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ニューヨーク・パラノイア
ケネディ空港(JFK)からマンハッタンまでたったの一ドル二十セントで出る方法があることは普通の旅行案内にはのっていない。それは、航空会社別になっているJFKの出口から車道を一本こえたところを走っている〈キュー・テン〉(Q10)という私営バスでまずクイーンズのキュー・ガーデンまで行き、そこから地下鉄のEまたはFトレインでマンハッタンに出る方法である。時間は、ノンストップのエアポート・バスより二十分ほど余計にかかるが、料金が安いので、ニューヨークに住む人々でこのルートを利用する人は多い。ちなみに、普通の旅行案内には、JFKからマンハッタンのトランスポーテイションとして、エアポート・バス、JFKエクスプレス、タクシーの三つが紹介されており、これらを利用すると、エアポート・バスで四ドル、JFKエクスプレスで三ドル四十セント、タクシーでは十五ドル以上かかる。
やぶからぼうにこんな瑣末なことをもち出したのは、ここでニューヨークのガイド情報を提供するためではなく、最近日本のジャーナリズムでとりあげられることの多いニューヨークが、たいていは、〈普通の旅行案内〉の観点からのみあつかわれており、〈キュー・テン〉の観点からあつかわれることはめったにないと思うからである。この傾向は、とりわけ言語によるニューヨーク表現において顕著であり、ニューヨークはもっぱら旅行者の目で語られており、たとえそれがニューヨーク在住のライターによるものであっても、ニューヨークに住みついている者の目からはめったに語られないのである。
もっとも、氾濫しつつあるニューヨーク情報の目的はもともと、ニューヨークを表現することよりも、むしろニューヨークを一つの象徴記号として操作し、その媒体の商品効果を高めたり、またニューヨーク観光(この春には四千人の観光客がJALでニューヨークに行くという)を幇助したりすることにあるのだから、それはあたりまえなのかもしれない。が、たとえその見られ方、利用され方が多様であるにしても、ニューヨークという物そのものはそこにあるのであり、それはわれわれがそこに住みこむことなしには決して自己をあらわにしないのである。だが、この〈住みこむ〉ということは、必ずしもそこで〈生活〉することを意味しない。それは、まず、われわれがニューヨークという物そのもののまえで〈自分〉を語ることをやめることであり、その物自身にみずからを語らせること−−まさにハイデッガーが「ひとが語るのではない、言葉が語るのだ」と言った事態を可能にすることなのだ。
この意味では、ニューヨーカーによって作られ、実際のニューヨークを舞台にしている映画ですらニューヨークに自己表現させるよりも、ニューヨークをダシにして何か別のことを言おうとし、つまりはニューヨークからパラノイア的〈みやげ品〉をもちかえろうとしている場合が多い。そこでは撮影の制約や効果次第で、ダウンタウンで起こるべき出来事がアップタウンで撮影されたり、ブルックリンの街頭をマンハッタンのそれとすりかえたりすることは日常茶飯である。
たとえば、最近封切られたジョン・カサヴェテス監督の『グロリア』は、ニューヨークを単なるデコールとして利用するのではなく、その街自身に語らせているという点で例外的な作品の一つだが、この映画ですら、劇的効果のためと思われるすりかえをやっている。それはこの映画のはじめの方のシーンなのだが、ヤンキー・スタジアムのそばのマカンブス・ダム・ブリッジをマンハッタンの側からブロンクスへ向けてやってくる一台の市営バスの標示窓に見える〈B??11〉という文字である。というのも、B??11のルートは、マンハッタンのワーズワース・アヴェニューのワンハンドレッド・エイティファースト・ストリートを起点とし、ワシントン・ブリッジをわたってブロンクスへ入るのであって、決してマカンブス・ダム・ブリッジをわたりはしないからである。この橋をわたるのなら、そのバスはB??34でなければならない。
