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普通の人々

 ロバート・レッドフォード第一回監督作品『普通の人々』をみると、アメリカの中西部にも−−アメリカの支配階級を形づくっているワスプ(WASP=ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)の牙城にも−−ニューヨークあたりではもう慢性化しつつある〈社会病〉がようやくはびこりはじめたことが実感される。
 ヴェトナム戦争の時代にアメリカの文化や社会がラディカルに変化したということは、今日では通説になっている。しかし、アメリカ合衆国全体からすれば、そうした変化はごく一部の出来事で、それが広大な合衆国のすみずみ、多様な社会層の全体にまで浸透するには、それから十年以上の月日を必要としたのである。なにせアメリカ合衆国というところは、ニューヨークやロサンジェルス、サンフランシスコのようなところは別として、ジョン・ブアマンの『脱出』に出てくるようなおそるべき辺境地帯がまだまだ残っているからである。が、七〇年代の後半には、六〇年代に一部で湧出したカウンター・カルチャーや反体制運動の要素がアメリカ全土に、そして保守的な中・上流階級のあいだにもじわじわと浸透しはじめ、アメリカ人の日常生活には、かつてのバカでかい車(ナッシュとかポンティアックなんていうのがありましたナ)やパッパッと使い捨てるティッシュ・ペイパーやペイパー・タオルに象徴される消費主義にかわって、〈スモール・イズ・ビューティフル〉や〈セイブ・エナジー〉(省エネではなくて節エネ)のあい言葉がゆきわたり、ニューヨークなどでは数年まえまではふんだんに使わせてくれた紙ナフキンを特にたのまなければ出してくれないようなピッツァ屋(ピッツァは日本のラーメンにひってきする)まで出てくるようになった。
 こうしたドラスティックな変化は、一面では、アメリカが〈健全さ〉をとりもどしたということでもあるが、現実には、何事にも身のこなしの早いニューヨーカーなどは別として、大多数のアメリカ人は、あらゆる部分で新旧交替が激烈に進むこの過渡期のなかでとまどい、混乱させられていると言った方がよいだろう。そこでは、ピルが発達したためにフリーなセックスが一般化したものの、何のためにセックスするのかわからなくなるとか、信仰や伝統、民族性をきずなとした人間関係がくずれ (〈求[ツさがし〉は、そういうものがくずれたからこそ流行した)、従来流の家庭やコミュニティが崩壊の危機にひんするとかいった社会現象が深刻な問題となり、とりわけ、夫婦、親子の問題が表面化してきた。また〈夫婦〉や〈家庭〉というものは本当に必要なものなのか、〈セックス〉や〈結婚〉は何も男と女のあいだだけに限られず、男と男、女と女もセックスし、結婚してもよいのではないか、といった問題もまじめな社会問題になってきたのである。
 この映画は、アメリカでは、予想以上にヒットし、レッドフォードはすでに監督としてのクレジットを獲得したようだが、それは映画の出来不出来以上に上述のような社会事情がからんでいるはずである。映画自体は、ダーナルド・サザーランド、メリー・タイラー・ムーアの達者な役どころをそろえ(息子役のティモシー・ハットン−−故ジム・ハットン二世−−も悪くない)、手がたい作品になっているが、アメリカのジャーナリズムがこの映画を実質以上に高く評価し、ほとんど口をそろえて絶讚するのをみると、今日のアメリカ社会で何が一番の関心事であるかがよくわかるような気がする。ちなみに、この映画についての最近のスクラップのなかから、ジャーナリズムの反応ぶりをいくつか引用してみよう。

『普通の人々』は、〈寡黙な権威と激しい感受性をもって演出され、強烈な感動をよびおこす映画〉である。「このブリリアントに仕上げられた映画を感動に涙せずしてみることはほとんど不可能だ」(キャサリーン・キャロル『デイリー・ニューズ』八〇年九月十九日)
「これは、疑いなく、本年度の最高作に近いアメリカ映画であり、評価がどうであれ、この家族と同じ苦悩を耐えしのんでいる者には深い感動を経験させるはずだ」(アーチャー・ウインステン『ニューヨーク・ポスト』八〇年九月十九日)
「『普通の人々』は、最も上質のアメリカ映画を代表している。繊細な技巧と効果的な演技による重厚な作品である」(ジム・ライト『ザ・レコード』八〇年九月十九日)

 たしかに、この映画には、アメリカに蔓延しつつある〈社会病〉から回復する二つの方法が示されてはいる。これまでのアメリカの中産階級の社会や家庭は、すべてキレイごとで維持されてきた。性を抑圧し(そのために、一九五〇年代にはペッティングが性風俗となる−−つまりキレイごとのセックスだ)、不満があっても言いたいことを言わずに自分をおさえることが〈正常〉であるとみなされた。そんな抑圧社会に住む若者たちが精神的におかしくなっても不思議ではない。ふだんはスポーツなどで解消されていても、何か事が起こるとこの抑圧はすぐさま表に出てくる。『普通の人々』のコンラッド青年の場合、兄とヨットのりをしていて遭難し、兄を失ったことがきっかけとなる。彼は、自分が兄を死なせたという自責の念をいだき、それが昂じて自殺をはかる。命をとりとめ、四カ月間精神病院で治療を受けたあともその自責の念は消えず、悪夢にうなされて目ざめることもある。
 アメリカ人は、気分が長くすぐれなかったり、精神的な悩みがあると−−まるで歯医者にでもかかるように−−精神分析医をたずねるのだが、コンラッド青年も、父にすすめられて精神分析医のクリニックを訪れる。この映画で一番ドラマティックなシーンは、コンラッドが精神分析医のところで自分を発見してゆくプロセスだろう。バーガーというユダヤ人の分析医(ジャド・ハーシュ好演)は、コンラッドがはじめてそのクリニックをたずねると、ステレオか何かを修理していて、ひどくさえない感じなのだが、面接の回をかさねるごとに、この男がなかなかのテクニシャンであることがわかる。一見なげやりにみえる彼の素振りは、患者が自発的に自分を発見するための挑発であった。そして、コンラッドは、彼のたくみな挑発にのせられて、〈tァック・ユー!〉という−−それまで決して口にすることのなかった−−露骨な言葉を発し、それがきっかけとなって、それまで自分を抑圧していたものの一部が解除されるのを経験する。
 考えてみると、アメリカのドラスティックな変化は、レニー・ブルースらが公衆の面前で、「ファック・ユー」や「ファッキング……」(「ウォット・ファッキング・タイム・イズ・イット?」というふうに使う)を堂々と口にするところからはじまったのだった。そしてその後の趨勢は、もともと労働者や下層階級のものだったこれらの言いまわしが、中・上流階級の言葉のなかにも侵入してゆくことになった。あらゆる意味で、キレイごとで済ませることはもはやナウではないのであり、そんなことに固執するベス(コンラッドの母親)のようなタイプは、この時代から引退するしかないのである。その意味で、ベスが夫(サザーランド)に愛想をつかされて家を出ていったのは、いわば時代の趨勢だった。とすればベスの出ていった朝、庭で父と子が途方にくれたようにぽつねんとすわりこんでいる最終シーンは、今日のアメリカの中・上流家庭の姿をスナップ・ショットしていると言えるかもしれない。旧時代は去りつつあるが、新しいものはまだ来ないという……。
監督=ロバート・レッドフォード/脚本=アルビン・サージェント/出演=ダーナルド・サザーランド、ティモシー・ハットン他/80年米◎80/12/26『キネマ旬報』




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