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9時から5時まで
コリン・ヒギンズ監督の『9時から5時まで』は、ひねくれた見方をすると、なかなか意味深長な作品で、それは、〈反体制〉とか〈造反〉とかいうものが高度管理社会のなかで果たす機能について考える素材を与えてくれる。むろん、この映画の表層の〈メッセージ〉はそんなこととは無関係で、例によって主演のジェーン・フォンダや製作関係者の周囲から伝わる〈雑音〉によると、この映画は、〈いまだ大企業のなかで働く女性の地位と権利は低く、男性優位は変わらない〉現状を批判し、茶化したものだという。
たしかに、表向きは−−つまり作品のもっている無意識のレベルを考慮に入れなければ−−この映画は、三人の女性社員(ジェーン・フォンダ、リリー・トムリン、ドリー・パートン)が男性至上主義の副社長(ダブニー・コールマン)に造反し、結果的に会社を改革する話である。造反の発端は、トムリンが副社長のコーヒーに砂糖とまちがえてネコイラズを入れてしまい、それに気づいた副社長から脅かされることに端を発するのだが、なりゆきで副社長を監禁した彼女らは、堅苦しい社内を片っぱしから改革する。タイム・コーダーを撤廃し、出勤を自由時間制にし、賃金の格差をなくし、クビになった昔の仲間を再雇用し、身体障害者にも職を与え、社内に保育施設をつくる。社内の雰囲気は一変し、まるで無秩序な空間になる。だが、リチャード・セネットの「無秩序の活用」を地で行ったのか、この〈変革〉は、社の営業成績を飛躍的にのばし、彼女らは、会長からじきじきにおほめの言葉をちょうだいする。まさに、造反有理となったわけである。
しかし、ひねくれた見方をすれば、この造反有理には裏がある。映画は決してそんなことを暗示しはしない−−従ってこれはわたしの曲解である−−のだが、考えようによっては彼女らの造反は会社の上層部によって仕組まれた会社システム改造劇だとみなすこともできなくない。有体には〈純真〉な三人の女性たちが偶然のなりゆきと感性のおもむくままに造反し、それが結果的に会社のプラスになってしまうのだが、システムのなかにある程度の造反的要素や批判の回路を残しておいた方がシステムはうまく機能すると考える〈対抗官僚主義的官僚制〉などのような方向を積極的に取りはじめている今日のアメリカの大企業にとって、男性優位主義のような過去の亡霊にしがみついている副社長などはシステムの障害以外の何ものでもない。とすれば、この会社の上層部が、事務所の湯わかし場に砂糖といっしょにまぎらわしい包装のネコイラズをおかせるぐらいのことをたくらんでも何ら不思議なことではないだろう。彼女らの造反を会社のトップ・レベルがはじめから承知していてやらせていたということも決してありえないことではないのである。
ところで、もしあらゆる造反がこのように所詮はシステムにとりこまれてしまい、造反はシステムの増殖に役立つだけだということになると、システムを根底からくつがえすような造反はどのようにして可能なのだろうか? すでにポール・ラファルグは、『怠ける権利』のなかで、労働への執着と信仰が続くかぎり、そこでの造反は所詮新たな労働への隷属にすぎず、従って最もラディカルな造反は労働の放棄すなわち怠惰にしかないことを力説した。
たしかに怠惰はシステムにとって最も危険な造反である。それゆえ、システムはこれまで、あらゆる方法で怠惰をとりこみ、怠惰の危険な否定性を取り除くことに腐心してきた。その結果、はじめは怠惰の強力な組織化であったはずのストライキも、今日ではシステムの生産力増強を刺激する重要な装置になっている。また、レジャーの大型化は労働時間の短縮(一種の怠惰)なしには不可能であり、フトン乾燥機は万年床の怠惰を、惣菜屋は料理することへの怠惰を必要とするように、今日のサービス産業は怠惰によって栄えている。
しかしながら、システムによる怠惰のとりこみは、果たしてどこまで成功するのだろうか? すでにヨーロッパの諸政府は、福祉の〈行きすぎ〉G?^?@) が人々を怠惰にし、システムの存続をあやうくするというので、福祉の削減を本気で考えているらしい。また、テロや内ゲバのような暴力的な造反をひそかに奨励し、それをくたびれたシステムのカンフルにしようとする傾向もある。が、こうしたアド・ホック・ポリシー(場あたり政策)のはてには、まさにジャック・ステルンベールが『五月革命 '86』で描いたような大規模なサボタージュの勃発がないとはいえない。そしてその運動は、指導者はおろか、綱領も、練り上げられた計画も全くなしにある日突然はじまるのである。
「増大する汚染にうんざりし、税金に追いつめられ、夭逝保証書を手にし、なんの慰めにもならない家庭と都会生活に疲れ果て、日々の労働で頭を朦朧とさせた多くの人々が、ついに、我慢できなくなって、すべてを放棄し、成り行きに身をまかせたのである。この責任放棄は、下は労働者から上は重役連中まで、あらゆる社会階層、あらゆる職業に広がった。事務員はスタンプを投げ捨て、労働者は退屈な労働の流れを破壊し、医者は患者の尻の穴に体温計を突っ込むのをやめ、俳優はつまらぬ苦悩に身をまかせることに嫌気がさし、役人はフル・タイムで働くことを拒み、教授は自分の根を断つことにのみかまける学生たちになぜラシ−ヌを教えなければならないのか分からなくなり、建築家はコンクリート製の糞の山をうず高く積み上げるのに吐き気を催した」(田村源二訳)
かくして地球は〈怠惰な時代〉に入り、人々は所有を捨て、ただ怠惰に暮すことのみをよしとするようになるのだが、ステルンベールの物語では、それから十年後の一九九六年、宇宙のかなたから人間そっくりの、ただし〈一九五〇年代の人間そっくり〉の異星人がやってきて、あっという間に地球は征服され、かつての勤勉社会がふたたび出現してしまうのであった。
監督・脚本=コリン・ヒギンズ/出演=ジェーン・フォンダ、ドリー・リパートン、リリー、トムリン他/80年米◎81/ 3/ 9『月刊イメージフォーラム』
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