しかしながら、こんな瑣末なことが気になるのは、『グロリア』が、この点をのぞけば、ニューヨークの街に自己を十分に語らせており、ニューヨークを単なる〈犯罪都市〉や〈観光都市〉などの象徴記号としては用いていないからにちがいない。それを立証している個々はいくらでもあるが、とりわけグロリアと幼いフィルがマフィアの追跡をのがれて地下鉄でマンハッタンを南下するシーンに見事に表わされており、そこでは寡黙でテンポの早いアクション・シーンのなかに実に多くの意味が含蓄されている。
ローカル線にのっていたグロリアとフィルは、ある駅で急行にのりかえるために電車を下りようとする。が、フィルがまだ下りきらないうちに客がどっとのってきたので体の小さいフィルは車内におしもどされ、そのままドアーが閉まってしまう。グロリアはあわてて、「フォーティセカンド・ストリートで下りるのよ!」とガラスごしにどなるがフィルにはどうもきこえていない様子だ。次の電車が来、グロリアはそれにのってフィルのあとを追う。ところがその電車にはまえからグロリアたちを追っているマフィアの子分たちがのっており、グロリアはその二人にみつかる。が、彼女があやうくなったとき、乗客に手をかす者がいてヤクザにちょっとスキができた瞬間彼女はハンドバッグからピストルを出し、ヤクザたちを釘づけにする。その間どれだけの時間が経過したのか、電車は駅にとまったのかはよくわからない。一度もとまらなかったような気もする。いずれにしても、グロリアがヤクザたちをホールド・アップしたまま電車がホームにすべりこんだとき、ホームで手をふるフィルの姿がみえたが、そこはグロリアが言ったフォーティセカンド・ストリートではなく、サーティフォース・ストリートのペン・ステイションだった。ということは、フィルは彼女が「フォーティセカンド・ストリートで下りるのよ」と叫んだのがきこえず、そのままもう一つ下の駅であるペン・ステイションまで来てしまったわけだ。
重要なことは、このシーンが単なるアクション・シーン以上のものを含み、とりわけここで、グロリアの〈内面〉が全く心理主義的な方法によらず、都市(地下鉄も都市の要素だ)と一体になった彼女の身体がみずからを語るというしかたで表現されている点である。そこでは言葉による説明は全くないが、このアクション・シーンのなかで彼女のめまぐるしく変化する〈内面〉が同時に表現されるのである。これがいかにすぐれた表現であるかは、まず、彼女がフィルと地下鉄にのったとき、彼女はどこへ行こうとしていたのかを考えてみればわかるだろう。フィルにあのとき、フォーティセカンド・ストリートで下りるようにと言っているところをみると、彼女はそこへ行こうとしていたと考えられる。彼女が最終的に行こうとしたのはペンシルヴァニア州のピッツバーグだから、フォーティセカンド・ストリートで下りれば、そこはポート・オーソリティ・バス・ターミナルでもあるから、そこからピッツバーグ行きの長距離バスにのることができる。が、結果的に二人はフォーティセカンド・ストリートのタイムズ・スクウェア駅では下りられず、ペン・ステイションまで来てしまったのである。そこでグロリアは別のルートを考えなければならなくなった。しかし映画は、彼女のこの思案を説明的に表現したりはせず、一つの有機的なアクションのなかで−−すなわち二人のヤクザをドアーが閉まるまで車内に釘づけにしたグロリアがフィルの手をとってバス・トレインの改札口の方に全速力で走るというアクションのなかで−−凝縮的に表現するのである。バス・トレインというのは、ハドソン河の下をくぐってニュージャージーへぬける英国風の地下鉄で、これにのればニューワーク駅に出られるので、彼女はそこから列車でピッツバーグへ行く方法に切り替えたのだ。
