思っている〈歩く〉とか〈vライバシー〉iシャム双生児の姉妹は、その一方が恋人と逢うとき、他方はかたわらで知らぬふりをしている)とか〈タバコをすう〉(両腕のない男はいかにしてタバコに火をつけるか?)とかいったことが単に偶然の集積でしかないことを知るであろうし、にもかかわらずそのような人々が自律と連帯のなかで独自のコミュニティを形づくっているのに感動するだろう。
 ところが今日、フリークのそうした他者性や自律性はあまり尊重されなくなった。そもそも、一九三二年に封切られたときには新聞、PTA、宗教機関などの猛反対に出会い、ブラウニングの死の年になってやっと再上映されたこのフィルムが、一九六〇年代には、「カウンター・カルチャーの一部となり、六〇年代後半に大学でデモを行ない、街頭にくり出した造反する若者たちの神話学の一部となった」(レスリー・フィドラー『フリークス』)ということは、逆に言うと、フリークが本来もっていた他者性やうさんくささがそれだけ衝撃力を失ったということを意味する。なるほど、自らを〈フリークス〉と呼ぶことをよしとした六〇年代後半のアメリカのヤング・ラディカルたちは、支配体制に対する他者、異分子としての機能を果たしはしたものの、このことをフリークの側からみるならば、フリークの他者性が、〈tリーク?誤植〉ノ感情同化する者たちの人工的な他者性のなかに拡散してしまったということでしかないのである。
 六〇年代のニュー・レフト運動から出発したデイヴィッド・グロスは、エルンスト・ブロッホの〈具体的ユートピア〉の概念に導かれ、やがて七〇年代になって「文化と否定性−−カーニヴァルの理論へのノート」(『eィロス』三十六号所収)を書くが、そこであきらかになったことは、一九二〇〜三〇年代にはまだ−−たとえばブロッホ、ボガトゥイリョフ、メイエルホリドのように−−サーカス、定期市、カーニヴァルなどに託することができた解放装置としての夢が、六〇年代の後半にはすでにむなしいものになっていたというにがい認識であった。
 グロスによれば、中世ヨーロッパの放浪芸人や行商人たちがもっていた他者性−−別の世界、禁じられた世界の住人であるということ−−は、遅くとも十九世紀までに、組織された近代式の定期市、サーカス、カーニヴァルのなかで徐々に骨抜きにされていった。これらのうち、カーニヴァルの見世物は一番最後までそうした他者性を保持しており、どこにもフィット・インできない人間たちの場、定着性のない転々とした準・犯罪的な環境、醜悪さ、趣味のわるさ、どぎつさ、あやうさの場、〈普通〉の行動規範が一時中止される場−−としての異犯性や他者性は、一九五〇年代のアメリカのカーニヴァルのなかにもわずかにのこっていた。そしてそこでは、カーニヴァルは「正常な、平板化された生活に反対物を提供するだけでなく、自由のより大きな意味、ミドル・クラス的な社会通念のパラメーターの外側で〈危険に生きる〉道を提供する」機能を果たした。
 しかし、カーニヴァルのこうしたアナーキーな側面は、グロスによると、それが完全に企業化され、目的地から目的地をトラックや専用列車で−−従って民衆や街との異犯的なまじわりなしに−−移動するビジネスとなり、それがかつてもっていた〈放浪のコミュニティ〉としてのロマンティックな神秘性を失ってしまった。また、観客の方も、テレビや映画で奇怪なものをみることになれ(ただし、テレビは他者性を他者としてではなく、むしろ自己同化可能なものとして呈示する機能をもつ)、『スター・ウォーズ』や『未知との遭遇』をみる方がカーニヴァルの見世物をみるよりもスリルを感じるようになり、逆にフリークの見世物には残酷さや非人間的な差別をしかみなくなった。このため、カーニヴァルのオーナーやマネイジャーは、見世物のイメージをクリーン・アップすることに意を用いざるをえなくなった。
 アメリカの場合、一九六〇年代には、先に述べたような転化した形でのフリークの復権(カウンター・カルチャー)がみられたわけだが、フリークの見世物そのものは、逆にこの時代に人道主義の大義名分のもとに社会のなかから隠蔽されてゆくのである。むろんこのことは、フリークに対する野蛮な差別を軽減しはしたが、フリークを聖なる者として区別するもっと積極的な側面をも同時に抹殺してしまった。いまやフリークは『エレファント・マン』にみられるように、われわれと〈同じ〉人間でありながら不当な差別を受けてきたという側面だけが強調される。そして、ギュンター・グラスですら、『ブリキの太鼓』のオスカルをフリークとして映画化したいという申し出を断りつづけた末、そうした観点をとらないフォルカー・シュレンドルフにはじめて映画化の許可を与える。むろんグラスの原作では、オスカルはフリークであるよりも、もう少し抽象的な存在である。が、オスカルをフリークとして、聖なる奇形人間としてみるならば、この作品は、ナチズムという、世界を一次元化する歴史的な出来事のなかで、オスカル=フリークの他者性がどのようにしてこのプロセスに同化されてゆくかということの強烈なパラダイムになるはずなのである。ちなみに、第三帝国ではフリークの見世物は法律で禁じられていた。
監督=トッド・ブラウニング/脚本=ウィリス・ゴールドベック他/出演=ウォーレス・フォード、オルガ・バグラノバ他/32米◎81/ 5/ 6『月刊イメージフォーラム』




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