ここには、まさにドキュメンタリーの方法によって心理主義−−つまり映像を物自身の自己表現とするのではなく、心理表現の補助手段にする立場−−を越える方法がある。事実カサヴェテスは、彼を一躍有名にした『アメリカの影』がまさしくそうであったように、ドキュメンタリーの方法にきわめて意識的なフィルムメイカーの一人である。
ニューヨークをあつかいながら、『グロリア』と全く対照的な例はいくらでもある。ここでは言語によってニューヨークをとりあつかったもののなかから、ジェラール・ド・ヴィリエのサスペンス小説『Xパニッシュ・ハーレムのマラソン』i邦訳『ニューヨーク大追跡』創元推理文庫)をとりあげてみよう。ド・ヴィリエは、テロリスト、カルロスを追うマルコの乗る車について次のように書く。
「ようやくジョー(彼が運転している)は八丁目で西に曲がり、レキシントン・アヴェニューを三ブロックのあいだ北へ上り、カナル・ストリートへ曲がった。二車線で、露店の陳列台や中国人の店の溢れる歩道のついた広い幹線道路だ」(鈴木豊訳)
この記述は、地図で調べてみれば一目瞭然であるように、まさに〈シュールリアリスム〉的だ。ジョーがはじめに曲がる「八丁目」つまりエイス・ストリートはカナル・ストリートから十六ブロックほど北方にある。とすれば、イースト・リヴァー・ドライヴを南下してきた(と書かれている)この車がエイス・ストリートで「西に曲がり」、さらに「レキシントン・アヴェニュー」に入って「北に上り」となると、この車はカナル・ストリートからますますとおざかりながら、にもかかわらずカナル・ストリートに入ったことになる。これは、現実には不可能である。それに、実際にイースト・リヴァー・ドライヴにはエイス・ストリートへの入り口はなく、また、レキシントン・アヴェニューはエイス・ストリートまではのびてはおらず、そこを「西へ曲がる」ことなど土台無理なのである。
ところで、こういう−−現実のニューヨークに忠実でない−−作品にかぎって、〈カーライル〉だとか〈ティファニー〉だとかいう有名な固有名詞を随所にちりばめるのはなぜだろうか? 『スパニッシュ・ハーレムのマラソン』には、たとえば次のようなくだりがある。
「アロンソ・カマーノは〈ウンベルトのはまぐりの店〉の青い窓できれいに飾りたてられた正面を眺めた。横幕に〈リトル・イタリイーの中心に〉と書いてあった。これはまったく確かな真理だった。ヘスター・ストリートとマルベリイ・ストリートの交差点はニューヨークのイタリア人たちのメッカだ。
……『つっこめ』とマルコがわめいた。ジョー・コロンボは、テーブルをひっこめるようにマフィアの男を説得して戻って来たところだった。彼はアクセルを踏み込み、重いリムジンはちょうど黄色に変わった信号を越えた。同時に〈ウンベルトのはまぐりの店〉のドアが開き、苦痛に顔をゆがめたよろめくシルエットが姿を現わした。男はキャディラックのボンネットのほうに数歩歩き、とつぜん道端の溝の中に崩れるように倒れ、道路の舗装に顔を押しつけた。いくつかの赤いしみが明るい色の上衣の背中に拡がった」
あきらかに、ド・ヴィリエはここで映画的手法を利用しているが、リトル・イタリーや〈ウンベルトのはまぐりの店〉そのものを表現するつもりは全くない。彼は、このマルベリー・ストリート一二九番地に実在するUmberto?Fs Clam Houseがかつてマフィアの出入りのあったところとして有名なので、ここを−−というよりこの固有名詞を−−ストーリーにもち出すことは読者のマフィア・暴力・パラノイアをよびさますのに効果的だと考えたにちがいない。しかし、こういうやり方は表現を一元化してしまい、言語表現がもつ本来の可能性−−つまり物の現われを未完成のまま(?鮪ヒ影〉として)読者に提示し、その想像力による完成にゆだねること−−を放棄してしまうことだ。
この点は、たとえばソール・ベローによるニューヨークの街の描写をとりあげてみるともっとはっきりするかもしれない。ベローは、スーザン・エドミストン/リンダ・D・シリノ『文学的ニューヨーク』i邦訳『ニューヨーク文学散歩』A朝日イブニングニュース社)でも言われているように、ニューヨークの都市を「最高に吸収し、描写し、象徴的意義のレベルにまで高めた作家」の一人であるが、彼がニューヨークに来てからまだそれほどたっていない時期に書かれた『犠牲者』(一九四七)でも、すでに都市に対する彼の姿勢と理解をはっきりと示している。
「空には夕焼けが残って、大きなパン焼き炉に燃える炎を思わせていた。太陽はまだ落ちきらずに黒ずみかけたハドソン河の岸、ジャージー・シティ側の上空に、赤々とかかっている。河の水がにぶく光るのを見て、レヴィンサールは海に思いを馳せた。それは、脚下の地下鉄が暑熱のなかを疾走しているのが確実であるように、冷気のうちに息づいているにちがいなかった。足もとの通気孔の格子蓋の下を、電車が轟音をたてて走りすぎた。おそらく、登り勾配になった褐色岩の壁のあいだに、金属粉を吹き散らしていることであろう。レヴィンサールは小公園へ足を踏み入れた。ベンチが二重の輪型に並べてあるのだが、あいた席は一つもなかった。どの飲用噴水泉の前にも人の列ができていて、なまあたたかい水が、あるときはちょろちょろと、あるときは勢いよく、石だたみの水盤に流れ落ちている。緑の広場の四辺を囲む道路は、果てることなくつづく車の行列で、まだ夕焼けの残っている突き当たりの坂上から、蒼ざめた薄靄をかき分けるようにして、不格好な乗合バスが呻き声をあげながらおりてくる」(太田稔訳、新潮社、傍点引用者)
ベローの都市描写とド・ヴィリエのそれとの決定的な相異は、ド・ヴィリエがニューヨークの街を観光絵ハガキ的な効果をねらって、つまり読者に紋切型のパラノイアックな想念をよびおこさせる目的で描いているのに対して、ベローは街を(主人公の)歩みのなかで描き、その歩みと読者がその歩みを追う読みの歩みとを限りなく近づける点である。従って、読者がもし、ベローが描く街を熟知しているならば、読者は主人公の歩みを自分自身の読みとして街=テキストのなかに歩み入るのであり、また読者がもし、その街に不慣れであるならば、読者は主人公の歩みを地図をたよりに−−あるいはおぼつかない不安な足どりで−−追うことによって、この街=テキストのなかに歩み入り、さまよいとしてのレクチュールを試みるのである。すなわちここでは、読者と遊歩者とがたがいに交換しあうのである。
ちなみに、上述の描写で、主人公レヴィンサールが現実のニューヨークの一体どこを歩いているのかをせんさくするのは、ニューヨークで見知らぬ街に迷い込み、自分が一体どこにいるのかと自問するときの好奇ととまどいを与えてくれる。引用文に先行する叙述によるとレヴィンサールは、いましがた自分のアパートの「近所のイタリアン・レストラン」から外に出たところである。彼のアパートの位置は、第一章で「アーヴィング・プレイスにあるレヴィンサールの部屋」として示唆されているから、彼がこのときアーヴィング・プレイス−−つまりパーク・アヴェニューとサード・アヴェニューにはさまれたフォーティンス・ストリートからトウェンティンス・ストリートまでの通り−−の近くを歩いていることはたしかだ。しかも、このとき彼にはハドソン河とその上空の西日がみえており、彼の足下には地下鉄が走っている。とすれば、彼はフォーティンス・ストリートを東から西へ向けて歩いていることになり、「イタリアン・レストラン」はフォーティンス・ストリートのイースト・サイドにあることになる。そう考えれば、アーヴィング・プレイスの近くには、スティヴサント・スクウェアという小公園もあるが、彼が入った「小公園」は、その西側にあるユニオン・スクウェアであることがわかるだろう。それに、「緑の広場の四辺を囲む道路」があるのはユニオン・スクウェアの方である。
テキストを読むことが街を歩くことと等質の経験を与えるのは、何もベローにかぎられているわけではなく、ニューヨークの街にみずからを語らせることに成功した諸々のテキストすべてにあてはまることだ。それには、必ずしも視覚的な描写を必要とするわけではなく、たとえばリチャード・プライスの『レイディース・マン』(一九七八)のように、語りと会話だけでも読者を読み=歩み体験にさそうことに成功しているものもある。ここでその『レイディース・マン』の一節を訳出して例示するのはむずかしいが、そこではその俗語的いいまわし、言語的リズム、パンクチュエイションなどが、マンハッタンの街路の世俗的な雰囲気と息づかいと等価なものとなっており、言語と都市とが交換しあうのである。
ところで、ベローの『犠牲者』の主人公の歩みは、彼のために会社をくびになったと思いこんでいる男(オールビー)のパラノイアのために、彼自身被害妄想のパラノイアを昂進させてゆくプロセスであり、読者はその読みのなかでこのプロセスを追い、自分のなかにニューヨークの街とその人々についてのパラノイアを増殖させてゆくことになるが、ニューヨークには−−そこを歩む場合でも、またそれを読む場合でも−−何か人をパラノイアックにするところがある。その意味では、マンハッタンが一面でクレイジーなハプニングの街であり、また、それがしばしばパラノイアックな旅行者の目でしかみられない責任の一端はマンハッタンという街自身にあるとも言えるだろう。ある意味で、ニューヨークはそれに対するパラノイア的な反応しか許さない構造をもっているのかもしれない。とすれば、また、ニューヨークに関してそのパラノイアだけを描きつづけているマーティン・スコセッシの映画は、その意味でもっともニューヨーク的な映画だといえるかもしれない。
ル・コルビュジエは、一九三五年にはじめてニューヨークを訪れたとき、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』のインタヴューに答えて、「スカイスクレイパーは小さすぎる」と語ったが、『譫妄的ニューヨーク』の著者レム・コールハースによると、この発言ははからずもコルビュジエの屈折したニューヨーク・パラノイアを表わしており、それは、その後十五年以上にわたって彼につきまとうことになったという。
「ル・コルビュジエのまったく消耗的な野望は、機械文明の要求と潜在的栄光にみあった新しい都市を発明し、建設することである。
彼がこの野望を発展させているときすでにそのような都市すなわちマンハッタンが存在するということは、まさに彼の悲劇的不運である。
コルビュジエに課せられた仕事は明白だ。すなわち、構想している都市を形のあるものにするまえに、そのような都市はまだ存在していないということを立証しなければならないのである。彼の構想が形をなす当然の権利をうちたてるために、彼はニューヨークが信頼に価するということを破壊し、その現代性の魅惑的なきらめきを消殺しなければならないのである」
コールハースによれば、一九二〇年からすでに〈アンチ・マンハッタン〉はコルビュジエの戦略目標であり、マンハッタンのスカイスクレイパーとその住人たちをあざけり、罵倒する〈組織的なキャンペーン〉をしいてきた。が、その成果である垂直型の〈カルテジアン〉スカイスクレイパーは、皮肉にも、マンハッタンの都市の最悪な部分すなわち近代合理主義、プラグマティズム、効率信仰等の側面だけをパラノイアックに純化することになった。
これに対して、ニューヨークにパラノイアをいだきながら、それをコルビュジエとは全く正反対の方向でうけとめた人物がいる。サルバドール・ダリである。彼は、『_リになる方法』i邦訳『ダリの告白できない告白』二見書房)のなかで語っているように、一九三四年十一月、「ガラが貯金をはたき、ニューヨーク行きの『シャンプラン』号の切符を二枚買って」ニューヨークにわたった。そこで彼はたちまち「勝利をおさめ」、以後たびたびニューヨークを訪れるようになるのだが、ニューヨークでの彼の〈栄光〉と彼自身がニューヨークにいだいていたものとのあいだにはつねに大きなギャップがあった。言いかえれば、彼はつねにニューヨークに対してパラノイアをいだいていた。
それがはじめて明らかになるのは例のパン事件である。彼はニューヨーク入りをするにあたって、巨大なパン−−といっても彼の希望した十五メートルのものはカマがなくて焼けず、二メートル半のものになった−−をパリからもってきた。それを彼は記者会見の席にもち出し、これみよがしにしたのだが、それが一向に効果を発揮しなかった。そしてこのパンは、「そのパンを旗竿のように押し立て、その男根像を振りかざしながら、わたしは町に向かって出発した」にもかかわらず人目をひかず、結局、マンハッタンの路上でこなごなにくだけてしまう。
だが、ダリは、コルビュジエとはちがい、彼のパラノイアの〈危機〉を批判的にとらえ、そのパラノイアをさらに発展させる。すなわち彼は、パン=パラノイアが「町によって呑み込まれ、消化されてしまったのだということを、その酵母が、わたしを取り巻いている巨大な男根群の腹のなかを循環しているのだということを、また、それがすでに、わたしの未来の成功を生み出すダリ流の精液を製造しているということを」洞察するのである。
ダリは、彼の〈シュールリアリスム〉を〈リアリズム〉と化してしまうかにみえるマンハッタンに対し、「ニューヨークよ、なぜあなたはわたしの彫像をわたしが生まれるはるか以前につくりあげたのですか」と、親近感を表明することを隠さない。だが、彼はマンハッタンを無批判に受けいれたのではなく、それをまさに〈パラノイア的・批判的都市〉として受けいれたのである。すなわち、彼はコルビュジエとは全く反対に、マンハッタンの非合理的な、アンチ・モダンな側面、パラノイアを増殖する側面を評価した。ダリにとってマンハッタンは、合理主義やプラグマティズムの街ではなく、むしろ、非合理性や前近代性を格子状の街路のなかに孤立化させ、温存させている逆説的な、〈パラノイア的・批判的都市〉であった。
それゆえ彼は、最初の滞在中にすでに、この理念をもってマンハッタンの非〈パラノイア的・批判的〉な部分−−それはフィフス・アヴェニューに代表される−−に挑戦をいどんでいる。すなわち、フィフス・アヴェニューに店をかまえる高級ファッションの店ボンウィット・テラーからウインド・ディスプレイを依頼されたとき、彼が制作した「夜と昼」のテーマをもつ〈作品〉である。
「わたしには通常の陳腐きわまりないマネキンを使う意志は毛頭なかった。その店の倉庫のなかで、わたしはクモとクモの巣にまみれた、オフェリアのように髪の長い女のろう人形を二体みつけた。つもった埃のせいで、上等のシャンペンの壜がもつ霊妙な古色蒼然たる風格がそれらにそなわっていた。〝昼〟とナルキッソスの神話というテーマに基づき、敷物と家具を配置してから、アストラカン毛皮で覆われ、水を満たされた一個の浴槽のなかにマネキンを据えた。それに対応して、わたしは、黒いサテンのシーツで覆われた天蓋つきのベッドに身をひそめている〝夜〟を想像した。そのサテンのシーツには焼け穴があり、その穴をとおして、燃えるベッド(もちろん、それは模造品である)を枕にしたマネキンを見ることができた。その眠れる女の枕頭には、宝石で身を飾った亡霊が認められた」(山根和郎訳)
しかしながら、非〈パラノイア的・批判的〉マンハッタンは、このダリの挑戦をあっさりかわしてしまった。というのも、彼が朝の二時までかかってこの〈作品〉のセッティングを完了し、翌日ふたたびそこへ行ってみると、〈燃えるベッド〉は撤去され、裸のマネキンにはおおいがかけてあったからである。
「きみは、きみのニューヨーク・パラノイアをいっしょにつれてきたんだね」
「バッファローにはバッファローのパラノイアがあるのよ」
−−ウィル・ペリー『ホーム・イン・ザ・ダーク』
[グロリア]前出◎81/ 3/20『美術手帖』
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